サクラクラゲの西洋館

LIIN

第1章

第01話 変わってしまった

 3月の終わり、春の始まり――。

 昼間の地下鉄に乗るのは久しぶりだった。空いている席を見つけると、私は足早に2席確保した。乗客は少ししかいないので、多めの荷物で1席使うことにも罪悪感はない。元職場から持ってきたこの荷物を見つめて、1時間ほど前のことを思い出す。寿退社ということで大げさに送り出されたが、好きでもない人との結婚など期待より不安の方が大きい。

 今までは何でも母に頼っていたと思う。私と婚約者との出会いはお見合いで、そのお見合いは母の勧めだし。寿退社した職場も、母の知人の紹介で働くことになったところだった。

 暗い地下鉄の窓に映る自分の姿を見れば、その浮かなさにドキリとした。今日の服装も母と一緒に選んだものだ。襟のないふわっとした白いブラウスに、濃紺のジャケットとタイトめのスカート。靴は就職活動のときに使っていた黒のパンプス。特にテンションが上がるわけでもない、かしこまった服装だ。

 だけど今日は、髪型にはちょっと気をつかった。左右から毛束をねじってハーフアップにし、バレッタで留めた。このバレッタは、自分で買った数少ないものの1つ。白地の中に虹色に光るオパールのかけらが散りばめてあり、その光り方がお気に入りで、つけていると気合が入る。私のお守りみたいなものだ。

 送別会はお断りして、職場の人とも今日でおしまい。もう会わないと思うと寂しい、ということもない。職場の人たちとは適度に仕事して、適度に雑談して、時には仕事の相談もしていた。でもそれだけ。他人に心をさらけ出すなどということはしたことがない。職場の人たちにさして興味はないし、職場の人たちもきっと私に興味はなかっただろう。


「愛川さん、何かあったらいつでも連絡してね」

 数分前、改札口のところで職場の先輩だった徳宮さんがかけてくれた言葉を思い出す。社交辞令だと思いつつ、私はお礼を言った。徳宮さんは、職場から地下鉄のコガネクジラ駅の改札口まで送ってくれた。私より2つ年上の28歳。ショートボブがよく似合っていて、5歳は若く見える。だから、大人っぽいベージュのジャケットとスーツパンツがちょっとミスマッチだ。身長は、平均的な私よりも少し低い。派手じゃないけどにこやかな人で、男性の視線を多く集めていた。しかし、未だに独身をつらぬいている。

 そういえば、徳宮さんからもらった小さい箱があった。さっき徳宮さんと二人で歩いている途中に寄った出店で、来店100人目記念にともらった小箱。店員は徳宮さんに渡していたが、徳宮さんがあとから私にくれた。冗談まじりに、結婚祝いだと言っていた。

 水色のリボンで飾られた淡いピンク色の小さな箱を静かに開けると、灰色をしたユリのような花が目につき、同時に独特の甘くて強烈な匂いがした。一緒に入っていたカードの「Welcome」という文字を眺めながら、私は意識がなくなっていくのを感じた。


『次は、アカネイルカ、アカネイルカ。降り口は……』

 地下鉄のアナウンスで目が覚めた私は、まだ目をしばしばさせていた。降りる準備をしようと荷物を手探りしたが、手触りからは座席の生地しか感じられない。寝ている間に盗まれたの!? 驚いた私は、すっかり目が覚めた。そして辺りを見回したときに初めて、自分の服装が変わっていることに気がついた。見たこともないベージュのワンピースにアイボリーのロングコート。まとめていたはずの髪がはらりとたれ、頭の後ろを確認するとお気に入りのバレッタもなかった。靴は焦茶色のショートブーツ。ショートブーツは欲しかっただけに少しときめいている。でも、これは一体何なのだろう。誰かが私を着替えさせたの? こんな場所で、そんなバカな……。


 私はとりあえず自分の降車駅であるアカネイルカで、手ぶらのまま地下鉄を降りた。そして、真っ先に駅の案内所へ向かう。駅員に、盗難にあったと伝えなければならない。しかし、服が変わっていたことも、そのまま言うべきだろうか。


