悪魔ではなく

「ねぇ、覚えてる?」

 投げかけられる問いかけに、Xは首を傾げる。

「何をですか」

「あなたが、初めて来たときのこと」

「もちろん、覚えていますよ」

 Xの低い声は、狭い部屋の中に柔らかく響いた。その声を聞いてほっとしたのだろう、布団の上に上体を起こしていた彼女は、強張った表情を緩めて微笑みを浮かべた。

「あなたが助けてくれなかったら、わたし、どうなっていたことか」

「偶然ですよ。……本当に、偶然です」

「偶然かもしれないけど、わたしは運命だと思ったの。あなたに会う、運命」

 運命などという言葉を、果たしてXは信じているだろうか。私はそうは思えなかった。けれど、Xは肯定も否定もせずに、彼女の声を聞いていた。

 ……聞いて、いたのだ。

 

 

 ――『異界』。

 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。

 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。

 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。

 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。

 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。

 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。

 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。

 今回、まずXが降り立ったのは明るい森の中だった。広葉樹が日の光を透かしており、足元の草葉にまで木漏れ日が届いているのだろう、豊かな緑が広がっていた。Xの視界を通して見る限り、こちら側のものとそう大きく変わっては見えない、それ。

 Xはすぐに探索を開始した。事前にXが生存できる環境であるかのチェックは行っているが、『異界』の詳細な様子は、Xが己の目と耳、そして足で確かめるしかない。

 一歩、一歩、辺りを見渡しながらのゆったりとした探索は、しかし、ものの数分で中断されることになる。何者かの、助けを求める悲鳴によって。

 私の声が『異界』にいるXに届かない以上、『異界』での判断は全てXに委ねられている。そして、Xは迷わず悲鳴が聞こえてくる方向に駆けだした。草を踏みつけ、木の根を飛び越えて走っていくうちに、人の足で踏み固められた道へと行きあたる。そして、そこをまろぶように駆けてくる少女と出会ったのだった。

「助けて!」

 西洋のおとぎ話に出てくるような服をまとった少女は、こちらにもわかる言葉で言った。見れば、すぐ背後には犬に似た姿の大きな獣が迫っていて、今にも少女に飛び掛かろうとしていた。

 このような場面に出くわした際のXの判断は決まり切っていて、私はつい額を押さえる。

 Xは私の想像通り、探査という大目的を放り投げ、獣と少女の間に割って入ったのである。獣がXの肩に取り付き、その喉笛に噛みつこうとするも、Xは獣の爪が体に食い込み裂けるのも構わず獣の体を片腕で力任せに押し返したことで、かろうじて喉へ食らいつかれるのは回避した。

 Xから離れて地に降りた獣は、Xの傷口から漂う血の匂いに更に興奮したのか、だらだらと涎を垂らしながらXに迫る。Xは背後の少女を庇うようにその場に立ちはだかる。もはや逃げるという選択肢はXには存在しなかった。

 すると、獣が不意に虚空に視線を向けたと思えば、Xに背を向けて一目散に逃げ出した。Xが背後を見れば、ごうごうと燃える松明をかざした男性が数人やってくるところだった。

「おい、悲鳴が聞こえたが、大丈夫か!」

 どうやら松明の炎と、そこから立ち上る煙が獣を怯えさせたらしい、と想定はできるが、それ以上のことは判断がつかない。Xがぼんやりそちらを見ていると、彼らはXと少女を取り囲んで口々に言った。

「災難だったな。こんな街近くまで獣が来るのは珍しいんだが」

「この辺では見ない顔だが、あんたがこの子を助けてくれたのか」

「おい、お前さん、怪我してるじゃないか。手当てをした方がいい」

 Xはぱちりと一つ瞬きして、それから首を横に振る。

「いえ、私は――」

「すぐ街に戻って手当てしましょう! 傷が悪化したら困るもの!」

 Xの言葉は、少女が上げた声に遮られることになる。少女は今にも泣き出しそうな顔でXを見上げていて、Xは出しかけていた言葉を引っ込めざるを得なくなる。そして、代わりにわずかに首を傾げて言った。

「すみません。ありがとうございます」

「ありがとうを言うのはこっち。……助けてくれて、ありがとう」

 そう言って、そっと、少女はXの手を握る。Xはきっと戸惑っていたに違いないが、少女の手の感触を確かめるようにその手を握り返す。その温もりを私が知ることはないけれど、きっと温かいのだろうなと何となく思った。

 

 

 彼らの言う「街」は確かにすぐそこにあった。森の中に存在する小さな街に招かれたXは、少女の家で手当てを受けることになった。少女の両親はXに何度も感謝の言葉を投げかけてきて、Xの方が恐縮して縮こまってしまうくらいであった。

