第34話 リリーの小説4

 リツの熱愛の噂も落ち着いてきた頃。久しぶりにくつろいでいた夜に、リツから電話がかかってきた。

『よお、久しぶり。元気か?』

「元気だよ。リツは?」

『おお……今、ちょっと会えねぇかな?』

「家に来るの?」

『いや、お前んとこも俺んとこもダメだ』

 そう言うとリツは僕に、ある店の住所を知らせた。店の受付で、リツの言う通りにある名字を告げると、名前を聞かれたので答えた。すると、店員は僕を奥の個室に通した。店員が個室のドアを開けると、そこには1人で席に座っているリツの姿があった。リツは僕を見ると、無言で軽く手を挙げた。

「元気そうだね、リツ」

「そうか?」

 リツは軽く返事をして、肉や野菜を網の上にのせ始めた。僕はあまりにもリツがのんびりした態度だったので、時間が惜しくなった。

「今日は僕に、何か用事があったの?」

「用事ねぇ……用事と言えば、用事かな……」

 リツは、はっきりしない様子で、網の上の食材を見つめている。

「リツ、ふざけないでよ。僕だって暇じゃないんだよ。まあ、今日は別に……」

「リエと別れた」

 僕の発言をさえぎったリツの言葉を聞いたとき、僕は頭の中に細い氷の矢が刺さったような気分だった。

「え……?」

「振られちゃったの、ボク」

 そう言うと、リツは焼けた肉や野菜を皿に取り分けた。ジュウジュウ焼ける音がなくなり、網には熱気だけが漂っている。

「なんで? どうせあの週刊誌、嘘なんだろ?」

「あら、よくご存知で」

「リツ、ふざけないで! リエ、なんて?」

「なんてって……浮気するやつとは、一緒にいられないってさ」

 僕は、昔リツの部屋から出てきた女性を思い出した。リツの香水の匂いがしたあの人……。でも、リツはあの頃とは違うはずだ。

「リツ、あの女優とは完全に誤解なんだろ? リツはリエのために売れなきゃいけないって頑張っていたし、リエの願いでタバコもやめたんじゃないのか?」

「おいおい、恥ずかしいことを言うんじゃねえよ。……紛らわしいことをした俺が悪い。それに、昔のことを考えると……浮気がダメだって言うんなら、もうダメだろ?」

 僕は納得ができなかった。今のリツは違うんだ。昔のことも反省して、改心して、今のリツになったはずなのに……。

「僕がリエと話すよ」

「いやぁ、やめてくれ。もういいんだよ。一応、お前に報告だけはしておこうと思ってさ。お前、全然食ってねぇじゃん。俺の焼いた肉が食えねぇってのか」

そう言うとリツは、新しく焼けた肉をまた僕の皿の上にのせた。

「一応の報告なら、電話でもよかったんじゃないの?」

「電話はほら、盗聴でもされてたらダメじゃん」

「盗聴されてたら、ここの場所もバレてるよ」

「そうだね」

 リツはまた、肉や野菜を焼き出した。すました顔をしている。こんなときは、リツが感情をごまかして表情を作っているときだ。

「リツ……寂しいの?」

「……そうだな」

「……悲しい?」

「悲しいな」

「つらいの?」

「うん……」

 リツの口元が、一瞬だけゆがんだ。それを見て、僕も胸をつかまれるような思いがした。

 僕は翌日も仕事の予定だったが、結局、朝までリツといた。店は24時間営業だったので、2人で4時まで居座った。リツをタクシーに乗せた後、僕は始発の電車で家に帰った。


 リツがリエと別れて2年が経った。リツはその間に、誰と付き合うこともなかったようだ。でも、僕はリツの女性関係を詳しくは知らない。ただ僕に、自分の彼女だとリツが紹介してくる人がいなかったというだけだ。

 僕の方はというと仕事が一段落いちだんらくし、時間的にも経済的にも余裕が出てきた。そして僕はやっと、リノにプロポーズする決意をした。僕は以前にも何度かリノに指輪をプレゼントしていたので、サイズは知っていた。

 仕事が休みの日曜日。僕は一人で電車に乗り、都心へと向かった。ついに婚約指輪を買うときが来た。僕は急いで改札口へ向かおうと、階段を駆け降り始めた。そのとき、僕は足を踏み外し、訳のわからない景色がぐるぐる回る中、意識を失った。


 目を覚ますと、定期的に鳴る高い機械音がする。口と鼻は何かがかぶさっているようだ。そして、白い天井が見える。固定されているのか、体を動かそうとしても動かない。すると、ノックのあとに扉の開くような音がして、誰かの話し声が聞こえた。

「お母さん、休まれてますか?」

「お気遣い、ありがとうございます」

 そのあと、僕が寝ている右側から1人の看護師が僕をのぞき込み、「あ! 気づかれました⁉︎」と聞いてきた。そして左側から実家にいるはずの母が来て、泣きながら僕の名前を呼んでいた。看護師はまた、「わかりますか?」と聞いてきた。

 僕は看護師に返事をしようとしたが上手くいかず、その代わりに少し長く目を閉じて目を開けた。僕は首から下の体を動かすことができなくなっていた。


 僕が泣くと、母も泣きながら、僕の涙や鼻水をふいてくれた。夜中に僕しかいない病室で泣くと、見回りに来た看護師が僕の涙や鼻水をふいてくれた。


 数日経って、リノが来た。リノは僕の顔を見ると、目に涙を溜めていた。

「リオさん、私、しばらくここにいますから」

 僕は目でうなずいた。


 それから1ヶ月くらい経ったある日、リツが来た。僕は少し声を出せるようになっていた。リツは申し訳なさそうな顔で、僕に話しかけた。

「来るのが遅くなって、悪かったな」

 僕は「ありがとう」と言った。でも、上手くは言えなかった。リツは、無言になって僕を見つめている。僕は、「リツ、仕事は?」と聞いた。リツは聞き取ってくれた。

「今日は休みが取れたから、ゆっくりできるよ」

 僕は、「忙しいのに、ごめん」と言った。

「……俺の方こそ、遅くなってごめんな」

 リツはそう言うと、僕の右手を握って泣いていた。僕はその光景が目に入りながら、リツの手の温もりを感じることができない自分を遠くに感じていた。


 僕のケガが治った頃、リノはこちらに越して来た。母は僕の借りている部屋から病院へ通っていた。この頃から、僕は上手く話すためのリハビリを始めた。リノも付き合ってくれたが、今ひとつ身が入らなかった。なかなか変化のない自分の声に、やる気がなくなっていたからだ。リツは仕事の合間を縫って、僕に会いに来た。僕はリツに会う度に、なくなっていたやる気が少し復活した。


 そして、事故から約1年が経った。母もリノも相変わらず、僕に付き添っていた。会話の方は、僕はほどほどには話せるようになっていた。そんなある日、朝からリツが病室にやって来た。

「おはようリツ。今日は早いね」

「おう」

 今日は病院の休診日で、午前中から面会ができた。それ以外のときは、面会は14時からになっていた。リツは今日はどのくらいの時間をここで過ごしてくれるのだろう、と僕は考えていた。リツは、ライブツアーでのライブの様子やスタッフのおもしろい癖など、いろいろ話して聞かせてくれた。昼になり、リツは昼食を摂りに一旦病室を出たが、午後になると、また戻ってきた。それで結局、面会時間の終わりまで病室にいた。

「リツ、今日はありがとう」

「うん。じゃあ、また明日な」

 明日とはなんだろうと僕は不思議に思ったが、リツはさっさと帰ってしまった。

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