過ぎ去った時間

 チャイムの音がスピーカーから響いてくる。

 Xの瞼が開かれて、ディスプレイに映し出されたのはまず、うっすらと白く汚れた黒板だった。そして一拍を置いて、そこが、いくつもの机が並べられた空間であることを理解する。

 ――教室、だ。

 教室の片側いっぱいを占める窓からは、赤みを帯びた太陽の光が射しこんでいて、今が放課後の時刻であることを告げている。あちこちから、さよならを告げる声が聞こえてきて、一人、また一人と、高校生くらいとみられる制服を纏った生徒たちが教室を立ち去っていく。

 そんな只中に、Xは立っていた。誰に見咎められることもなく。

 自分の姿を見下ろしてみれば、普段のラフな服装ではなく、いつの間にか周りの生徒たちと同じブレザーを着ているようだった。もしかすると、服装を含めた姿が、この『異界』に合わせたものに変わっているのかもしれなかった。そのような例も皆無ではないことはこれまでの『異界』への『潜航』で明らかになっている。

 それにしても、この、当たり前の学校の教室に見える場所も、またひとつの『異界』なのか。Xもこの状況には戸惑っているように見え、きょろきょろと落ち着きない様子で辺りを見渡している。

 ただ、どうあれ自分の目で『異界』を確かめるしかないのだ。Xもまたそれに気付いたのだろう、視点を教室の扉に定めた――ところで、不意に声が飛び込んでくる。

「まだ帰らないの?」

 それが自分に向かって放たれた言葉であることを一拍遅れて把握したらしいXは、そちらに視線を向ける。そこに立っていたのは、やはりブレザーを纏って片手に鞄を提げた、ひょろりと背の高い男子生徒だった。眼鏡の下から、ぱっちりとした目がこちらを見下ろしている。

 Xは返答の言葉に悩んだのか、しばしの沈黙の後に言う。

「そうですね。まだ、帰るには少し早いので……」

「なあにー? 随分他人行儀じゃない。クラスメイトなんだから、遠慮はなしなし」

 ばんばんと背中を叩かれて、Xは一体どのような表情をしたのだろう。私には想像もつかない。けれど、どうやらXはこの男子生徒の「クラスメイト」ということになっている、らしい。Xは男子生徒を見上げて、ぽつりと言った。

「……わかった。それで、何か用かな?」

 それが『異界』のルールと判断できたなら、よほどのことがない限り逆らわない、というのがXの基本姿勢である。Xの先ほどより幾分砕けた返答に満足したのか、男子生徒はひときわ明るい声で言った。

「まだ帰らないんなら、ちょっと付き合ってくれない?」

「何に?」

「幽霊探し」

 

 

 ――『異界』。

 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。

 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。

 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。

 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。

 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。

 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。

 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。

 かくして、今ディスプレイに映し出されているのは一人の少年だった。

 目尻が少し垂れている以外に特段特徴らしい特徴のない顔立ちに、片目が利かないゆえの焦点の曖昧な視線。鏡に映し出されたこの『異界』におけるXは、Xの少年時代と思しき姿をしていた。こちら側の肉体と異なり、白髪の影もない黒々とした髪を撫ぜて、Xは身を翻す。本来あるべき右腕を欠いた袖が一拍遅れてついてくる。

 男子トイレから出てきたXを迎えた男子生徒は、眼鏡の位置を直して言った。

「それじゃ、早速幽霊が出たってところに行ってみよう」

「待って。そもそも幽霊探しって、何?」

 Xが今にも駆けだしそうな男子生徒に声をかける。男子生徒は「あれ、言ってなかったっけ」とあっけらかんとした調子で言う。

「最近、幽霊が出たって騒ぎになってるでしょ。だから、ここらでいっちょ、こっちから幽霊を探してやろうと思ってさ」

 最近、と言われてもここに来たばかりのXには当然わかるはずもない話だ。一体この男子生徒はXを誰と勘違いしているのだろうか。それとも、この男子生徒の発言もまた『異界』のルールの一つなのか。私にはわからないまま、話が進んでいく。

