水面は揺れる
目を開けば、水面を見上げていた。
きらきらと銀色に揺らめくそれがどうして頭上にあるのか、私にはわからなかったし、きっとXにも理解できなかっただろう。ほとんど反射的な行動だったのだろう、左の腕が頭上に伸ばされるけれど、水面には届かない。
それから一拍おいて、Xの視点が自分自身へと向けられる。水中であることを示すように空の右袖が揺らめいているけれど、不思議なことに呼吸には困らないらしく、水底に足をついたまま辺りを見渡す。
辺りは青に染められていたけれど、あちこちに瓦礫のようなものが転がっていて、その間から何かが見え隠れしている。Xは水底を蹴って、水の中らしいゆるやかな動きでそちらに近づいてみる、と。
瓦礫に隠れるようにして座っていたのは、一人の女性だった。うっすらぼやける視界の中で、長い髪を水の中に揺らめかせ、じっとこちらを見つめているようだった。女性の服装は胸元と下半身を覆う襤褸切れのみだった。Xは何かを語りかけようとしたが、声は水に遮られてくぐもった音になるだけで、はっきりとした「声」にはならない。
すると、女性は音もなく立ち上がり、襤褸切れを揺らしながらXに近づいてくる。Xがその場に留まっていると、女性はXの目の前にまでやってきた。切れ長の目にすっと通った鼻筋を持つ、綺麗な顔の女性だと思う。そうして観察をしている間にも女性はXに向けて手を伸ばし、片方だけの腕を握りしめる。
Xが何事かを問いかけようとしたが、やはりそれは言葉にならず。
女性はXの腕を握ったまま水底を蹴る。Xはただ、ただ、それに従うしかない。果たしてそれが正しい判断であるかはわからないままに。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
今回の『異界』は、水の中を思わせる場所。それが本当に水中であるのかを私が判断することはできない。結局のところ、私たちが得られるのはXの視覚と聴覚で得られた情報のみであるがゆえに。
水底を蹴りながら、女性に連れられて瓦礫の間を抜けていく。すると、徐々に行く先に何かが見えてくる。それは水中に切り取られた窓のように見えた。窓の向こうはXのいる場所よりも一段暗くなっていて、そこから何かが顔を覗かせているように、見える。
女性はその窓らしきものに近づいていく。Xもそちらに近づいて行って、そして、窓の向こうにいる「何者か」を目にした。
それは岩のような肌をした、人型の、しかし明らかに「人間」ではない何かだった。それが、いくつも、いくつも、窓に張り付くようにして存在している。岩と岩の継ぎ目を思わせる暗がりから覗く一対の光――もしかしたらそれが「目」なのかもしれない――が、じっとこちらを見つめている。
女性はすらりとした手を伸ばして、窓の外に向けて手を振る。すると、岩めいた人々の一部もまたこちらにむけて手らしき部位を振り返してくる。こちらを指さす者もいれば、動かずにじっとこちらを見つめ続けている者もいる。
視界の隅で嬉しそうに無邪気に笑う女性に対し、Xはどんな表情を浮かべていただろうか。わからないけれど、岩めいた人々をじっと見つめ返す。
岩めいた人々は代わる代わる窓の外を行き交い、時折立ち止まってこちらを観察している。そう、それは「観察」と表現すべきだろう。私も何とはなしに気づき始めていた。Xの置かれている空間がどのような意味を帯びているのか。
窓の外にいる人々が、こちらを見ている。女性とXは窓の内側で「見られる」側である。この場はきっと、そういう風に「作られた」場所だということを――Xもまた、気付き始めていたに違いない。窓から離れようと、じり、と床を蹴って下がる。
しかし、女性がそんなXの腕を引く。水の中で上手く身動きが取れないXに対し、女は陸上にいるのとさほど変わらないような素早い動作でXに取りすがり、身を寄せる。女性の笑顔がすぐ目の前に迫って、Xの顔を覆う。
ディスプレイに映るXの視界でしか判断できないが、おそらく、これは……、キスなのではなかろうか。女性はXに覆いかぶさり続ける。それが数秒続いたところで、息継ぎをするように女性の顔が離される。
Xの視界の中で、女性は笑っている。だが、その表情は先ほどまでの無邪気なものに加えて、何か、言い知れぬ不気味さを伴っているように、感じられた。
