第5話 エルフと水筒と犬の刺繍
「ねー、テオ―、喉乾いたー」
「わぅー」
「なんでこの国は井戸のひとつも無いのよ……」
明け方に部屋を発ったベルとテオは、延々と続いた長い下り階段を踏破し終えていた。上りよりは楽な道程であったものの、昨夜の食事で水袋の中身を使い切ってしまった二人は喉の渇きに苦しんでいた。
通常 集落であれば井戸、或いは小川や泉などの水源が確保されている筈である。水が無ければ人は生きていけないので当然この場所にも水源があると、ベルは考えていた。
しかし、それは一向に二人の前に姿を見せない。
「お腹はカリカリで凌げるけど……これめっちゃ喉乾く……」
「わぅ……」
ベルが万能糧食だと思っていたカリカリにも弱点があった。その他の乾物同様に、食べると口の中の水分が持って行かれてしまうのだった。
実の所、ベルは魔法で水を作り出す事が出来るのだが、それをしたくない理由がある。
「水袋一杯の量なんて作ったら絶対お腹空くよね……」
魔力効率の関係上、魔法で喉の渇きを癒すと言う事は空腹とのトレードオフになってしまうのだった。
水を作って空腹になり、カリカリを食べて喉が渇く――そんな悪循環がベルには薄っすらと見えていた。
二人にとって水の確保は急務になっていた。
ベルは空っぽの水袋を見つめる。動物の胃を利用したその袋は中身も無いのに重量があり、それがまた彼女には恨めしく思えた。
「どこかにお水屋さん無いかなぁ……って、人も居ないのにある訳無いかぁ……かくなる上は――」
ベルがカリカリを食べながら水を作り出す覚悟を決めかけたその時――
彼女は一つの事に思い当たり
「わぅ?」
「そうよね……これだけの建物があって人が住んでた形跡があるんだもの、お店の一つや二つや三つあったはずよね。それなら、どこかに水を売ってたお店があるんじゃないかしら? 多少悪くなってても、いちから水を作るより格段に楽になるし――」
そう思ってベルが辺りを見渡してみれば。周囲の建物の一階部分は扉の上に看板のようなものを掲げ、室内には空っぽになった棚が整然と並ぶ、それはさながら商店の様相を呈していた。
かつては人の賑わいがあったであろう事を窺わせるのには十分だった。
「テオ。ちょっとあそこ行ってみましょうか」
「わぅ!」
建物に寄ってみると、そこの一階は二つの区画に別れているのが分かった。片方は多少荒らされているものの服の残った棚が見受けられる。
「仕立て屋だったのかしら? ……でも、今は服より水探しよね」
扉の少し上を横一直線にカラフルな3本ラインの装飾を施した、商店だったと思しき方へ近づいていく。
「こっちを探してみよっか」
「わん!」
もはやベルにも見慣れて来た板ガラスの扉を潜り店内へ入る。目につく棚はおおよそ空っぽになってしまっているが、大きな窓ガラスに沿って並ぶ棚にはまだ残る物があった。
「あら、本だわ。ここは何でもかんでも色付きの見事な絵で描かれてて凄いわね……どれだけ沢山の絵師が居たのかしら。高価な物なのに床に放り投げて、勿体ない……まぁ、どうせ私には読めないんだけど」
ベルは床に散らばってしまっていた本をおもむろに手に取る。ふと目に入ってしまった物のあまりの衝撃にベルは声にならない悲鳴を上げる。
「$%&$#*&%$*!」
「わふ!?」
そこには人間の男性が裸同然の姿で描かれていた。
「な、ななな――んなぁ! こ、これ、春画!?」
勿体ないと言った側から、顔を真っ赤に染めたベルは思わず本を放り投げてしまった。
「なんて破廉恥な――」
「でもちょっとだけ――」
自ら放り投げた本へ、そろりそろりとベルの手が伸びる。
「わう!」
「――はひっ! すいません! それどころじゃありませんでした!」
テオの一声でベルは水を探している途中である事を思い出した。
「ダメよ、ベル……あれは悪魔の書よ……」
