第35話 リリーの小説5

 リツは前日の言葉通りに、翌日も病室へやって来た。母もリノも、不思議そうにリツを見ている。リツは母にすすめられて、ベッドの脇の丸椅子に腰をかけた。僕はリツに聞いた。

「リツ、今日も来て大丈夫なの?」

「ああ。俺今、無職だからよ」

 リツのバンドは解散して、リツは事務所も辞めていた。最近は、僕の周りでは誰もテレビも見ないから、そんなことになっているとは気がつかなかった。

「どうして辞めたの?」

「もういいんだよ。お腹いっぱいだ」

「後悔しない?」

「1年かけてじっくり用意して辞めたんだ。むしろ、ほっとしてるよ」

 そう言うと、リツは缶コーヒーのタブを起こしてプルタブを切り離し、そのコーヒーを飲み始めた。

「あ、悪りぃ。自分だけ飲んじゃって……すみませんね」

 リツは僕に謝ったあと、母とリノの方を向いて、また謝った。そして、飲み物は飲めるのかと僕に聞いた。僕は、ストローで飲めると言った。

「じゃあ、何か飲みたいもんあるか? 今度買ってくるよ」

「僕も、久しぶりにコーヒー飲みたいな」

「これ飲む? 飲みかけだけど」

 僕は、リツの優しい態度がおかしかった。リツが自分の飲みかけをくれようとすることも、嬉しかった。それで、笑いが込み上げて来て、げらげらと笑った。こんな風に笑うのは、久しぶりだった。

「……何がそんなにおかしいんだよ」

「はははっ……母さん、ストローある?」

「あるわよ」

「ああ、私が」

 するとリノがストローを引き出しから取り出し、リツに渡した。リツは缶コーヒーの穴にストローを入れるのに苦戦していたので、僕はまたげらげらと笑った。

「お前、人の苦労を笑うんじゃない」

 そう言ってリツは、僕の口にストローを近づけた。僕は久しぶりにコーヒーを飲んだ。

「ありがとう、リツ……ありがとう」

「ありがとうって2回言ったな」

「うん。ありがとう」

「おう」


 リツが毎日来るようになってから1ヶ月くらいして、僕は病院を退院した。僕は実家で暮らすことになった。リツも地元に帰り、今度は僕の実家に毎日来るようになった。僕はリツと一緒に、話すリハビリも続けた。僕はますます話せるようになっていった。

 それから、リツは車椅子の僕を押して、時々散歩するようになった。リツは、僕をベッドから車椅子へ移動させるのも、その逆も上手くなった。

 春のある日の夕暮れどき。僕たちは夕日に向かって進んでいた。僕はリツとゆったりした時間を過ごせて幸せを感じていたけど、体が自由に動かせたらと思わずにはいられなかった。2人で並んで歩いていたことが、どんなに幸せなことか、今ならわかる。今は、リツの肩に腕を回すこともできない。そんなことを考えていると、リツが僕に「寒くないか?」と聞いた。


 秋の終わり、いつものようにリツと話をしていると、いつものようにリノがやって来た。リノは手にたくさんの買い物を持って来ていた。それを見て、母がリノに近づいた。

「リノちゃん、いつも悪いわね」

「いえ」

 リノが買い物袋をテーブルの上に置き、一つ一つ商品を出している。それを母が棚にしまっていた。その中から、リツはあるものに目がとまった。

「インスタントコーヒー……」

 リツのつぶやきに、リノが気づいた。

「作りましょうか? おばさん、お台所を借りてもいいですか?」

「いいわよ」

 リノの言葉に、リツは視線をそらして遠慮した。

「いや、いいよ……」

「砂糖とクリームのことですか? リオさんから聞いてますよ」

 そう言ってリノは微笑んだ。僕は、リツがコーヒーに砂糖とクリームを入れるのが苦手だと、リノに話したことがあった。僕は、自分の心の中に何か嫌なものが湧いてくるのを感じた。


