第8話 エルフと手押し車と命の水(後編)
「ねぇ、ベル。落ち着いて聞いて欲しいんだけど……」
「なぁに母さん? ――そんな顔してどしたの?」
とある日の夕食の準備を二人でしていた時、急に母に話しかけられ振り向いたベルは、その只ならない雰囲気に不安を覚えた。
「父さんがね……浮気してるかも知れないの……」
「……え?」
近所でもおしどり夫婦と評判だった二人に限って、そんな事が起きるなど考えてもみなかったベルは、思わぬ母の言葉に手にしていた食器を取り落としそうになる。
「父さんに限ってそんな事……」
「私もそう思いたいんだけど……でもね……最近の父さんったら、真夜中にこっそり家を出て行ってそのまま遅くまで帰ってこないのよ……怪しいと思わない? 今までこんな事無かったのに……いつまでも一緒だよって……永遠に君を愛すって……あの湖での約束はなんだったの……あぁでもあの時は本当に格好良かったわ……あの人ったら顔を真っ赤にして……うふふふふふ……」
表情をこわばらせたままブツブツと呪詛か惚気か分からない物を呟きながら、淡々と包丁で具材を刻んでいく母の様子に、ベルは話を聞く事しか出来なかった。
「だから、ね、もし、その時は――」
淀みなく動いていた包丁の動きがふいに止まり、おもむろに高く振り上げられ――ズドン、と重たい音と共にまな板の上の人参がヘタの辺りから切り落とされた。
「――貴女も協力してくれる?」
軋む音が聞こえてきそうな動きで振り向いた母の
「……ちょ、ちょ、ちょーっと待って! 母さんはきっと何か勘違いしてるわ! えぇ、そうよ! 絶対に何かの間違いよ!」
「そうね……私もそう信じていたかったわ……でも、臭い消しの魔法まで使ってるみたいなの、朝起きるとあの人の匂いが全然しないもの……」
臭い消しの魔法は狩人が獲物に気取られないように使う魔法の一つだ。しかし森 以外でわざわざ使う事はそう無い。
どんどん表情が消えていく母に背筋が凍るベルだったが、このままでは取り返しのつかない事になる予感がした彼女は必死に言葉を続けていく。
「わ、私が調べる! 父さんは絶対にそんな事して無いって調べてくるから!」
「ベル――貴女――」
虚無を覗き込む
「そうね、最期に貴女に賭けてみるのも良いわね……」
「最後って、そんな大げさな……」
母の言った『さいご』の語感にベルは違和感を覚えるも、ひとまず母が落ち着いてくれた事に安堵する。
その日の夕食。今まで通りの姿で父に接している母を見たベルは、その底知れなさに内心 恐怖を覚える。更に父を尾行する任務のせいもあって折角の食事の味が分からなかった。
「どうした? ベルフェーム、今日はやけに小食じゃないか。ははぁん、さては体重を気にしてるのか?」
「父さん、ベルフェームって呼ばないでっていつも……ってそんなじゃないわよ。大体、私は太ってない!」
「前々から思ってたがお前はむしろ、もう少し肉を付けても良いと思うんだがなぁ……なあ、母さん?」
ベルのうなじにピリっと薄ら寒い物が走る。
「ふふふっ。そうですね。私みたいに細いより多少ふくよかな方がモテるものですよ」
「だよなぁ! アッハッハッハ!」
父の話に合わせて微笑む母の様子は一見いつも通りながら、事情を知っているベルにはその目が笑っているようには微塵も見えなかった。そこに来て父のデリカシーに欠ける発言は彼女のストレスを増幅させて行く。
「
「ん? 何か言ったかい、ベルフェーム?」
ベルが口の中だけで吐いた呪詛は父に気付かれずに済んだ。
「いいえ、何も」
「そうか? それじゃ俺はちょっと弓矢の手入れをしているよ。遅くなるかもしれないから、母さんは先に寝ててくれ」
「はい、分かりました……アナタ……」
その瞬間、ベルは周囲の温度が少し下がった気がしたが、父はそれに気付く事なく家を出て作業小屋へと向かって行った。
「やっぱり怪しいわ……あの人、弓矢の手入れなんて夜にやらないのに……」
「大丈夫だってば、そういう日もあるんだよ、きっと! それじゃ、行ってくるから。母さんは私を信じて待ってて……!」
「えぇ、お願いねベル……」
そしてベルは作業小屋へ向かった父の後を追う。
「んー、本当に弓矢の手入れをしてるなぁ……あ、そろそろ終わりそう」
完全に日も落ちて辺りが暗くなった頃、弦の調整や矢羽根の手入れをしていた父が道具を片付け出す。
「ん……?」
道具をしまい終えた父が戸棚の前でキョロキョロと辺りを見回している。父以外に誰も居ない狭い小屋であるにも関わらず、わざわざ辺りを見回すその動きはやましい事をしているかのようだった。
ふと、窓の隙間から覗いていたベルと目が合いそうになる。
「ぅわっと……!」
ベルは慌てて壁に貼り付き父の視線を躱す。
「ふぅ……ビックリした……急にキョロキョロしないでよ……」
やがて父は何かの包みを片手に持ち、作業小屋を出て行った。ベルはその後を気付かれないように尾行していく。
「何を持って出たのかしら? え、まさか浮気相手にプレゼント……いやいや、ないない……」
