第02話 戻りたい

 人生を取られている? 身体の時間が止まっているとは、不老不死みたいなものだろうか。黙っている私に、男は話を続けた。

「左手の文字が何よりの証拠だけど……。他にも、自分の名前、忘れてるだろ? それに、花の匂いを嗅いだあとに目覚めたとき、自分の持ち物も変わっていたはずだ。服装も違うだろ? それは、あんたの人生がこの世界から本に移ったからだ。……だから、この世界であんたを知ってるやつは一人もいないと思う」

 地下鉄のホームには、私と男以外に誰もいなかった。地下鉄の警笛が聞こえてきて、ホームに車両が入ってくると、着ているワンピースのすそがひらひらと揺れた。男はまたベンチに座った。少ない乗客が降りてくる間、私は立ち尽くしたまま考えた。男の話に反発する気持ちと、男の話を理解しようとする気持ちがごちゃ混ぜになっている。私を知っている人が、この世界に誰もいないなんて……。私の脳裏のうりには母の顔が浮かんでいた。

 ホームに人がいなくなって、私は男に聞いた。

「じゃあ、うちに帰れないってこと?」

「あんた、実家暮らし? まあ、実家暮らしだったにしろ一人暮らしだったにしろ、帰る家はないよ。戸籍だってもちろんなくなってるし、どこに行ったって誰もあんたのことは覚えてない」

 そんなこと、信じられない。でも、左手の文字や自分の名前がわからないこと、服装が変わっていること。今、自分の身に起こっていることと男の言うことは合っているようにも思える。私は事実を確認するべく、自分の家に行くしかないと思った。少し怖いけれど。それで男にこう言った。

「うちに行ってみたいんだけど、ついてきてくれるかな?」

 それを聞いた男は鼻ですうっと息を吸った。

「わかった。じゃあ行こうか」

「あ、でも私、ICカードも切符もお金も、何も持ってないんだけど……」

 私がそう言うと、男が1枚の切符を差し出してきた。

「どうぞ」


 無事に改札を通ってアカネイルカの駅を出ると、私は足早に自宅を目指した。男は5メートルくらい後ろをついてきているようだ。自宅は、駅から徒歩で約10分くらいの距離にある。今は15時を過ぎたくらいだろうか。母が家にいるはずだが、なんと言えばいいのだろうと考える。一応、インターホンを鳴らして、母が出てきたら「ただいま」と言えばいいだろうか。私はそんな風に、頭の中でこれからの行動を想像した。

 後ろを振り返ると、男はまっすぐこちらを見ながら歩いてきている。男と目が合ったが、私はすぐに視線を外して前を向いた。


 自宅に着いた私は、その一軒家を見つめた。いつもと変わらない、私の家。そう、いつもと変わらない。でも、表札の「愛川」という文字が自分の名字だという気がしない。私は少しの動揺を覚えていた。男に目をやると、少し離れたところに腕を組んで立っている。

「いつもと変わらない」

 願うようにつぶやいて、私は家のインターホンを鳴らした。

『はい。どちら様でしょうか?』

 母の声が、インターホン越しに聞こえた。

「私」

『……少々お待ちください』

 母の返答に少し間があった。胸騒ぎがする。鼓動が少し速くなっているようだ。

 やがてドアが開き、部屋着にカーディガンを羽織はおった母が顔をのぞかせた。私の顔を確認すると、母は顔色を変えないままで口を開いた。

「あの……どちら様ですか?」

 母の言葉を聞いた私は、頭が真っ白になった。何も言い出せずにいると、男がこちらへ走ってきた。

「あぁ、すいませぇん! こいつ酔っ払うと友だちの家と間違えて、すぐインターホンを鳴らしちゃうんですよぉ。……ほら、行こう」

 そう言うと、男は私の肩をしっかりとかかえて、その場を離れようと歩き出した。私は家の中へ入っていく母の姿を見つめながら、男にうながされるままにその場を離れていった。