 獣の爪ですっかりぼろぼろになってしまったシャツを脱がされ、傷ついた肩を中心に包帯を巻かれて。Xはその間きょろきょろと辺りを眺めていた。これもまた、おとぎ話に出てくるような、小さくもかわいらしい家。暖炉には火が燃えていて部屋を暖めている。

「最近、何だか森が騒がしい気がするの」

 Xの手当てをしながら、少女が言う。

「獣がこんな街近くまで来ることも珍しいし、悪いことが起きなければいいんだけど」

 Xはそんな少女の言葉を聞きながら、自分の左手が変わらず動くことを確かめていた。痛みを感じていないということはないはずだが――意識体といえど、疑似的に肉体を形作っている以上は苦痛はそのまま感じるようにできている――、Xはしれっとしたものだ。

 そんなXに興味を引かれたのか、少女はXの顔を覗き込んで大きな目をぱちぱちと瞬かせる。

「ねえ、あなたはどこから来たの? 森の外から?」

「そうですね。ここから遠い場所からです」

「そっか。ここ、外から来るひとなんてめったにいないんだ。何にもない街だもんね」

 少女はXの包帯を巻き終えると、「それじゃあ、ちょっと待っててね」と言って隣の部屋へと消えていった。手持ち無沙汰になったXはぼうっと窓の外を見やる。窓の外では日が沈み始めていて、空がゆっくりと赤く染まってゆく。

 その時、だった。

 獣の遠吠えと思われる音色が、私の前のスピーカーから聞こえてきた。それも一つではない。最初の遠吠えに呼応するように、いくつも、いくつもの声が唱和して。それが異様なものであることは、Xや私のようなこの『異界』について何も知らない者以外にとってもそうであったらしい。隣の部屋から戻ってきた少女も、顔を青くして言う。

「今の、何?」

「遠吠えのように聞こえましたが」

 続けざまに、かんかん、という甲高い音が響く。確か、街の真ん中に鐘が下がった櫓があったな、と思い出した次の瞬間、窓の外から大音声が響いた。

「みんな、家の中に戻れ! 獣だ、獣が集まってくる!」

「何故だ、火が、煙が、効かない……!」

「扉と窓を閉めろ、家に入らせるな!」

 小さな街は、一瞬にして混乱に包まれた。外では、松明を持って獣を追い返そうとする人々の声が徐々に悲鳴に変わっていくのがわかる。

 少女とその両親も窓を閉め、身を寄せ合って震えることしかできないようで、Xはそんな少女たちを一瞥したのちに、のそりと動き出す。

「ど、どこに行くの?」

 少女が震える声で問いかけてくるのに対し、Xは包帯を巻いた肩を小さく竦めてみせるだけで、答えなかった。代わりに「すぐ扉の鍵を閉めてください」とだけ言い残して、無造作に家の外へと歩み出る。

 ディスプレイ――つまり、Xの視界いっぱいに広がった情景は、窓に切り取られて見えていた情景よりも、よっぽど酷いものだった。地面に落ちた松明が、暗くなりゆく世界にかろうじて明かりを灯し、倒れた人間を食い荒らす獣たちを映し出している。

 その獣たちの目が、新鮮な「餌」であるXに向けられる。それらは言葉通りに飢えた獣の目をしており、まだまだ物足りないのだと語っている。Xはそのまま森の方角に向けて駆けだす。その場にいた獣たちは反射的に動く獲物であるXに追従する。

 そのまま、獣たちを街の外まで誘導しようというのか。無謀としか言いようがない。おそらく、X自身それをわかっていながら、それでも、そうせずにはいられなかったのだろう。

 いくらなんでもXの足が獣より速いわけもなく、飛び掛かってくる獣の爪が、牙が、Xの体に食い込む。包帯が解け、できたばかりの傷口があらわになる。それでも、Xは走ることを止めない。いつの間にかサンダルは脱げ、裸足になっていたけれど、構わず走り続ける。

 追いすがる獣の数は増えるばかりで、獣の体当たりを受けてXはよろめく。がくりと速度が落ちたところで獣たちがXに殺到し、その体を引き裂かんとして――。

「引き上げて」

 私は指示を下す。Xが死んだとしても、代わりはいくらでもいると言ってしまえばそれまでだ。だが、優秀なサンプルであるXを失うことはできる限り避けたい。それが、私たちプロジェクトメンバーの総意でもあった。

 だから、私たちはXの意識が完全に「死」を認識する前に、『異界』からXの意識を引き上げる。目には見えない命綱を手繰り、私たちの前に横たわる肉体に、意識を呼び戻すのだ。

