第38話 リリーの小説8
「やあ、願いは変わらないままかな?」
そう言うと男は、右手人差し指の炎を顔の横に据えたまま、自分の顔を僕の顔に近づけた。
「何のことだ」
僕はこの男との会話など、すっかり忘れていた。男は前のめりの姿勢からまっすぐに立ち直り、しばらく僕を見ていた。
「ホットコーヒーを作ってやるのだろう? リツってやつに」
この男が言ったことを、僕は過去に言った気もした。でも、あまり思い出せない。炎を出していない方の手を腰にあてて、男は僕の返答を待っているようだった。
「そんなこと言ったかな?」
僕がそう言うと、男は獲物を狙う捕食者のように、ゆっくりと正面を向いて僕を見た。
「残りの寿命と引き換えに叶えたいお前の願い。それが、リツにホットコーヒーを作ることだ」
「……僕がどうやってコーヒーを作れるようになるんだよ」
僕は男の話に乗ってみた。話だけでも聞いてみるつもりで……。
「お前の魂を、他の誰かの体に移すのだよ。お前がコーヒーを作り終えたら、お前の寿命は私がもらい受ける」
「僕の寿命を取って、どうするんだ」
男は僕のベッドの端に腰を下ろし、僕の瞳の奥を見るように凝視した。
「煮るなり焼くなり、好きにするさ。私がもらったものは私の自由だ」
「そうしたら、僕はどうなる」
すると男はまた立ち上がり、右肘に左手の甲を添えた。
「寿命がなくなれば生きてはいられない。しかし、お前の寿命はなくなっても、魂がなくなるわけではない。どうなるのかは言えないがな」
「どうして?」
「……そう言う決まりだ。死後の世界を、生きた人間に教えることはできない」
男は指の先の炎を見つめながら、少し笑みを浮かべて話していた。僕は今の状況が夢なのか現実なのか、よくわからなかった。僕は男の正体を確かめるべく、男に質問した。
「君は何者なんだ」
「私か……何だと思う?」
「……悪魔」
すると男は左手で顔を覆い、笑い出した。
「……まあ、何とでも言ってくれ。他に聞きたいことはないか?」
僕はおもしろい夢を見ている気分になった。ここ最近、リツの将来をあれこれ心配していたから、こんな夢を見ているのだと思い始めた。僕は深く考えずに、男に質問した。
「どうしてすぐに、僕の寿命を取らないんだ?」
すると男は指の炎を大きく燃やし、目を見開いて僕の顔をのぞき込んだ。そして、ねっとりとした言い方で、僕に言葉をかけた。
「いいか……これは契約だ。お前の意思を確認するのは、決まりなんだよ」
僕は一瞬にして、この男の瞳と言葉に戦慄した。これは夢ではないのか? 僕の鼓動が大きくなるのを感じた。すると男は僕から離れ、部屋の中をうろつき出した。
「これは、夢じゃないのか?」
「夢……夢ねぇ。この世界を現実というのなら、これは夢じゃない。現実だ。俺と契約を結び、寿命と引き換えにお前の願いが叶えば、この世界でのお前の人生は終わる」
僕は男の言葉が本当だと思えてきた。僕は寒気がして、かすかに震えが出た。男はまだ、部屋をゆっくりと歩き回っている。
「そうだった、これを言わなければならない。お前がひとたび俺と契約を結べば、どんなに後悔しようとも取り消すことはできない。いいか、わかったな」
「……何だか怖くなってきた」
僕がぼそっとそう言うと、男は僕の方にゆっくりと向き直り、落ち着いた口調でこう言った。
「やめてもいいさ。無理強いするのは禁止事項だ。……私は帰るよ」
そのとき、リツの顔が浮かんだ。リツの笑顔、リツの自由、リツの将来……。僕がいなくても、いや、僕がいない方がリツは幸せになれるんじゃないのか。でも……本当にそうか? 僕はリツに何ができる……?
「待ってくれ! ちょっと考えさせて……」
「リオ。私がお前の元を訪ねるのはこれで最後だ。よく考えるんだな……」
男は僕に射るような視線を向けたあと、視線を外してまた部屋をうろつき出した。そして男は、ぼそぼそと言葉をこぼす。
「リツは、お前に相当尽くしているなぁ。知っているぞ。まるでお前に人生を捧げているようだ」
僕は、男の言葉に気分が悪くなってきた。男は続ける。
「リツはお前の何だ? お前はリツを何だと思っている……?」
男は真顔で僕を見た。僕は男から視線を外すと、視線が定まらずに言葉も出なかった。
「いいんじゃないか? 礼としてリツにコーヒーを作ってやっても……」
僕は頭がくらくらしてきて、集中することができなくなった。リツのためには、どうしたら……? そして僕は、他にも湧いて来ているいろんな考えをみんな心の奥に押し込めて、何もかもを振り切るように、この男の契約に合意してしまった。
「わかった。僕の願いを叶えてもらう代わりに、僕の……寿命を渡す」
「いいだろう」
そう言うと男は、僕の胸に左手を当てた。すると、その手が僕の体の中へすっと入っていった。そして男がその手を僕の体から出したとき、淡く光を放つ物体をつかんでいた。その光の塊と僕の胸は、紐のような光の線で繋がれていた。
「これがお前の体を動かすエネルギー、寿命だ。そしてお前の願いを叶えたとき、私はこの糸を切って、この寿命をいただく」
僕が契約に合意してから1分ほどだろうか? 僕はすでに後悔していた。僕が黙っていても、男は淡々と話を続けた。
「今はダメだな。リツの家にはコーヒーを作る材料がない。そうだな……リツは明日もここへ来るだろう。ここでコーヒーを作ってやるのはどうだ?」
僕はまだ黙っていた。冷や汗が僕の顔を伝う。
「リオ、もう後戻りはできない。私がお前の魂を他の人間に移したら、リツのためにコーヒーを作るんだ。いいな」
「……嫌だ……死ぬのは嫌だ! このまま何もしないでいれば、僕は生きられるはず……」
「それはできない」
そう言うと、男は寿命の塊を見つめながら、僕にこう言った。
「この寿命をお前の体から出してしまった。もうお前は人間として、もって1日くらいだろう。リツにコーヒーを作って死ぬか、作らないで死ぬか。そのどちらかだ」
「願いを叶えなかったら、寿命は取れないんじゃないのか?」
「私にお前の寿命をくれるとお前が言うこと。契約の条件はそれだけだ。願いを叶えてやるのは、単なる私のサービスだ」
「だましたな!」
男は黙ったまま、真顔で僕を見つめた。そのあと、重々しくこう言った。
「もう一つ忠告がある。この契約のことを他の者に話せば、この糸を即座に切ることになる。覚えておけ」
男はそう言うと、右手の人差し指の先に燃えている炎を吹き消した。するとまた辺りは暗闇になった。かと思うと、僕が
「夢……かな?」
僕は自分の胸を見ようとしたが、布団がかかっていて見えない。あと1日。本当にあと1日で僕は死んでしまうのか? 明日リツにコーヒーを作れなければ、僕は最期の願いを叶えることもなく、この人生を終えてしまう。……本当に? 信じられない。だって、いつもと変わらない風景だ。僕は目を閉じると、いつの間にか眠っていた。
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