第10話 エルフと茶色いシチューとちゅるちゅるとお揃いの小山

 お腹いっぱいにフルコースを楽しんだ翌日、ベルとテオは光の塔へ向けて順調に街道を歩いていた。




「うーんと、こっちかな」


 やがて太い街道同士が交差する場所の中央で、ベルは目印の光の塔を探す。


「薄々思ってたけど、とんでもなく高い塔よね」


 ベルが周囲を見回せば、建物の上から頭を出すその先端がすぐに見つかった。


「だいぶ近づいたと思うんだけど、よく分からなくなってくるわ……」


 周囲を高い石塔のような建物に取り囲まれているベルであるが、光の塔は常に建物の上から顔を出しており、それが遠近感を狂わせるほどの大きさである事を主張している。その天辺はもはや雲に届いているように見え、現実離れした威容を放っていた。


「お伽噺に出て来た異界へと通じる塔……とか? 登りきったらまた知らない所に飛ばされちゃったりして……」


 異界へと通じる塔――それはベルが幼い頃に母から聞かされた、星にすら届く高い塔へ挑む王子様のお伽噺に出て来る塔だった。


「あれってどんな話だったっけ……何やかんや塔を登って、お姫様を迎えに異界へ行く話だったとは思うんだけど……」


 数十年も前に聞いた寝物語をベルはろくに思い出せないでいた。


「私にも王子様が迎えに来てくれないかしら……って、そんな相手居ないわ……」


 ベルはうろ覚えのお伽噺に出てくるお姫様に自分をなぞらえてみるも、大事な相手役が欠けている事に気づいて口を尖らせた。すると隣から小さな影が彼女の目の前へと躍り出る。


「わぅわぅ!」


「え? テオが王子様に立候補してくれるの? 嬉しいけど……ふふっ……もうちょっと大きくなったらね」


「わぅー……」


 テオは果敢にアタックするもあえなくベルに笑顔でフラれてしまい、尻尾を垂れさせてしょんぼりとしてしまう。


「ありがとねー。でも私にはまだ、そう言うの早い気がするのよね……」


 ベルはテオの頭を撫でながら森に居た頃を思い出す。あの頃は自分に色恋はまだ早いと、そう言った相手を作る事をしてこなかった。そして旅の途中にもそんな余裕は無く、彼女は当然のように独り身だった。


「それにしたって、なんで私がお伽噺の登場人物みたいな事になっちゃってるのかなぁ……」


 ベルの手に伝わるテオの体温や心地良い毛並みの感触が、ここが夢では無く現実である事を主張している。しかし自らを取り囲む状況と環境から、ともすれば元居た世界とは違う可能性すらあると彼女は考え始めていた。


 自分が今この場所に居るのは偶然なのか必然なのか。仮に必然であれば、誰が何の意図でここへ送り込み自分に何をさせたいのか。考えても答えの出ない問題が頭の中でぐるぐると加速していく。


 ベルがそんな慣れない考え事をしていると、やがて――




 地獄の底から這い上がって来た魔獣の如き鳴き声が轟いた。




「わっふ!?」


 心地良さげに撫でられていたテオは獣の唸り声のような音に思わず飛び退く。全身の毛を逆立て周囲を警戒しているが、その小さい体と、顔の眉毛のような白い模様のお陰で可愛らしさが先に来てしまう。


「あれ? 昨日あれだけ食べたのに、もうお腹空いて来ちゃった」


 音の出所であるベルには特に慌てた様子は無い。動けなくなるほど食べた魚のフルコースは、どうやらとっくに消化しきったようだった。


「余計な考え事なんてしてるからいけないのよね。まずは生きてこそ、よ!」


「わぅ? わぅ?」


 状況が飲み込めてないテオだけが困惑し、あたりを見回していた。


「何してるのテオー? ご飯探しに行くわよー」


 既に歩き出していたベルはそんなテオを急かすように声を掛けたのだった。






 二人はかつては集合住宅であっただろう建物を見つけて食料探しをしていた。


 ベルはここ数日の生活で、住居として使われていた建物の見分けが何となくつくようになって来ていた。それは優秀なエルフの類まれな観察眼による物か、はたまた腹ペコエルフのいやしさによる物か。