Xは左手を振って女性を突き放そうとするが、女性はその細い腕でXに絡み付く。視界の端では、岩めいた人々が窓越しにじっとこちらのやり取りを見つめている。彼らの放つ目の光が、ちかちかとディスプレイに映っている。
そんな無数の視線の中で、もう一度口づけをしようというのか、女性の顔が近づけられる。Xは肩を押さえつけられる形になりながらも抵抗する、けれど女性が離れることはない。一体どこにそのような力があるのかわからないが、女性のしらじらとした腕が、そして絡められる足が、Xを拘束し続けるのだ。
Xは口づけを拒むように顔を背けるも、背ければ今度は岩めいた人々と目が合ってしまう。彼らの表情を読み取ることはできないが、その目に宿るのが好奇の色であることは、何となく察することができてしまう。
観察されている。Xと女性が絡み合っているところも、口づけするところも、全て、全て。もしくは、口づけよりも先を期待されているのか。だとすれば。
ぐい、とXの首が無理やり女性へと向けられる。再びのキスは、先ほどよりももっと長く、深いもので。スピーカーからXのくぐもった、苦しげな声が漏れる。このまま呼吸を止められるのではないかと疑いたくなるくらいの、長い口づけ。
それがついに終わって女性の唇が離された瞬間、Xは何かを言った。
その言葉が何であるのかは、流石に私にもわかった。
「引き上げて」
引き上げの、合図だ。
だが、すぐに引き上げが始まらない。ディスプレイからスタッフたちの方に視線を投げかければ、スタッフたちもまたディスプレイに釘付けになっていた。Xと女性を観察する、あの岩めいた人々と同じように。
「早くして」
もう一度声をかけたことで、我に返ったスタッフたちが慌てて持ち場につくのを横目に、私はつい、溜息をつかずにはいられなかった。
「勘弁してください」
――とは発言を許可されたXの談。
今まで『異界』においていくつもの危機に巻き込まれてきたXがそう言うのだから、今回の『異界』での出来事は相当Xにとって堪えるものであったらしい。実際、今回の『異界』は今までにないパターンであったと思う。
「X。あの『異界』は何だったと思う?」
「『動物園』……、いえ、『水族館』でしょうか」
同感だ、と頷く。どういう仕組みかは知らないが、あの『異界』は人間が水中でも問題なく生存できる。そして、窓からこちらを見ていたのは、人ではない、しかし人のような生き物たち。
ただ、それはあくまでXの視点で見た認識だ。おそらく、Xがいたのは巨大な水槽の中で。窓の外に見えた岩めいた人々の手によって作られた空間であったに違いない。そして、そこにいた人間の女性は、彼らにとっての展示物であった――。
一体どうして、人間が水の中で生きられるようになったのかはわからない。Xから得られる情報だけでは判断できないことは数多い。ただ、あの『異界』においては水の中に生きる人間の方が展示される側であり、岩めいた人々が展示物を見る側であったのは間違いないだろう。
そして、そんな水槽に新たな展示物としてXが入り込んだ、というわけだ。
岩めいた人々の好奇の視線を思い出す。そして、無数の視線の中であの女性がXに対して取ろうとした行動を。
「……あの『異界』では、人間の生殖行動はそんなに珍しいものなのかしら」
「こちらでも、人前でするものでは、ないのでは?」
「それはそうね」
Xにも常識と人並みの羞恥心というものは備わっているのだな、と思う。時々、妙にずれた感性を見え隠れさせるところから、備わっているのかどうか疑問に思っていた部分ではあったのだが。
「ともあれ、災難だったわね。今日はゆっくり休みなさい」
はい、と言ってXが寝台から降りる。じゃり、とXの両手を繋ぐ手錠の音が鳴る。それから、Xが「あ」と何かを思い出したようにこちらを振り向いた。
「一つ、質問をしてもいいですか」
「どうぞ?」
「今回、引き上げまでに、少し時間が空きましたが、何か、理由が?」
気付かれている。手を止めていたスタッフたちが視界のあちこちでびくりと体を震わせる。私はやれやれと首を振って、言う。
「人間の生殖行動に興味津々だったのは、あちら側だけじゃなかったってことよ」
「……なるほど?」
スタッフたちに視線を向けたXの目つきが剣呑さを帯びたのは、きっと気のせいだったと思うことにする。
次の更新予定
無名夜行 青波零也 @aonami
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