ベルは手で視線を塞ぎ、努めてそちらを見ない様にして店の奥へと入って行く。
店内の棚は軒並み空っぽになっており、元々何が並んでいたのか分からない有様だった。
「何屋さんだったのかしら。まさかこの棚全部に春画が――」
「わぅ!」
「わきゃっ! 嘘です! 興味ありませ――あれ、テオ?」
今はもぬけの殻である商店の棚一杯に春画が並んでいる光景を妄想してしまったベルだったが、テオの声で現実に引き戻される。
しかしその張本人は近くに見当たらなかった。
周囲を見回すと、店内と倉庫の仕切り程度なのか他よりも簡素な扉をテオが小さい体で押し開けて行くのが見えた。
「あ、居た! 待ってよー」
「何か見つけたの? 倉庫っぽい場所だけど――」
扉の先は薄暗く狭い空間に限界まで棚が詰め込まれた倉庫のような場所になっている。しかし、その棚も軒並み空っぽだった。
窓が無く外の明かりが差し込まないその場所へ、ベルは照明魔法を唱えてから進む。
テオはその棚の間を抜け更に奥、見た事が無いほど重厚な扉を前足で掻いてベルへとアピールしていた。
「わぅわぅ!」
「何この扉……まさか金庫? え、テオってばお宝発見しちゃったの?」
一瞬ベルの目が怪しく光る。
彼女は生唾をゴクリと飲み込みながら大仰な取っ手に手を掛ける。その重たそうな扉には鍵が掛かっておらず、音も無く軽く開いた。
「んーと……金庫って言うより、棚の裏側?」
果たしてそこは、店舗が透けて見えるガラス戸を持つ戸棚の裏側だった。人ひとり入るのがやっとのその空間の壁にもまた棚が並んでいる。しかし店内の他の棚と違って、その下段にはまだ箱がいくつか置かれていた。
「木箱……じゃないか。紙みたいな手触りだけど……そんな高級品で箱なんて作るわけ――って何でも鉄で出来てるような国だったわね、ここ……」
棚の下段に置かれた茶色い箱に触れてみるとそれは紙で出来ているようだった。ベルが今まで貴重で高級だと思っていた鉄や紙、砂糖や香辛料までもがそこら辺にある現状に、彼女はこれまでの価値観が崩壊していく感覚を覚える。
「ここから開きそうかな――っと」
ベルは箱の上部にあった切れ目に手を差し込んで開く。そこには透明な四角柱の形をした容器がいくつか納められていた。その中は無色透明の液体で満たされている。
「これは――水筒? やったわ、テオ、きっと水だわ!」
「わぅ!」
その一つを手に取ってみると満杯の水袋のような重さが手に伝わる。
「透明の容器で水の残りが分かるなんて、すごい便利。でも、中の水は大丈夫かしら……」
ベルは絵の描かれた帯が付いた透明な水筒のような物を一つ取り出し、目の前に掲げてみる。
「……腐るどころかビックリするくらい透き通ってるわね。森の岩清水みたい――」
水筒の水のあまりの透明度に、ベルは故郷の大森林、集落の水源の源泉である岩清水を思い出してしまい郷愁の念に駆られる。
「わぅ……?」
水筒を掲げ物憂げなベルを心配したテオが顔を覗き込んだ。
「ううん、何でもないわ。どうやって開けるのか考えてただけよ」
心配性な相棒を笑顔で誤魔化すベル。
しかし、実際どうやって開ければ良いのか彼女には分からなかった。
「形状的にどう考えてもこの白い所が飲み口よね? とりあえず引っ張れば――」
水筒の飲み口であろう頂点の白い部分を握り、ベルは軽く力を籠める。
「っん! あれ、私なまったかしら……んん!」
体の衰えとはまだまだ無縁なはずの年齢のベルは少々焦る。
「ん~~! んん~~~! んんん~~~~~~! っはぁ――! なにこれ全然開かないじゃない!」
ベルがいかに細腕と言えど、森で育ち王都まで大陸を旅をしてきた大の大人が、顔を真っ赤にしながら全力で引っ張ってもそのフタはビクともしなかった。
「堅いコルクは捩じって引っ張れって父さんが言ってたかしら……最悪もうナイフで――おっととと」