 実のところ、リュックの中にある食料にはまだ余裕がある。しかし食料を探す気力があるうちは一旦探してから、とベルは決めていた。


「いつ食べ物に困る事になるか分かんないもんね――あいたっ!」


 独り言を呟きながら頭の高さにある戸棚を開けた途端、何かが滑り落ちて来てベルの顔面へと派手にぶつかった。


「あたたたた……なによもぅ……あぁ、大丈夫よ。ありがとね」


 何事かと寄ってきたテオに無事を伝えつつ、ベルはおでこをさすりながら自分を痛めつけてくれた物を探す。


「コイツねー……何かしらこれ。紙の箱……かな」


 足元に転がっていたそれらしき物をベルは拾い上げる。それは手のひらより大きいくらいの薄い箱であり、紙で出来ているようだった。


「んー、この絵はシチューかな?」


 その箱の表面には、茶色いシチューらしき物が描かれていた。ベルの知らない見た目のそれは、味が想像出来ないにも関わらず何故か食欲を刺激してくる。野菜らしき大きな具がゴロゴロ入っていて食べ応えもありそうだった。


「箱の中に何か入ってるわね……」


 ベルが試しに振ってみるとゴソゴソと中で何かが動くのを感じる。しかしその紙の箱はどの面もぴったりと閉じられ開け口が見当たらない。


 しかし彼女は不敵に笑ってみせた。


「ふっふっふ……私も段々とこの国に慣れて来てるのよ。こういうのは破いちゃえば良いのね」


 ベルは今までの経験から、この国では鉄や紙の容器が使い捨てのように扱われている事を学んでいた。改めて箱を見回し、破りやすそうな場所を探して爪を立てる。彼女の予想通り、簡単にその箱を開ける事が出来た。中からは銀色のツルツルとした、またも開け口の見当たらない袋が出てくる。


「紙の箱から今度は銀色の袋……もしやこれの中にシチューが……?」


 箱から現れた袋は先日の麺類の時に見た、液体の調味料が入っていた小袋と似た見た目をしていた。この不思議な袋であればシチューなどの汁物でも保存が可能だろうと考えたベルの期待が高まる。銀色の袋を軽く触ってみると、やはり中で液体が動くような感触がする。


「このムニムニした感じ……当たりね……っ!」


 ひとしきり袋を揉んだベルは喜び勇んで銀色の袋の口を切る。




「むはっ! 凄い匂い……っ! え、ちょっと待ってナニコレ……すごいドロドロしてる……」


「わっふぅ……」


 唐突に刺すような刺激的な匂いが立ち昇り、ベルは思わずむせてしまった。テオもその強烈な匂いにやや引き気味である。


「えぇ、何か危ないもの開けちゃったかしら……くんくん……」


 食べ物では無い物を引き当ててしまったと落胆するベルであったが、諦めきれず再度袋の中の匂いを嗅ぐ。


「んん……? 香辛料の塊みたいな……くんくん……凄い匂いね……くんくん」


 少し鼻が慣れて来た為か、ベルにはそれが世界中から集めたかのような大量の香辛料による物であると推測出来た。より詳しく分析しようと、犬のように忙しなく鼻をひくつかせる。テオはそんな主人を興味深そうに見ていた。


「でも……くんくん……何でかしら……くんくん……匂いを嗅ぐのを止められないわ……くんくん……刺激的だけど……美味しそうな匂いにも思えて来た……くんくん……大量の香辛料とか、贅沢すぎだけど……くんくん……この国ならあり得なくないわね……くんくん」


 ブツブツと呟きながら匂いを嗅いでいたベルの動きが止まる。


 やがてその指先は何かに誘われるように、刺激的な匂いの源泉にぬぷりと沈み――



 行儀悪く指で掬って舐めた。そしてベルの目が大きく見開かれる。



「これは――!」


「わふ?」


「案外美味しいかも……ん、ちょっと辛いのね……食感が……まぁ、アレだけど」


 ベルが口にした物はやはりシチューのようだった。一口含めば肉や野菜から溶け出した旨味が広がり、鼻を抜ける複雑な香辛料の香りと後を引く辛さが心地良い。しかしそれらをドロドロとした重たい口当たりと、冷え固まった脂のねっとりとした舌触りが台無しにしていた。