「引き上げを完了」

「意識体、肉体への帰還を確認」

 寝台の上に横たわっているXの体がびくりと震え、その目がかっと開かれる。荒い呼吸がこちらの耳まで届く。私は横たわったXを見下ろして、言う。

「X。……あれ以上『潜航』を続行するのは不可能と判断して、引き上げたわ」

 Xは私の声を聞いてやっと状況を理解したのか、激しく瞬きをしてから体を起こそうとして、顔を顰めた。意識体の痛みを引きずっているに違いなかった。肉体にダメージがなくても、意識体が負った傷はこちら側に戻ってきてからも感じられるものであるらしい。ドクターがXの頭に取り付けたコードを外して、状態を確認するのを横目に、私は言葉を続ける。

「ただ、まだ得られた情報は少ない。そして、当該の『異界』は今のところ安定してこの世界の側に存在している。……つまり、続けての『潜航』が可能ということよ」

 これは珍しいパターンだ。通常、『異界』はこの世界に近づいては離れるを繰り返しており、ひとつの『異界』に潜れる時間は限られている。だが、今回の『異界』は現時点ではまだ続けて潜れるだけの距離を保っている。

「意識体の回復を待って再び潜ってもらうわ。いいわね」

 Xはまだ痛みにわずかに表情を歪めながらもこくりと頷いた。Xは極めて従順なサンプルだ。従順すぎるほどに。

 そして、再びの『潜航』が行われることになったのは、翌日のことであった。

 

 

 Xが降り立った座標は当初の森から少しずれて、街の中であった。

 辺りを見渡してみると、獣の蹂躙の痕跡はすっかり消えていて、青空の下に明るい街並みが広がっていた。

 街中に突然現れたXに、辺りを歩いていた人々はぎょっとした顔を向け、そそくさと逃げ去っていく。街の人に話を聞こうと思っていたのだろうXは上げかけた手を下ろして、ふらふらと歩き始める。

 まるで、昨日の出来事などなかったかのような街。もしかするとよく似た別の『異界』に迷い込んでしまったのか、と私も思いはじめたその時だった。

「おい、そこのお前……!」

 声をかけられて、Xはそちらを振り向く。そこには一人の男性が立っていたが、その男性には見覚えがあった。少女を助けに入った時に、駆けつけてきた人物の一人だ。

 だが、彼はこんなにも、老いていただろうか?

 明らかに昨日見たときよりも皺が増え、髪も失われているその男性は、怒りと恐怖とをないまぜにした顔でXを見据える。

「ああ、隻腕に、その目、その顔。間違いない」

 じり、と一歩下がった男性が、ヒステリックな声を上げる。

「また、獣をけしかけに来たのか! 悪魔め!」

 その言葉には、Xも「は?」と疑問符を投げかける。けれど、男性はXの戸惑いに気付いた様子もなく、大声で叫ぶ。

「助けてくれ、街を滅ぼす悪魔が来たぞ!」

 その声をきっかけに、街は混乱に陥った。Xの姿を見るなり逃げ出すもの、逆に思い思いの凶器を持って殴りかかってくるもの、それらの間を縫ってXは駆けだす。けれど、どこに逃げろというのか。街の外の森に逃げ込めばよいのか。私がどれだけ考えたところで、Xに届くわけではないのだけれど――。

 そう思った時、Xの腕が強く引かれた。見れば、一人の女性がXの腕を掴んでいた。

「こっちよ、来て」

 引かれるままに足を進めれば、女性は建物と建物の間に体を滑り込ませて、身を潜めた。Xもそれに従えば、すぐ目の前をXを探す人々が行き過ぎるのが見えた。

「……大丈夫?」

 ぽつり、響く声。Xは改めて女性を見る。……その顔には、やはり覚えがあった。

「君は、あの時の」

「覚えていてくれた?」

 女性はぱっと笑う。忘れられるはずもない、昨日助けた少女と同じ顔で。だが、目の前の女性は「少女」と呼べる年齢ではなくなっている。先ほどの男性と同じように、たった一日でこれだけの年齢を重ねている。

 否、そうではない。そうではない、のだ。

「二十年前に、わたしのこと、助けてくれたでしょう?」

 二十年前。「二十年」が我々の使っている暦と同じものかはともかくとしても、「一日」とは異なる時間であることは間違いないだろう。私たちが観測していない間に、この『異界』ではそれだけの時間が経過していたということだ。

「あなたは、全然変わらないのね。もしかして、本当に、悪魔なのかな」

 女性はXを見上げて笑ってみせる。Xは状況を把握するのに精一杯なのだろう、何も言葉が出ないままでいる。そんなXの手を握りしめて、女性は言うのだ。

「でも、怖くはないよ。あなたが、わたしを、わたしたちを助けようとしてくれたのは、本当だって思ってるから」

「……だけど、私は」

 結局、何もできなかったのだ。獣に襲われた街を前にして。……おそらく、そんなことを言おうとしたのだろう。が、その唇は、女性の指先によって塞がれる。

「わたしは、あなたを信じてる」

 Xはそんな女性を見下ろして、一体何を思ったのだろうか。何かを言おうと、口を開いて声を放ちかけて――。

「後ろ!」

 女性が悲鳴を上げる。Xがとっさに後ろを振り向くと、両手で棒を振り上げる人物と目が合った。

「見つけたぞ、悪魔!」

 そのまま勢いをつけて振り抜かれる棒を何とか避けるが、狭い建物と建物の隙間では上手く動けずに壁に背をつける形になってしまう。その間にも、人の気配がどんどん迫ってくるのがわかる。完全に逃げ場を失ったといえる。