例の綺麗な包丁で、容器の口を切ってしまおうかとベルが考え始めた時、父の教えを思い出し捩じるように力を籠めていたその手から急に負荷が無くなる。思わず力をいなされた彼女は容器を取り落としそうになった。
「ビックリした、急に開いたわ……はぁー、回すと開く仕組みだったのね……先に言ってよ」
全力を出してへとへとになってしまったベルは、フタの仕組みを理解すると誰にともなく愚痴った。
ベルは開いた水筒の口に鼻を近づけて匂いを確認する。
「くんくん……うん、やっぱり大丈夫そうね。味は――」
無色透明のその水を口に含んだベルの脳内に、森を駆けまわりお腹が空けば木の実を採って食べ、喉が渇けば岩清水に口を付けていた頃の思い出が走馬灯のように巡っていく。
それは
「――なんで、こんな所にこんなに美味しい水が……」
故郷の岩清水に匹敵する清涼な味にベルは驚きを隠せず、思わず泣きそうになる。
「くぅぅ〜」
「あ、ごめんテオ! アナタも飲みたいわよね! ほら、美味しいわよー」
相棒の切ない鳴き声にベルは慌てて気を取り直し、自分の手を受け皿に水筒から少しずつ水を出してテオに与えた。
「ハッハッハ――」
テオも相当に喉が渇いていたのがよく分かる勢いで水を飲んでいく。
「これじゃちょっと飲みにくいわよね。何か丁度良い物無いかしら」
ベルが辺りを見回すと、壁際の棚に挟まれるように置かれた机の上に黒い皿のような物が見えた。
「誰かここで食事してたのかしら?」
皿やフォークが置きっぱなしのその机では、店か倉庫を管理していた誰かがここで食事でも取っていたのだろう、そう思える形跡が残っていた。
「すごい軽いお皿ね……テオ用に持って行っても良いかしら?」
黒い皿には渇いた食べカスが付着しており、そのままテオに水皿として使わせるのは忍びなかったが、都合よくベルの目の前の紙の箱から薄い布のような物がはみ出ていたため、彼女はそれを使って皿を拭いてあげる事にした。
「って、これ布じゃ無くて紙? こんな薄くて柔らかい紙見た事ない……勿体無いけど、ここまで汚しちゃうともう使えないわね――っていうか、こんなに柔らかい紙、一体 何に使ってたのかしら?」
もはや仕方なしとその紙で皿を綺麗にしたベルは、テオの前にそれを置いて水を注ぐ。
「うん、これで飲みやすいでしょ」
「わぅ!」
「私は残りの箱を確認してくるわね」
一生懸命水を飲んでいるテオを置いて、ベルは茶色い箱の残りを確認しにいく。
「こっちの箱は――うわ、真っ黒になってる……これは流石にダメね」
残りの箱をひとつ開けてみると、最初に見つけた水筒より小さく、形も違う円柱状の物がいくつも入っていた。それらの中身は真っ黒でベルにはとても飲める水だと思えなかった。
「ここまでだと魔法で浄化するのも無理そう……こっちの方は――っと」
また別の箱を開けると、そこには先ほどと同じ円柱状の小型の水筒が入っていた。しかし、その中身は無色透明の綺麗な水のようだ。
「やたっ! こっちは綺麗な水みたいね。しかもちょっと小型の水筒だから持ち運び用に良いわ」
ベルは一つ水筒を抜き出し、念のため飲み口を開けて中身を確認する。
「うん、これも大丈夫そうね」
それでも箱には水が満杯の水筒がまだまだ残っている。
「無事な物は全部持って行きたい所だけど、流石に重たいわね」
ベルの背中のリュックでは、当面の食料であるカリカリが沢山詰まった袋がそのスペースと肩を圧迫している。
悩んだ末に、彼女は大型と小型の水筒を一つずつ持って行く事にした。
「ま、この国に居ればまた見つけられそうな気もするしね」
「わぅ!」
「よし、ちょっと隣のお店も見てみようか。服が並んでたから気になってたのよー」
「わぅ……」
当面の水が手に入った事で余裕が生まれたベルは、最初に気になった仕立て屋らしき店へ足を向けた。テオはあまり乗り気で無い様子でその後をついて行く。