「温めたら良い感じになりそうな気もするわね……うーん……面倒だけど火を熾しますか」


 一度外へ出て火を熾そうかと考えながら、改めて箱を手に取り興味深げに見回す。


「んん……? よく見たら何か白い物にかけてる?」


 ベルが箱に描かれた絵をよくよく見れば、茶色シチューは白い粒状の物にかけられているようだった。


「形は麦の粒に似てるけど真っ白ね――ん?」


「ハッハッハッ――!」


 悪くなさげなベルの反応にテオも興味が湧いて来たのであろう。やや荒い息をしながら、主人の足を前足でぺしぺしと叩き存在をアピールする。


「かなり味が濃いからテオの好みじゃ無いと思うわよ?」


「くぅん……」


 テオはベルの言葉に露骨にガッカリしてしまう。尻尾も眉毛のような模様も元気が無い。その様子にベルも申し訳なくなってしまう。


「あー、でもでも! テオの食べられる物がまだあるかも知れないじゃない! もうちょっと探してみましょう!」


「わぅー」


 テオのあまりにもな落胆ぶりに慌てたベルは、見つけたシチューをこぼれないように一旦脇に置いた後、可哀想な相棒のために食料探しを再開した。


 ベルは手始めに、箱が落ちて来た事でまだ奥を見ていなかった戸棚を漁り始める。するとすぐに新たに見慣れない物を発見する。


「ん? これ箱の絵に描かれてた白いやつかしら?」


 それは手のひらほどの大きさの容器で、半透明な薄い物でフタがされていた。その不思議なフタの向こう側に、先ほどの箱に描かれた粒状の白い物が詰まっているのが透けて見える。


 麺料理の時に絵を再現して美味しい物が出来上がったのを思い出し、ベルの顔がニヤける。


「あら、もしかして箱の絵が再現出来ちゃう感じ?」


「…………」


 そんな主人の顔を物言いたげに見つめる小さな瞳があった。


「――はっ! ごめんね、悪気がある訳じゃ無いのよ!? あーあー、奥にまだ何か袋があるわー!」


 罪悪感を刺激するつぶらな瞳に耐えかね、ベルが戸棚を探ると奥の暗がりに隠れていた袋を見つけた。慌ててそれを引っ張り出そうとして――




「わぷっ!」


 ツルツルとした触感に手を滑らせたベルは、顔よりも大きなその袋で顔面を痛打した。


「あたたたた……もう……!」


「わぅん! わんわん!」


 続けざまの醜態に苛立つベルをよそに、テオは落ちて来た袋に飛びつくようにしてはしゃいでいる。


「さっきは心配してくれたのに……どうしたのよテオ、そんなにはしゃいじゃって――あ、犬の絵が描いてある……って事は……あ!」


「わんわん!」


 自分の心配をしてくれない相棒に少し切なくなるベルだったが、落ちて来た袋の特徴に気付くと、テオの喜びようが理解出来てくる。その袋の表面に描かれた絵は、現在二人の主食になっているカリカリの袋と似た雰囲気をしていた。


「これは――テオが好きそうな物っぽいね! 開けてみよっか!」


「わぅん!」


「何が出るかなーっと、それ!」


 ベルは早速袋の口を切って開け、中を覗き込む。そこにはカリカリではなく、細長い小袋がいくつも入っていた。そこにも大袋と同じような絵が描かれている。


「大袋の中に同じような小さい袋と来たか……これもムニムニしてるわね……」


「わっふわっふ!」


 待ちきれないとばかりにテオは小袋を持つベルの手に飛びかかるように跳ねていた。


「はいはい、今開けてあげるから……なんかちゅるっと出てきた……どう?」


 ベルが小袋の口を切ると薄い橙色をした粘度の高い液体が滑るように出てくる。それをテオの鼻先へと近づけると勢いよく舐め出した。


「わふわふ! わっふ!」


「あらあら、そんなに美味しいの? ――あ」


 テオが夢中になって食べているのを微笑ましく眺めていると、ふと自分の指にも同じ物が付着しているのが目に入る。どうやら小袋を開けるときに付いてしまったようだ。


「うーん……」


 これほど上機嫌にテオが食べる物は、最初に見つけた鉄の容器に入っていた粘土状の食べ物以来である。その事はベルにもすぐに思い出せた。そしてそれが口には合わなかった事も記憶に新しい。


