第29話 本になったとき

 ホットコーヒーが嬉しい11月。リツさんにブラックコーヒーを頼まれた私は、マグカップを持って食堂に入った。

「リツさん、コーヒーです」

 リリーたちの様子を見ていたリツさんは、私に振り返って「ありがとう」と言った。

「掃除は大丈夫なのか?」

「はい。今日の分は全部終わりました」

「そうか」

 リツさんは食堂の椅子に座ったまま、マグカップのブラックコーヒーを飲み始めた。しばしリツさんを見つめていると、その美しさに改めておののきそうになる。リツさんにコーヒーを作ることは、私の喜びであり、癒しでもあった。

 リツさんはマグカップから口を離すと、ちらりと私を見て、また視線を外した。

「リリーが本に入って、37年になる……俺も、人生の半分をこの姿で過ごしたことになるな」

「……そうなんですか……」

 私は返答に迷った。リツさんの話の続きを聞いていいのかわからなかった。それに、リツさんとはいつも短い会話しかしないので、リツさんの珍しい打ち明けに、私は少し緊張していた。

「朋世は、リリーが本になったときのことは聞いているのか?」

「いえ……」

「……リリーが死ぬ少し前、ロイがアッシュリリーを病室に持ってきたんだ。体にいいっていう植物と勘違いしてな」

 リツさんが語り始めたとき、リリーが話に気づいて声をかけた。

『リツ⁉︎ 何の話をしてるのっ⁉︎』

「お前が本になったときの話だ」

『えっ? どうしたのリツ、そんな話して……』

 すると、青年姿のラウがリリーの本を抱えてこちらへ近づき、リツさんの席の近くにリリーの本を置いた。そして、ラウはリツさんの隣の席に座った。タユは小さい姿で、ラウの近くに浮いている。

「何だろうな。リリーの話がしたくなったんだ」

『何? 人のことを懐かしむみたいに。私、まだ消えてないわよっ!』

「そうだな」

 リツさんは力なく微笑んだ。リリーは、話の内容を聞いてきた。

『で、どこまで話したの?』

「ロイがアッシュリリーを持ってきたところまでだ」

『ロイ、未だに気にしているわね。自分のせいだって……』

 リリーは、そのときのことを話してくれた。ロイさんは当時、趣味で植物の研究をしていた。それで、滋養強壮効果のある幻の植物と勘違いして、アッシュリリーを持ってきたという。

『それが、家の庭に突然咲いてたっていうんだから、今考えるとあやしいわよね』

 アッシュリリーは、咲いているときは白いユリのような花で、花の中には赤と青の模様が少し入っているのだという。リリーの病室にアッシュリリーを持ってきたロイさんは、その植物の葉を細かくちぎって急須に入れると、ポットのお湯を急須に注いだ。そうしてできた液体を、リリーが飲んだのだ。その翌日に、リリーは死んでしまったのだという。

 リツさんは、リリーの本に少し手を触れると、静かに口を開いた。

「あのとき俺がとめていれば、もしかしたらリリーは普通に生きることができていたかもしれないな」

『リツ、またその話? 私、そんなことはないと思うわ。ちょうど寿命だったような気もするし……こうしてまだ話ができているんだから、私はアッシュリリーに生かされたんだと思うの』

 そのとき、食堂に三佳さんが入ってきた。

「あら、今日はみんなでおしゃべりしてるの?」

『私が本に入ったときの話をしてるのよ』

「えっ?」

 三佳さんは驚いた表情をしていた。そして椅子に座ると、肘をついて両手を重ねた。

「じゃあ、私が人生を取られた頃の話ね」

『そうね……えっと、どこまで話したかしら? ああそうそう、私が死んだところね! それからお葬式が終わって、ロイがリツを家に呼んだらしいのよ。この本をリツに返そうとしてね。本の中の私は気がついたら2人の声だけ聞こえてきたから、思いっきり叫んで2人を呼んだの。それがこの本での生活の始まりね』