 しばらく歩くと河川敷かせんじきに出た。男は私の隣を歩いている。

「あそこで少し話そうか」

 男は川に近いところにあるベンチを指差した。私は、母が自分を忘れてしまったことを思い、歩きながら涙が出てきた。

「……いつ見ても綺麗だな……」

 男の言葉にぎょっとして、私は手で涙をぬぐい、服をつかんだ。すると、涙でぬれた服の辺りからきらきらと光りが現れ、その光が私の体をおおっているようだった。

「体を一定に保つために、こんなことが起きるらしい。詳しくは忘れたけど」

 男の言葉を聞きながら、どうしてこんなことになったのかと考えた。あの箱……それを渡した張本人が、この男だ! そのことに気づくと、私は怒りが込み上げてきた。

「どうしてくれるのよ。何なのよこれは! 何のためにこんなことをしたの……」

 突然怒り出した私に気まずくなったのか、男は目をそらして下を向いた。そしてベンチに座ると、頭を手でかいたあとに両手を組んでこう言った。

「元々は違う人に渡すつもりだったんだ。あんたを巻き込んで悪かったと思ってるよ……」

 それを聞いた私は、また怒りが湧いてきた。

「徳宮さんなら、こんな境遇にしても良かったって思ってるの? 徳宮さんだって嫌だったに決まってるわよ!」

 そう言った私に、男は顔を向けた。少し困ったような、悲しいような表情だった。

「一緒にいられれば、幸せにできると思ってる。徳宮さんだって、わかってくれるよ……」

「大切な人は恋人だけじゃないのよ? それに、徳宮さんの幸せが何かなんて、確かめたわけでもないんでしょ?」

 男はうつむいている。その姿を見ていると、やっぱり皮膚が少し光っているようだ。

「もしかして、あなたも本に人生を取られてるの? 皮膚がちょっと光ってるみたいだけど……」

「そうだよ。人生を取られてから何年も、ずっとあそこで俺のパートナーになる人を探してた。徳宮さんに気づいたときは、心臓が止まったかと思うくらい驚いたよ」

 この男、徳宮さんのことを知っているとは、どういう関係なのだろうか。と、その前に、出店でパートナーを探していたということは、判断材料は見た目と雰囲気くらいしかないはずだ。それとも、例の箱を渡して、この異常状態の中で一緒に生活して、合わないと思ったら元に戻すのを繰り返しているのだろうか? ……だとしたら、元に戻る方法があるということになる。

「ねえ、元に戻る方法ってないの?」

 男はまだうつむいていた。そして、少しのをあけて男が言った。

「元に戻った話なんて、聞いたことがない。でも、戻れないっていう話も聞かない。聞いてみてもいいかもしれない」

 戻したことがないということは、この男のパートナー選びの判断材料が見た目と雰囲気だけということになる。人の恋愛の仕方はそれぞれだと思うけど、この人はなんだか危なっかしい。それに、改札口で声をかけてくれた徳宮さんを思い出し、徳宮さんのためにも何か言っておきたくなった。

「元に戻れるんなら、あなたも元に戻ったら? そして、こんな卑怯ひきょうな手を使わないで、正々堂々と徳宮さんに告白するべきよ」

「卑怯だって?」

 男は驚いていた。かと思うと、少し不機嫌になった。頼れる人間がこの男しかいない今、あまり関係を悪くしたくはない。でも、私も怒っているのだ。

「卑怯でしょ? 不老不死という世界に閉じ込めて。頼れる人は何人いるか知らないけど、きっと少ないでしょ? いろんな選択の余地もなさそうじゃない」

 推測ばかりの私の発言だったが、男は何かを考えているようだった。男は川の方へ向き直り、さっと立ち上がると、またこちらを向いた。

「これから、サクラクラゲまで行く。俺たちの家みたいなもんがあるところだ。元に戻れなかったら、あんたの永遠の住処すみかになる」

 それから、男は自分の左手の手のひらを見せながら、こう付け加えた。

「俺の名前はリオ。あんたは左手にある通り、リノってことになってる。覚えといて」

 リオの左手には「LIO」という文字があった。

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