第08話 ロイさんの部屋
倒れたリオの
ロイさんがリオの手首を少しつかんだあと、リオを抱き上げて食堂の出口の方へ歩みだした。私は、リオの
リツさんがリリーの本を確かめ、「リオの人生の記載がなくなっている」と言った。私がリオを見つめていると、ロイさんが私に声をかけた。
「大丈夫だよ。眠っているだけだ」
自分が作ったコーヒーを飲んでリオが倒れてしまったので、自分に責任があるのかもしれないと少し恐れた。そして、私のせいにされるのではないかという不安もあった。こんなときに自分の心配をしてしまう自分に、幻滅したりもしていた。
「あっ、リオ!」
目を覚ましたリオに、最初に気づいたのはリエさんだった。
「俺、寝てた?」
「寝てたわよ、1時間以上」
リエさんはそう言いながら、ほっとしたような笑みを見せた。
リオは朝とは変わってしまった自分の格好を見て、「懐かしいなぁ」と言った。自分が普通の人間になったと悟ったようだった。リオは全てを覚えていた。人生を取られる前のことも、取られたあとのことも。倒れる前と違っていたことは、自分の名前を思い出したことだった。
「俺、自分の名前を思い出したよ。
「……裕也、君のコーヒーにアッシュフラワーの花びらが入ってしまっていたみたいなんだ。リノはブラックコーヒーを持ってきたって言っていたから、多分、風に飛ばされて、知らないうちに……」
ロイさんが説明すると、リオは何も気にしていないという態度でこう言った。
「良かったじゃん。元に戻る方法が見つかって」
私は胸の中が締めつけられる思いがした。リオを巻き込んでしまった。元はと言えばリオが私を巻き込んだのだが、それとこれとは話が別だ。私は元に戻れて良くても、リオはどうなってしまうのだろう……。私はリオを見つめた。
「リオ……」
「裕也だよ。なんだよ、心配するなよ。俺はもう、どっちでもいいんだから……」
裕也はなお、平気な顔をしていた。私のことを気づかっているようで、切なくなった。それから、裕也はロイさんにアッシュフラワーの花はどこかと聞いていた。ロイさんが小箱から花びらが4枚になったアッシュフラワーを取り出すと、裕也はその花を受け取り、匂いを嗅いでみせた。そして、左の手のひらを見つめた。
「もう字は出てこないな。ほら」
そう言って裕也は、ロイさんに左の手のひらを見せた。その様子を見て、一度元に戻るともう人生は取られないし不老不死状態にはなれないのだと、私たちは解釈した。
私たちは食堂へ戻った。ロイさんに、さっきと同じ手順でコーヒーを作ってくるように言われて、私はもう一度キッチンへ行き、ブラックコーヒーを作った。そして食堂へ持ってきて、私はリサさんとリエさんの間に座った。
リツさんの席の前には、リリーの本に載っている私の人生の最初のページが開かれている。裕也はリツさんの左隣に座っており、ロイさんはリツさんの右隣の席に立っていた。ロイさんがアッシュフラワーの花びらを1枚ちぎり、ブラックコーヒーの中へ入れると、コーヒーはすぐに白濁し、カフェオレのようになった。私は色素の抜けた透明の花びらを取り除き、カップのふちに沿わせた。
その液体を前に、私の心臓はその存在感を増し、私を動揺させた。私はそれを振り切るように、思い切ってカップに口を付け、その熱い液体を少し含んだ。意外にも、甘くて美味しい。その液体の熱を冷ますように息を吹きかけると、私はまたそのカフェオレのような液体を口の中に入れた。どこを見るでもなく、私の意識はすっと途絶えた。
目覚めると、私はベッドに横たわっており、そのかたわらにリサさんがいた。そこはリサさんの部屋だった。本を読んでいるリサさんを見ていたら、リサさんも私の方を見た。
「リノ! ……気分はどう?」
リサさんは読んでいた本を閉じて立ち上がり、私の顔をのぞき込んだ。
「大丈夫です……」
起き上がろうとしたとき、窮屈な服に気がついた。母と選んだ、濃紺のジャケットとタイトスカートだった。私は頭の後ろに手をやったが、お気に入りのオパールのバレッタはなかった。
「ああ、これでしょ?」
そう言ってリサさんは、私が探していたそのバレッタを差し出した。
「綺麗なバレッタね。つける?」
「あ、いえ……」
私はリサさんの提案を断った。私の心の中は少し薄暗く
「荷物もたくさん出てきたのよ」
そう言ってリサさんは白い机の方へ歩いていった。机の上には、私が職場を退職したときに持ち出していた荷物があった。
「みんなのところへ行きましょうか」
私はリサさんと連れ立って食堂へ向かった。
「リノ! 大丈夫?」
食堂に着くと、リエさんが駆け寄って来てくれた。私は笑顔で返事をした。裕也はリツさんとロイさんと話をしている。裕也は何年も行方不明だったことになるらしく、どうやって家族に説明するかをこの館でゆっくり考えると言っていた。
「リノはどうすんの?」
リオが私に問いかけた。私はできるだけ早く家に帰った方がいいと思っている。でもここを離れてしまうと、もう2度とここに来られない気がしていた。あるいは、自分のここでの記憶が全て消されてしまうのではないかという思いがあって、それがとても惜しかったが、何も言い出せずにいた。自分でも気づかないうちに、私の頬を涙が伝っていた。
「リノ、どうしたの……」
リエさんが食堂にあったティッシュの箱から素早くティッシュペーパーを抜き出し、私の涙をふき取ってくれた。裕也は「え、俺?」などと言って騒いでいる。
『リノ……あなたの本当の名前を、みんなに教えてくれるかしら?』
リリーは私に優しく言った。
「私……
『朋世、またここに遊びにいらっしゃい。私たち、いつでも待ってるわ』
その言葉に後押しされて、私は思い切って聞いた。
「あの……私の記憶はそのままで……消さないままでいいんですか?」
『ええ、もちろんよ、朋世。安心してちょうだい』
そう言って、リリーのイラストは笑った。私は何か明るいもので胸がいっぱいになった。
私の家族は、リリーの記憶書き換え能力で記憶を書き換えられているという。私がホテルに泊まったと思っているらしい。私はお見合いを断ろうと思っていたので、そのことについて考えていたことにしようと決めた。寿退社してすぐに結婚をやめるというのも変だけど、あの桑名という人はもう信用できない。これが何でも人任せにして生きてきた結果だとしても、これから変えていけばいい。
館には、黒い高級車とは別に、あまり目立たないシルバーの乗用車も置いてあった。リリーの本に人生を取られた人たちが乗るときに、なるべく目立たないようにするためだ。昨日、孝汰郎さんが私と裕也を黒の高級車で駅まで迎えにきたのは、裕也の意向らしい。いきなり館に来るとびっくりするだろうから、車で先に少し驚かせて慣れさせようという考えとかなんとか。裕也なりの気づかいだったのだ。それで、今日はシルバーの車で孝汰郎さんとリエさんが私の家まで送ってくれることになった。荷物が多い上に、電車の乗り換えは疲れるだろうからということだった。
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