 怯える女性をちらりと見たXは、ふ、と息をついて。

「信じてくれて、ありがとうございます。それから、」

 ごめんなさい、と。小さく呟いて。再び棒を振り上げてくる暴徒を見据えたまま、その言葉を、唱える。

「引き上げてください」

 

 

 かくして、引き上げは済んだ。上体を起こしたXはじっと己の手を見つめている。直前まで女性の手を握っていたその手を。

「どうやら、こちらと向こうでは、時間の流れがずれるみたいね。その間に、外から来たあなたの存在が幾分歪めて語られるようになった……、といったところかしら」

 突然現れて消える「外の人間」に全ての責を押し付ける、というのは『こちら側』でも昔からあることだ。それは『異界』でも変わらない、ということであろう。

「これ以上の探査は難しいかもしれないわね。あなたにも負担を強いることになる」

 すると、Xは顔を上げて、私を見た。何か、言いたいことがある時の合図だ。私は一つ息をついて、Xに発言の許可を出す。

「いいわよ、発言があるなら聞くわ」

「……もう一度だけ、潜らせてください」

「珍しいわね、あなたから希望を聞くなんて」

 Xは私の命令を聞くだけのサンプルだ。私がそうあれと命じたわけではないのだが、X自身がそう定義しているところがある。故に、極めて珍しいことだ、Xが己から『潜航』を希望するなど。

「私は、もう一度、彼女に会わねばならない、そんな気がするんです」

 理由としてはあまりにもあやふや。けれども、私は「一度だけなら」とXの言葉を認めた。何となく、私自身も、そうしなければいけないような気がして。

 そして、そのまま『潜航』が行われることになり――。

 Xは、彼女ともう一度、相対したのだった。

 

 

「……ああ、やっぱり、来てくれたのね」

 彼女はXを待っていた。寝台の上で、すっかり老いた姿になって。

 街には、いつからか不治の病が蔓延するようになったのだと、彼女は言った。それもまたXという、外からやってきた「悪魔」のせいなのだとも。

 事実としてXはここにいて、病に倒れた彼女を見下ろしている。

 彼女の、老いさらばえた手がXに向けて伸ばされる。Xは少しだけ躊躇った後に、その手にそっと己の手を重ねて、指を絡めた。その手の感触を、私が知ることはない。私が観測できるのはXの視覚と聴覚だけで、触覚までは読み取れなかったから。

 彼女は目を細めて、嬉しそうに笑ってみせる。

「あなたの手、いつだって温かいのね」

 Xは答えない。その代わりに、彼女の手を握る力を強めたようだった。その手触りを確かめるように。もしくは――忘れない、ように。

「あなたがいない間、色々なことがあったの。本当に、色々な、ことが」

 彼女は言葉を言い終わる前に激しく咳き込む。Xは慌てて彼女の背中を支えようとするが、彼女が首を横に振ったことでその手が虚空で止まる。

「いいの。どうか、手を、握っていて」

 咳の合間に投げかけられた言葉に、Xは「はい」と答えて彼女の手を握りなおす。体を布団の上に横たえた彼女は喉から嫌な音を立てながらも、表情は酷く穏やかだった。

 カーテンを閉ざした窓の外からは激しい罵声が響いてくる。もちろん、Xも気付いていないはずはない。それでも、Xは彼女の手を硬く握りしめたまま、その場から動こうとはしなかった。

 ……彼女が、息を止めるその時まで、ずっと。

 窓の外には街中でXの姿を見つけた住民たちが集まり、口々に悪魔を殺せと叫んでいた。その罵声を聞きながら、辺りに煙が立ち込め始めていることに気付く。家に火を放たれたのだと察する。

 もちろん、気付いていないはずもないのだろうが、Xは動かない。もはや動くことも喋ることもない彼女の手を握りしめたまま、ぽつりと、呟いた。

「……悪魔なら、よっぽどよかったのに、な」

 Xはただの人間だ。人をたくさん殺したことがある程度の、ただの、人間。

 だから、彼女の死を覆すこともできなければ、この街に迫る滅びをどうすることも、できやしない。……きっと、そういうことなのだろう。

 炎が視界の端にちらつき始める。Xはそれでも動かなかった。

 私が引き上げを命じるまで、ずっと、ずっと、そうしていた。

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