アンダーコンストラクション

 まず、Xの目に映ったのは、澄んだ青だった。

 青い、青い、空だ。向日葵に囲まれた長いアスファルトの坂道が目の前にあって、遠くに煌めいているのは海……、だろうか。強く明るい日差しが降り注ぎ、海と空との間には真っ白な入道雲が立ち上っている、けれど。

 青い空に、著しいノイズが走る。ディスプレイの不調かと思い、異界潜航装置を監視していたエンジニアと新人もXの肉体と装置との接続を確認するが――どうも、異常があるようには思えない。その間にも、青い空は徐々に色を失っていき、ブロックノイズによって風景に抜けが生まれていく。

「何だ、これ……」

 ぽつり、Xが呟いたことで、それが「Xの視界上の出来事」であることがはっきりする。つまり、ディスプレイがおかしいのではない。彼のいる『異界』で、今まさにこのような現象が起こっているということだ。

 呆然とその場に立ち尽くすXであったが、突如、ぱんぱん、という手を叩くような音が響いて、空に色が戻ってくる。まだブロックノイズはいくつか残っていたが、それでも風景はXの目にはっきり映るようになる。

 そして、声が、スピーカーから聞こえてくる。

「ちょっとちょっと、そちらさん!」

 Xが振り向けば。

 見上げる空と同じ、青い服をまとった女性が、Xの背後に仁王立ちしていた。

 

 

 ――『異界』。

 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。

 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。

 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。

 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。

 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。

 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。

 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。

 かくして一つの『異界』に降り立ったXは、青い服の女性と対峙して。

 女性は、胸を張って、言ったのだった。

「アンダー、コンストラクション!」

「はあ?」

 Xが間抜けな声を上げる。どうやら、言っている意味がわからなかったらしい。実際のところ、私も言葉の意味こそ理解できても、この女性の言わんとしていることは理解できなかった。

 おそらく相当間抜けな顔をしているだろうXをびしっと指さして、女性は言う。

「『工事中』ってことです! もー、オタクどこから入ったんすかー、さあさあ出てった出てった!」

 女性がぱんぱん、と手を叩く。すると、Xの視界に再びノイズが走る、が――。

「リーダー!」

 スピーカーを介さない、声。ディスプレイから視線を逸らし、声の聞こえた方向を見れば、異界潜航装置に取り付いている新人が、目を白黒させながら計器を見つめていた。

「強制的に引き上げが行われてますよ、これ!」

「何ですって?」

「こっちじゃ何も操作していないのに……、カウント、始まります!」

 引き上げ。『異界』に『潜航』しているXの意識をこちら側に引き上げて、肉体に戻す措置のこと。普通ならばXの判断で、もしくはXが判断できない状況の場合、私の判断で行われるはずのそれが、何故か勝手に実行されようとしている。

 いかなる仕組みはわからない。わからないが、この青い服の女性が、Xを「帰そう」としている。それだけは、はっきりと理解できてしまった。

 始まったカウントダウンは三十秒。引き上げを中断しようにも、不思議と受け付けてくれない、とエンジニアが唸る。

 その間に、Xは辺りを見渡していた。ノイズ交じりの、けれど不思議と見る者に懐かしさを感じさせる、夏の田舎町の風景。Xと女性が立っているのは、そんな町のバスの待合所のようだった。

 けれど、何かがおかしいと思ったのだ。

 そう、風景の中に何一つとして動くものがないのだ。並ぶ向日葵も、浮かぶ雲も、空に引っかかるように存在する鳥の影も、静止したまま動く様子が無い。唯一、Xと青い服の女性だけが動くものとして地面の上に濃い影を落としている。

 Xは自分が引き上げられる気配に気づいたのか、自分の手と女性とを交互に見返していたが、やがて、口を開いた。

「あの」

 女性の眉がぴくんと跳ねあがる。どうにも不機嫌そうな女性の機嫌を更に損ねるつもりだろうか。もし、これが「引き上げ」だけで済まなくなったら。例えば、手を一つ叩いただけでXを「消滅させる」ことだってできるのではないか――。

 そう思った矢先に、Xが周りを改めて見渡して、言った。

「素敵な、風景ですね」

 ……それは、私には全く想定できなかった台詞だった。

 そして、きっと、青い服の女性も想定していなかったに違いない。一瞬きょとんと目を見開いて――それから、心底嬉しそうにからりと笑ったのだった。

「ありがとですよ! 完成したらもーっと素敵になるんで、また見に来てくださいな!」

 そして、カウントが、三、二、一。

 

 

 引き上げ自体はごくごく正常に行われた。Xは引き上げられた途端、ぱっと体を起こした。頭に取り付けられたコードがぴんと伸びたことで、Xもふと我に返ったのかスタッフたちがコードを取り外すのを待って、それから、何かを訴えるようにこちらを見た。

「引き上げたのは私じゃないわ。もちろん、あなたが望んでなかったのもわかってる。でも、自動的に引き上げられたのよ」

 Xはしばし目を丸くして私の言葉を聞いていたが、発言を許可するとゆっくりと口を開いた。低い声が唇から漏れる。

「……追い出された、ということでしょうか」

「おそらくね。それにしても奇妙な『異界』だったわね」

 ノイズ交じりの風景。何もかもが静止した世界。そして、『工事中』だという、女性の姿をした何者か。

「一体、何が工事中だったのだと思う?」

「あの世界、そのもの、じゃないでしょうか」

「そうね。私もそう思う」

 世界を作る、なんて想像もつかなかったけれど。あの世界はどうにも「完成」しているものには見えなかった。多分、本当に工事中だったのではないか。あの青い服の女性の手によって。

 だから、きっとあの女性は、既存の概念に例えるならば……、神、のような何かだったのではないか。神というには、妙にフランクな態度ではあったが。

 すると、Xが珍しくこちらを見上げて「ひとつ」と口を開いた。

「……質問を、しても、いいですか」

「どうぞ?」

「同じ『異界』への『潜航』は、できるもの、ですか」

「難しいわね。『異界』の座標は常に揺れ動いている。あなたが『潜航』できるのは、偶然この世界に接近した『異界』だけ」

 けれど、と。私は、手にしたタブレットで遠ざかりゆく『異界』の気配を追いながら、付け加える。

「いつかは。再び接近するかもしれないわね。先ほどの『異界』も」

 それがいつになるかは私にはわからない。それこそ、このプロジェクトが続いている間に接近するのかも定かではない。当然、Xが異界潜航サンプルをしている間と時期を絞るなら、その確率は更にがくりと下がるだろう。

 それでも、Xはほんの少しだけ、表情を緩めるのだ。

「では、また、いつか……、ということで」

 また、いつか。そんな頼りない言葉を声にして、Xは私への視線を切って、今はもう闇しか映さぬディスプレイに視線をやる。青い空、青い海、白い雲に咲き誇る向日葵。絵に描いたような夏の風景を、そこに焼き付けようとするかのごとく。

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