「私が人生を取られたのは、そのすぐあとだったのよね」

 三佳さんは当時親しくしていたロイさんから、アッシュリリーをもらったのだそうだ。ロイさんは、リリーが飲むのに使ったアッシュリリーの残りを、よかれと思って三佳さんにあげたらしい。三佳さんは持っていた箱に花の部分だけをちぎって入れておいた。すると、三佳さんが次に箱を開けたときにはアッシュリリーの花は灰色になり、その強烈な匂いを嗅いだ三佳さんの人生は、リリーの本へと移ってしまった。

「目覚めると、34歳だっていうのに高校生の制服姿になっちゃって、恥ずかしいやら訳がわからないやらだったわよ。家の中は見たこともないものばかりで、私はすぐに外に出たわ。兄の家は遠かったから、何人かの友達の家に行ったの。でも、自分の名前を忘れてるから名乗れないし、みんな知らない人に対する態度で……。最後の望みでロイの家に行ったの。でも、自分から玄関のチャイムを押す勇気がなくて玄関先でうずくまってたら、外から帰って来たロイが私に声をかけたのよ。ロイは私のことを覚えていたの」

 それから三佳さんはロイさんの部屋に入ると、箱に入れておいた花のことをロイさんたちに話したそうだ。三佳さんの左手には「LISA」という文字が表れ、リリーの本と照らし合わせて、アッシュリリーとリリーの本には何か関係があるのだろうということになったらしい。そして、ロイさんは三佳さんに対しても責任を感じることになってしまったのだ。

「ロイは可哀想なのよ。人のためを思ってしたことが裏目に出てしまって……私、もっともっとロイに笑って欲しいわ」

 三佳さんがそう言うと、リリーは喜んだ。

『三佳、ありがとう! 三佳がロイのお嫁さんになってくれて、私、とっても嬉しいわ!』

 そのとき、リエさんがマグカップを持って食堂に入ってきた。

「何何、何の話?」

 リエさんは三佳さんの前にマグカップを置きながら問いかけた。

「リエ、ありがとう。あのね、リリーが本になって、私が人生を取られたときの話をしてたのよ」

「ああ。三佳の話は聞いたことあるけど、リリーはえっと……葉っぱをお湯に浸して飲んだんだっけ?」

『まあ、そんなところね。ところで、何か匂いがするけど、何の匂い?』

 リリーの質問にリエさんが答える。

「三佳が飲む用に、麦茶を温め直したの。最近、寒くなったからね」

『三佳、つわりは大丈夫なの?』

「もう大丈夫ね。それより、お腹が出てきたのよ」

 そう言うと、三佳さんは自分のお腹に手を当ててさすった。

「三佳は痩せてるから、わかりやすいんじゃないかな?」

「そうなのかしら」

 リエさんの言葉に、三佳さんは笑顔を見せた。そのとき、リリーの話を最初に話し出したリツさんは、静かにコーヒーを飲んでいた。私は、リツさんが人生を取られた時の話が気になった。

「あの……リツさんはいつ……」

 私が控えめな声で聞くと、リツさんも静かに話した。

「俺は色々整理して、リリーが本に入った1年後に今の状態になったんだ。アッシュリリーの匂いを嗅いでな」

「……アッシュリリーって、そんなにたくさん咲いているものなんですか?」

「いや、アッシュリリーは一輪しか咲いていない。1人の人生がリリーの本に取られると、また同じ場所に咲くんだよ」

「へえ」

「それで、俺の人生を取ったあと、またロイの家の庭に咲いていたアッシュリリーをロイが鉢植えにしたんだ。それでロイがずっと管理してたな。花だけ取ってリエに使った時は、人生を取ったあとに、鉢植えにまた花が咲いてたよ」

「そうなんですね……」

 私が深く興味を持って聞いていると、リリーが笑顔で私を見ていた。

『朋世、わかった?』

「うん……わかったと思う」

「わかったと思う?」

 リツさんは私の断定をしない言い方に、苦笑いをしていた。私はリツさんを不快にしたかと思い、焦ってこう言った。

「いや、わかりました!」

「……うん」

 リツさんは私を見て、笑いながらうなずくと、また静かにコーヒーを飲んだ。

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