「幽霊の正体がわかってしまえば、変にびくびくする必要もなくなるでしょ? そもそも、幽霊なんてばかばかしいってね」

「……まあ、言いたいことは、わからなくもない」

 ただ、数々の『異界』を見てきたXからしてみれば、「幽霊」と称されるようなものの存在を頭ごなしに否定することもできないのだろう、それ以上の言及はしなかった。男子生徒は曖昧なXの回答でも十分に満足であったようで、胸を張って言う。

「そんなわけで、幽霊の正体を見に行こう」

「わかった。それで、幽霊が出るっていうのはどこなんだ?」

「定番も定番、音楽室さ」

 言いながら、夕日の光が射しこんでくる廊下を二人で行く。時折、先生と思しきスーツ姿の人が通りがかり、挨拶を交わす。やはりXの存在は違和感なくこの『異界』に溶け込んでいるらしい。

 階段を上っていき、最上階に位置する音楽室へ。向かっていくと、くぐもったピアノの音が聞こえてきて、どうやら音楽室に誰かがいるらしいことが窺えた。しかし、男子生徒がドアノブを回してみるが開かない。がちゃがちゃと乱暴な音が響くだけだ。

「内側から鍵をかけたのかな。すみません、開けてもらえますか」

 Xが試しにドアを叩きながら声をかけてみるが、変わらずピアノの音が聞こえてくるだけで返事が無い。向こうからピアノの音が聞こえてくる以上、こちらの音が聞こえていないということもなさそうだが――。

 すると、男子生徒が大げさに肩を竦めながら言った。

「いや、無駄無駄。ここ、外から鍵を使わないと閉まらないんだよ」

「とすると、どうしてピアノの音が聞こえるんだ?」

 と言いかけて、Xは扉の方に視線を投げかけて、首を傾げる。

「……これが、幽霊の仕業?」

「そう、鍵のかかった部屋からピアノの音色が聞こえてくるって話」

 まさしく今のこの状態ではないか。鍵のかかった部屋の内側に、何者かが存在していてピアノを弾いている。外からしか鍵がかからない以上、中には誰にもいるはずがないというのに。そう考えれば確かに不気味な話である、けれども。

 男子生徒は自分のポケットをまさぐると、その中から長い鍵を取り出す。

「そしてここに、職員室で預かってきた音楽室の鍵があります」

「あるなら早く出してくれないかな」

 Xはきっと、相当じっとりとした視線を向けたに違いない。男子生徒は「ごめんごめん」と全く申し訳なさそうに言って、鍵を差し込む。その時、ちょうどピアノを弾き終わったのか、音がぴたりと止んだ。

 がちゃり。音を立てて音楽室の鍵が回される。そして、男子生徒がドアノブに手をかけて、勢いよく扉を開く。

 そこに広がっていたのは広い部屋だった。楽器や机は端に寄せられていて、広くなった床を夕焼けの赤い光が埋め尽くしている。

 そして、一際存在感を放つ黒々としたピアノの元には――誰も、いなかった。

 男子生徒は怪訝な顔をして、ピアノの側に歩み寄る。だが、Xの視界で見る限り人の気配はどこにもない。もちろん、ピアノの蓋もしっかりと閉ざされていて、誰かが弾いていた形跡もない。