「あの、すみません」

 案内所に着いた私は、窓口から中に向かって少し大きめに声をかけた。中にいた駅員が私に気がつき、こちらに歩いてくる。

「はい、どうしました?」

「ええっと……地下鉄の中で寝ている間に自分の荷物が全部なくなっていて……」

「盗難ですか! それは警察に届けないといけませんね。念の為、お忘れ物取扱所にも聞いてみましょう。受け取りには本人確認書類が必要ですが、何か身分を証明できるものはお持ちですか?」

「いえ……」

「そうですか。じゃあとりあえず、こちらの書類に必要事項を記入していただけますか?」

 そう言って駅員は1枚の記入用紙とペンを差し出した。私はペンを取り、名前を書こうとする。だが、自分の名前が思い出せない。住所、これなら書ける。先に住所を書くことにした。でも、どうして自分の名前が出てこないのか。名前がわからないなどと言ったら、私の言っていること全部が嘘だと疑われるんじゃないだろうか……。

 住所を書きながら不安になっていたとき、突然後ろから誰かが声をかけてきた。

「あれ、リノじゃん。どうかしたの?」

 振り返ると、若い男がいた。フードが付いたモスグリーンのジャケットに淡い灰色のトレーナー。だぼだぼの白い綿パンに白のスニーカーと、ラフな印象だ。黒目がちな瞳と、耳にかかるくらいのふわっとうねったミディアムヘアは中性的な印象を与える。それに、色白というわけではないけれど、なんとなく光っているような明るい肌をしていた。

 この人、どこかで見たことがあるような……。でも、きっと知り合いではない。というか、私のことを知らない名前で呼んだような気がするけれど。男を目で確認すると、私は何も言わずにまた用紙に続きを記入し始めた。

「盗難に遭われたそうですよ! 今、書類に記入していただいてます」

 駅員が聞いてくれと言わんばかりに、男に説明する。すると、それを聞いた男が思い出したようにこう言った。

「あぁ、さっきの電車なら、なんかあやしい奴らがいたかも」

「えっ?」

 私はまた男を振り返る。男は斜め上を見て、さも思い出しているかのような表情をしていた。

「では、ご一緒に警察に行かれてはいかがですか?」

「そうですね。リノ、俺、時間あるから。今から一緒に警察に行こうよ。急いだ方がいい」

 駅員の提案を受け、男は私が記入していた用紙をさっと取り上げた。戸惑う私の手首をつかみ、男は駅のホームを目指してずんずんと進んでいった。


 ホームに着くと、男は私から取り上げた用紙に目をやった。

「やっぱり名前書いてないか……。ねえあんた、灰色の花が入った箱、開けたでしょ?」


 男が突然、他人行儀になって私に声をかけた。どうして箱のことを知っているのか。それにしても誰なのだろう。どこかで会った気がするのだが、思い出せない。

「左手の手のひら、なんか書いてある?」

 そう言われて私は、自分の左手の手のひらを見た。そこには、「LINO」という黒い文字が表れていた。

「リノ?」

 私の言葉を聞いて男は目を見開いた。かと思うと、男は目を閉じて下を向いた。

「……せっかく徳宮さんに渡せたのになぁ……」

 そう言いながら、男は両手で顔を覆った。男の声はため息と一緒に出ているようだった。徳宮さん、箱……あの出店。そうだ、あの出店の店員だ!

「あなた、出店の店員でしょ! 箱って、来店100人目記念とかで渡されたやつよね? あの箱がどうかしたの?」

 男はホームのベンチに座り、太ももの上に肘をついている。顔はうつむき気味で、視線は線路の方を向いているようだった。

「あの花の匂いを嗅いだ人間は、人生を取られる」

 男はつぶやくように言った。男が話していることが理解不能で、私はすぐに何か言うことができなかった。男に近づきその顔をのぞき込むと、私は不機嫌にこう言った。

「何言ってるの? ちゃんと説明してくれる?」

 すると男は立ち上がり、私と目が合った。だが、男はすぐに目をそらして静かに話し始めた。

「あんたは今、ある本に人生を取られてる。そして、人生を取られた時点で、肉体の時間が止まってるんだ」

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