「――あむっ」


 それでも確かめずにいられなかったベルが指ごと咥えるとその眉間に皺が寄った。


「………………うーん、まぁ……やっぱり、ね」


 概ね予想通りの味である事を確認したベルは、テオが食べ終えるまで優しく見守る事に努めた。




「美味しかった?」


「わぅん!」


 小袋の中身を最後まで綺麗に舐め切ったテオは満足げに吠える。尻尾も元気を取り戻し、眉毛のような模様も心なしかシャキッとしていた。ベルは復活した相棒を撫でながら大袋を見る。彼を夢中にさせる小袋はまだまだ沢山残っていた。


「まだいっぱいあるから少しずつ食べようか」


「わん!」


「こっちはなんて呼ぼう……んー、ちゅるっと出てきたからちゅるちゅるでいっか」


 いつぞやのように、ベルは大して悩む事無く思いついたままに適当に名付ける。二人が分かっていればそれで問題は無かった。






「それじゃ、私のご飯の番よ!」


 ベルは外へ出て火を熾し、手鍋に移したシチューを温めていた。テオの分は既にカリカリを皿に盛って用意を終えている。


 手鍋の様子を気にしつつ白い粒状の物が詰まった容器を取り出し、表面の薄いフタを取り払う。白い粒をスプーンの先で少しだけ掬い取ると観察するように目の前に掲げた。


「箱の絵の白い粒はこれとそっくりだけど……どんなものかしら……」


 見慣れない物を食べる行為に慣れて来ていたベルは、躊躇う事なくスプーンを口へと運ぶ。


「あむ…………うん、淡白だけどほんのり甘くて悪くないかも。むしろ食べ合わせに困らなくて良さそうね」


 ベルの口の中には微かな豆にも似た香りと共にほのかな甘みが広がる。淡白で特徴に乏しい味ではあるが、それ故に何と合わせて食べてもバランスが取れそうな可能性を感じさせる。


「……よし!」


 シチューとの組み合わせに確信めいた物を得たベルは、白い粒状の物をボウルに移し小さく山のように盛った。その上から温まったシチューをかける。常温の時よりも粘度の下がったそれはトロリと鍋肌を滑り落ち、白い小山を茶色く染めてボウルに一つの山景色を作り出した。


「シチューにパンを浸けて食べるのは当たり前にやるけど、何かにかけるって発想は無かったわ――あ!」


 自分のボウルの中を見ていたベルはある事を思いつく。


「ねぇテオ、さっきのちゅるちゅるをカリカリにかけたら美味しいんじゃないかしら?」


「わう!?」


 ベルのアイデアを聞いたテオの瞳が爛々と輝き、尻尾も千切れんばかりに振り乱される。


「ハッハッハッ――!」


「はーい、慌てないの。こんな感じかしら」


 ベルはテオの皿に盛られたカリカリに自分のボウルと同じようにちゅるちゅるをかけると、色は違えど似たような山景色がもう一つ出来上がる。二つを並べるとさながら小さな山脈のようだった。


「ふふっ、お揃いだね」


「わん!」


「さぁて……さっきから良い匂いがしてて私の我慢も限界なのよ」


 温められたシチューは香辛料の香りを際立たせおり、先ほどからベルの胃を激しく急かしていた。


「それじゃ――いただきます!」


「わぅ!」


 親子のように並んだ大小の山を前に、ベルはスプーンを手に取にしたまま略式の祈りを捧げる――やいなや、彼女のスプーンは小山を削り取り口の中へ消えた。


「あーむっ――――!」


 スプーンを含んだままのベルの口内で香辛料の塊が爆弾の如く爆ぜる。いっそ破壊的なまでの香りが鼻腔どころか頭の中を駆け巡る感覚に彼女は痺れた。やがてその香りを追いかけるように、熱で溶けた脂のまろやかな甘みが肉や野菜の旨味と合わさり、ゴロゴロとした大きな具材と一緒に舌の上を転げ回る。


「ほぁぁ……んまぁ……」


 この料理において、特筆すべきは麦のような白い粒だろう。単体では特に主張をしないそのシンプルな味は、不思議とシチューの香りも味も辛味も、その全てを受け止め初めから一つであったかのように纏め上げていた。


 一口、二口と食べ進めるベルの額には徐々に汗が浮いてくる。パタパタと自らを仰ぐのも億劫になった彼女はおもむろに上着を脱ぎ捨てた。


「ぁ……ん……もう、ダメ……あっつ……ふぁ……」


 ベルは流れ落ちる汗もそのままに、頬に張り付きそうになる美しいプラチナブロンドの髪を片手で搔きあげながら、シチューを口に運んでは艶めいた吐息をつく。首筋に浮いた玉のような汗は、くっきりとした鎖骨のくぼみに流れ落ちて小さな泉を作っていた。