「幽霊の気配はない、んだけどなあ」

 男子生徒が腰に手を当てて首を傾げるのをよそに、Xはおもむろに動き出す。あちこちに視線を向けて、やがてその視線が一点に向けられる。

「これか」

 Xが指さす先にあったものは、一抱えほどのサイズのCDラジカセだった。赤い光に照らされているそれに近寄って、観察する。

「電源、入ってる。多分、これが鳴ってた」

「え、そんなもん?」

 男子生徒がXの手元を覗き込んでくる。Xはそれを横目に見ながら、CDラジカセのCD挿入部を開く。中に入っていたのはベートーヴェンのピアノソナタのCDだった。

「このCDを流したまま、教室を出て鍵を閉めれば、中からピアノの音が聞こえる」

「それはそうだけどさー、そんなに簡単なもんだったかー……」

「そういういたずら、じゃないか。いたずらをする神経は、わからないけど」

 とにかく、これが幽霊の正体だ、とXは言う。男子生徒は「はー」と大げさに溜息をついて肩を落とすも、すぐに顔を上げてXの背中をばんばん叩く。

「いや、正直俺じゃわかんなかったわけだからな。ありがとう、これで大々的に幽霊なんていなかった、って言うことができる」

 Xは男子生徒に向き直る。そして、首を傾げて問いかける。

「それは……、皆のため? それとも幽霊のため?」

 男子生徒は眼鏡の下で目を見開いて、それから苦笑じみた表情を浮かべてみせる。

「どうしてわかったんだ? 俺が『幽霊のため』に幽霊探しをしてるって」

「さっき、『幽霊の気配はない』って言ったから。君には、見えてるのかなって」

 ぽつり、ぽつりと。Xは言葉を落とす。男子生徒は「はは」と愉快そうに笑ってピアノに手をかけた。

「そっか。……そう、当の幽霊から頼まれたんだ。『幽霊騒ぎを収めてほしい』ってさ。自分たちは大人しくしてんのに、わざわざ騒がれて探されるのは迷惑だ、ってね」

 その言葉をXはどのような思いで聞いているのだろう。私にはわからないけれど、男子生徒は、自分の淡い色の髪をぐしゃぐしゃとやる。

「いや、まさか、こんな話、信じてくれる奴がいるとはね」

「友達が。やっぱり、『見えるひと』だったから」

 友達。Xの口からそんな言葉が出るとは思わなかった。それが果たして本当のことなのか、それとも口から出まかせなのか――ただ、Xに限って後者は考えづらいとも思った。Xは嘘をつくことも、誤魔化すことも決して得意ではないから。

 Xの友達。それは、今もなお友達であり続けているのだろうか。あり続けていたとしても二度と顔を合わせることはない、そんな相手について、つい、思いを馳せる。

「だから。きっと、そういう人もいるんだろうな、って思っただけだ」

 そう言ったXは……、わずかに表情を緩めてみせたのではないだろうか。Xのことをよく知っているわけでもないけれど、男子生徒がにっと笑ったのを見ると、何となくだが、そんな風に思えた。

「それだけでも、嬉しいよ」

 男子生徒はそう言って、うん、と伸びをした。ただでさえ長い体が更に縦に伸びる。何とはなしに、猫のようだなと思う。

「よし、幽霊の正体も見たことだし、帰るかあ」

 帰る。つまり、この男子生徒には帰る場所があるのだろう。この『異界』のどこかに。Xはそんな男子生徒を目を細めて見て、それから言った。

「鞄、教室に忘れてたから。……先に、帰っててくれないかな」

「あっ、ほんとじゃん。もー、早く言ってくれよな」

 男子生徒と二人で音楽室から出て鍵をしっかり閉めたことを確認すると、男子生徒はふわりと朗らかな笑みを浮かべる。

「じゃ、また明日」

 また、明日。

 Xにこの『異界』での明日はない。けれど、この男子生徒はXと会えると信じて疑っていないようだった。Xはそれに応えるように、片方だけの手を振った。男子生徒は笑みの気配だけを残して、廊下を大きな歩幅で歩いていき、階段に消えていった。

 Xは男子生徒が見えなくなった時点で振っていた手を下ろし、それから指をぎゅっと握りしめてみせる。目には見えない何かを掴むように。

 廊下に差し込む光は徐々に力を失っていく。響き渡るチャイムの音色を聞きながら、Xはただただその場に立ち尽くしていた。

 私は、ただ、そんなXの視界を共有することしかできない。

 彼の思いまでを共有することはできないし、する必要もないとわかっていても。何故だろう、わずかに胸を締め付けられるような思いに囚われるのだ。

 ディスプレイの向こうでは、ゆるやかに、ゆるやかに、時間が流れていく。……遠い日に過ぎ去ってしまった、今はもう戻ることのできない時間が。

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