 リノはお湯を沸かし、4人分のブラックコーヒーを作った。そして、1つのマグカップに砂糖とクリームを入れて、スプーンでコーヒーをかき回した。そのあとリノはリツの元へ行き、そのマグカップを無邪気に差し出した。

「はい、リツさん。砂糖とクリーム入りのコーヒーです」

「ありがとう……」

 リツがそのカップを受け取ったとき、僕は震えた。血が頭に集まっているようだった。僕は嫉妬していた。リツにではない。リノに嫉妬した。コーヒーを作ってもらったリツに嫉妬したのではなく、リツにコーヒーを作ったリノに嫉妬してしまったのだ。

 そのコーヒーをいつもリツに出していたのは僕だ。僕の役目だった。いや、僕の……特権だった。僕にはもう、リツにコーヒーを作ってあげることができない。リノの笑顔を苦々にがにがしく思いながら、僕は胸に大きな穴が開くような感覚を覚えた。


 僕はリノが好きだった。結婚したいくらいに好きだった。リノは何も悪くない。だけど僕は、リノがリツにコーヒーを作ったあの日以来、リノと上手く話せなくなった。そして、母にも当たってしまうようになっていた。

「インスタントコーヒーは飲みたくない」

「あらリオ、あなた、好きだったじゃないの」

 母が、そう言いながらインスタントコーヒーの瓶を片付けている。リノは心配そうに母を見ていた。

「缶コーヒーを買っておいて。リツが飲むと思うから」

「じゃあ、今度買って来ますね、リオさん」

「うん……」

 僕はリノに礼も言わず、そっけない返事をした。そのとき、家のインターホンが鳴った。リツだった。リツは今日も、僕を散歩に連れ出した。


 僕たちは、舗装された川沿いの道を、ゆっくりと進んでいく。季節は冬になろうとしていた。

「リオ、お前最近、変だな」

 リツが、僕の車椅子を押しながら話す。

「俺にも言えないことかよ」

 僕はまだ黙っていた。すると、リツがこう言った。

「いいぜ。俺にも、お前に言えないことくらいある。お互い様だな」

 それを聞いて僕は、口を開いた。

「リツ……僕、もうリツにコーヒーを作ってあげられない」

「そんなこと……」

「もう、リツに何もしてやれないよ!」

 するとリツは、僕の頭に手を乗せて、僕の髪をぐしゃぐしゃにした。

「お前がいてくれるだけで、俺は救われてるんだぞ。そうだ、お前は俺を救ってるんだ。偉いな」

 そう言うと、リツは僕の髪を整えだした。

「リオ。俺はお前が生きてくれてるだけでいいんだから」

 僕はリツの言葉を聞いて嬉しかった。でも、心は晴れなかった。それでも、母やリノには普通に接しようと心がけるようになった。


 年を越して、正月が来た。リツは僕の母が作ったおせちを食べながら、テレビを観ては僕に話しかけている。そんな日の昼過ぎ、双子の姉のリサが、自分の子ども2人を連れてやって来た。時々家に遊びにくる子どもたちは、リツにも慣れていた。

「リツぅ」

 そう言って、厚着をした6歳の男児がリツに駆け寄り、リツの胡座の上に座った。それを真似して、4歳の女児もリツに駆け寄る。リツが力強く2人を抱き締めると、2人の子どもは声を上げて笑った。子どもたちが走り回る中、テレビでは、神社に押し寄せる参拝者の人波を映していた。

「初詣かぁ……」

 つい口に出てしまった僕の言葉を、リツは聞き逃さなかった。

「初詣、行くか?」

「いいねぇ。みんなで行こうよ」

 リツの言葉に父も賛同した。

「初詣なんて、何年振りかしら」

「私も全然、行ってなかったわぁ」

 リツの母親と僕の母もその気になっているようだ。僕は今回も、リツに甘えることにした。

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