「ふぅふぅ……あむ……ほふ……はぁ、からっ……」


 暴風のような味覚の締めくくりにやってくる辛味は際限無く後を引き、スプーンを運ぶ手が止まる事を許してくれない。最初に袋を開けた時の微妙な印象から一転。ベルは完全にこの料理の虜になってしまっていた。


「どこのどなたか存じませんが、この料理を残してくれた人……ありがとうございまふ……グスッ」


 この食料を戸棚に残してくれた住人へ、ベルは感謝の言葉を呟きながら思わず涙ぐむ。


「わっふ! わふわふわっふ!」


 一方のテオは自分の小山を崩す事に熱中しており、かつてない勢いでカリカリを食べていた。


「テオも美味しそうね?」


「わん!」


 思いがけずお揃いになった料理の思いがけない衝撃に、二人は打ち震えながら賑やかな食事を楽しんだ。






「はぁ、美味しかったなぁ……またどこかで見つかるといいなー」


「わう!」


 至福の時は過ぎ、片付けを終えて歩き出した二人。その日の夕方にはさしあたっての目的地である光の塔へと間近に迫っていた。


 美味しい食事の後のせいか、足取りは弾むようでありながらも力強い。彼女たちが踏みしめている道は大型の馬車が軽く四台ずつはすれ違えそうな広さをしていた。そのデタラメな広さの街道にベルは疑問を抱く。


「こんなに綺麗で広い街道どうやって使ってたのかしらね?」


「わぅ?」


「それとも、この広さじゃなきゃ足りないほどの人がこの国には居た……?」


 通行する者が他にいないのを良い事に、街道のど真ん中を歩いていたベルは足を止めて振り返る。真っ赤な夕日が建物の陰に隠れようとしている所だった。


「仮にこの街道一杯に人が居たら――」


 ベルが目を瞑れば、その瞼の裏には在りし日の光景が想像される。




 とても歩きやすいこの街道ならば、例の鉄の馬車は人を散らしながらもすごい速度で行き交っていただろう。ベルにはどうやって動かしていたか分からないのでながえを付けて馬が引き、御者は車体の天井に座っている。


 道沿いではベルが着ているような流行りの服を着た住民や旅人たちが、沢山ある商店をさぞ賑わせていたはずだ。きっと、この異様に高い建物の中にも人が溢れるように生活していたに違いない。


 森のように並び建つこの建物の全てで――


 それは一体どれほどの数の人になると言うのか? その喧騒は王都の大通りですら静寂に感じるほどの賑やかさだろうか? この国で彼らはどんな表情でどんな生活していたのだろう?


 ベルからすれば高級品がそこらに打ち捨てられているような国である、裕福な暮らしに住民はさぞ満足していたのだろうか。


 活気溢れる賑やかな国に笑顔で暮らす人々の姿が彼女の目に浮かぶ。


(……そんな国が何で――)


 今にも触れられそうなほどベルの脳裏に広がった想像世界の時が止まる。


(――滅びてしまったのか)


 その瞬間、視界からは潮が引くように色が失われ、喧騒は遠雷のように離れていった。


 ベルは追いかけるように手を伸ばす。


 その背後にいつかのように迫る馬車の気配がする。街道の真ん中に立っていたベルの頭に王都での瞬間がよぎり――




 目を開けばそこには相変わらず誰も居ない、恐ろしく平坦で広い街道が広がっている。燃えるような夕日は建物の陰に落ち、石塔の森を真っ赤に染め上げていた。


 滅びの日を再現したかのようなその光景にベルの右手は胸元を掴む。やがて振り向いた彼女の視線の先には光の塔が聳え立っていた。






「何でこの国が滅びたのか、何で私がここに居るのか……分からない事だらけだけど……全部ひとまず生きてこそ、よ!」


 もはや塔の足元からその先端は見えない。しかしベルはそこを見定めたように指差しながら力強く空を睨みつける。


「とりあえず挑戦しがいがありそうだから登りきってやるわよ!」


「わう!」


 やる気満々なベルの宣言にテオも大きく吠えて応える。




「でも今日はもう遅いから明日ね」


「わぅ」


 二人は寝床を求めて光の塔へと背を向けて歩き出した。

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