「これがこの国の流行だったのかしら……犬好きの国?」
仕立て屋の店内に残る服は似たデザインをした物が多く、かつてはそれらが流行し多くの国民に親しまれていた事をベルに窺わせる。
彼女は目の前に一着の上着を広げていた。それは手触りも良く、白く光を反射して輝く見た事もない綺麗な布地で作られており、肩から手首にかけて黒いラインがあり、背中には犬の刺繍が大きく入っていた。
近くに置かれた同じ生地で作られたズボンの側面にも裾まで黒いラインが入っており、上下セットの物である事が分かる。
「こんな高そうな純白の生地に、こんなに大きく刺繍を入れるんだもの、それはそれは高貴な人がお召しになってたんでしょうね……はぁ、すごいわぁ」
多少食い意地が張っているもののベルも乙女である、それなりに服飾には興味があるのだった。
「こっちは人形に服を着せて飾ってあるわね」
店の奥にあった二体の人形に着せられた服は、それぞれ赤と黒を基調とした生地で作られ、肩から手首にかけて黒や白い線が数本入っていた。背中には読めない文字と何か分からない葉っぱのような模様が描かれている。よく見れば胸元にも同じ物が描いてあった。
「犬の刺繍が入った服と比べると少し簡素なデザインかしら……流行に乗りたい庶民向けとか?」
ベルにはそれが高そうな服を真似て作った庶民向けに見えた。
「これ、色が違うだけの同じ服よね? こっちの人形のは前が閉じてるのに、こっちは開いてる……でもボタンが見当たらない……ん~?」
ベルは人形の服をそれぞれめくったりしながらボタンを探している。やがて、前が閉じた方を着た人形の襟元に小さな取っ手のような物があるのに気付いた。
「何かしらこれ――わっ、嘘! 破けちゃった!?」
興味が惹かれるままにその小さな取っ手を摘まむと、ジーっと言う虫の鳴き声のような音と共に服の前が左右に分かたれて行く。意図せず服を破いてしまったかとベルは焦る。
「えー、破くつもりは無かったんだけどなぁ……脆くなっちゃってたのかしら――って、あら?」
服が破けた個所、摘まんでいた取っ手の辺りを確認しようとベルが取っ手を持ち上げると、破けたと思った場所が不思議と元に戻っていた。
「どういう事? 破けても自動で元に戻る魔法の服……な、訳ないか……って、また裂けて行くし……そして戻ってるし――これは」
ベルは何度か取っ手を上げ下げしている内にその仕組みを理解した。
「取っ手を下げると前が開いて――上げると閉まっていく――なにこれ、面白ーい!」
ベルの手が上下するのに合わせて服の前が開閉する。最初は虫の声かと思った音も、聞きなれてくると小気味良い。
楽しくなって来てしまった彼女は何度もその取っ手を上下させていた。
「なるほどねー! 裾のここを噛み合わせて上下すると閉じたり開いたり出来るのかー。ボタンの何倍も楽ちんね、これは素晴らしい服だわ!」
見た事ない生地、見た事ないデザイン、見た事ない構造、見た事ない尽くしの服にベルのテンションがどんどんと上がって行く。
「そうだ! テオ! どっちが私に似合うと思う?」
「わぅ?」
テオは先ほどから興味無さげに後ろ足で耳の辺りを掻いてリラックスしていた。
「ちょっと! 真面目に聞いてよ! どっちが可愛い?」
「わぅ~……」
面倒臭いと言いたげな表情をしたテオは、おざなりに赤い服を着た人形の足元を前足で叩いた。
「お! テオは分かってるわねぇ。この落ち着いた赤、最初に見た時から良いと思ってたのよー! ちょっと着てみよっと。そうだ、折角だし他の服も――」
「わぅ……」
そしてベルの一人ファッションショーが開始されて行く。
徐々にげんなりしていくテオの様子に彼女は終始、無頓着であった。
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