薄暗い道を行く父の背中は心なしか浮かれて見えた。その事がベルの不安を煽っていく。
「無いよね、父さん……私、信じてるよ……」
やや周囲を気にするように歩いていた父はとある小屋の前で立ち止まる、ノックをして中に何か声を掛けたかと思えば、人目を憚るように室内へ滑り込んだ。
父のその様子にベルの頭に最悪の展開がよぎる。しばらく動けないでいた彼女であったが、やがて意を決し、明かりの漏れる窓から室内を覗き込む。
「――――ッ!」
果たしてそこで彼女が目にした物は――父親のあられもない姿であった。
「あー…………」
窓から覗いた先には、父の他にベルにも見覚えのあるおじさんたちが居た。皆、一様に赤い顔をしている。小屋の中で車座になっている彼らは銘々にコップを手に持っており、それをせわしなく口元へ運んでは目の前の料理へフォークを伸ばしている。
その様子はどこからどう見ても宴会だった。
その一角で父は酒瓶片手に赤ら顔のだらしない表情でクダを巻いている。中の様子を見るのをしばらく躊躇っていたとは言え、すでに出来上がっているその様子には、もはや父親の威厳は微塵もない。みっともないとしか形容出来ない有様にベルは頭を抱えた。
「持ってたのはお酒とおつまみだったのね……大の大人がコソコソ隠れて楽しそうに飲んじゃってまぁ……あーあ、ほっぺたに食べカス付けたままで……はぁ……母さんに言いつけてやろ」
小屋の中の男たちは酒瓶を持ち寄って飲んでいるらしく、それは森で作られる命の水とは違い、行商人から購入した物と思われた。集落において特にお酒が禁止されている訳では無いが、祭りや慶事でも無いのに飲むのはあまりいい事とはされていなかった。だから隠れて集まって飲んでいたのだろうとベルは結論づけた。
「紛らわしい……」
緊張の糸が切れ、急激にげんなりしたベルは疲れた足取りで帰宅したのだった。
「――――って事で、浮気の心配は無いと思うわ……はぁ……」
家で待っていた母に事の顛末を詳細に伝え終えたベルは、面倒な仕事が終わったとばかりに深いため息をつく。
「ありがとう、ベル……ふーん……そう、そう言う事だったの……」
終始 笑顔でその話を聞いていた母はおもむろに家を出ると、ベルがそれまで見た事も無い速度で宵闇へと消えた。
「あー……止めに行った方が良いのかしら……?」
ベルはゆっくりとお茶を飲みながらたっぷりと時間をかけて悩んだ末に、家庭崩壊を止めるべく例の小屋へと向かう事にした。
そこでは母からお説教をくらっている父を筆頭に、おじさんたちが地面に正座させられていた。
「貴方って言う人は本当に、私がどれだけ心配させられたと――――」
「すいません、すいません、すいません――――」
先ほどまでの赤ら顔から一転、青い顔で土下座を繰り返す父の横で他のおじさんたちは所在無さげにしている。
「なんで俺たちまで……」
「何か言いましたか?」
「いえ! 何も!」
やがて父と一緒に飲んでいただけのおじさんたちまでもが、母の説教の餌食になっていった――
「――ほぅ……ふふっ」
ベルは酒気を帯びた吐息を漏らしながら思い出し笑いをする。
「あの時は大変だったわ……結局、父さんが正座から解放されたのは三日後だったわね」
懐かしい思い出に浸りながらベルは一人、盃代わりのガラス瓶を傾けていく――
――やがてガラス瓶の中身が半分ほどに減った頃。
「てーおー、わたし一人で楽しんじゃってー、ごっめんなさいねー。うっふっふー」
頬に着いた食べカスを気にする様子も無く、ベルは完全に出来上がっていた。それがかつての父親と瓜二つな事に彼女が気付く事は無い。
「でーもー? 子犬にお酒なんてー飲ませちゃー、だーめよねー? あははー」
美味しいツマミとお酒を一人で楽しみつつ、寝ているテオをそっちのけにベルの宴会はまだまだ続く――
「ふがっ――」
ベルが寝起きにまず感じたのは右頬に伝わる硬い地面の感触だった。次に感じるのは左頬を舐めまわす生ぬるい何かの感触。
「ハッハッハ――――」
「ふぇ――?」
状況が飲み込めないベル。しばらくされるがままだった彼女は、やがて自分の顔を舐めまわすテオをどかして、ようやくのそのそと上体を起こした。
「しまったー……酔っ払ってあのまま寝ちゃったのね……あっいたた……」
その場で寝転び一晩過ごしてしまったベルの体はバキバキに固まってしまっている。そして左頬はベタベタだ。
「あいたっ……たたたぁ……最悪の寝心地ね……土の地面のが何倍も良いわ……」
体を少し動かすたび、どこかしらに痛みが走りベルは顔を顰める。荷車を引きつつ歩くのには最適と思えた平らな石畳にも、野宿には適さないと言う弱点がある事を彼女は学んだ。
「あー、顔が臭いんですけど……テオさん?」
「わぅ?」
ベルはジト目で臭いの原因を睨むも効果は無かった。それは昨夜 一人で楽しんだ罰だったのだろうか。
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