隧道を行く

 暗い。Xの視界を通してまず認識したのは、闇だった。

 だが、目が慣れてくるにつれて、それが完全な闇ではなく、ごくわずかな灯りに照らされた空間であることが明らかになってくる。やわらかな光が頭上から降り注いでいるようだが、その正体を知ることはできそうになかった。

 Xは片方だけの腕で身を抱いて小さく震える。おそらく、気温が低いのだろう。意識体とはいえ、かりそめの肉体を形作っている以上は暑さ寒さも感じられる。Xが纏っている服だけでは寒さを凌ぐには辛いのかもしれない。

 この暗い空間は、一体どのような場所なのだろうか。Xの視界だけでは判断することが難しい。Xもまた同じことを思ったのだろう、とりあえず足を踏み出してみる。足元は均されており、どうも人工的な空間であるらしいことがわかる。

 そして、一方向に歩いてみると、壁に突き当たった。壁もまたわずかに光っているようで、Xの姿をぼんやりと浮かび上がらせている。Xは少しだけ考えた末に、壁を伝う形で歩き出した。

 ぺたぺたとサンダルの足音を響かせながら、Xはあてもなく歩いていく。この空間が一体どこまで続いているのかも、わからないまま。

 

 

 ――『異界』。

 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。

 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。

 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。

 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。

 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。

 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。

 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。

 柔らかな闇の『異界』は相当広いようで、Xが歩き続けていても、ずっと同じような空間が続いており、風景に変化がない。もしかすると、ずっと同じ場所をぐるぐると回り続けているのではないか。……そんな風にすら思えてくる。

 歩きながらXがひときわ深く息をついたその時、スピーカー――つまりXの聴覚が何かを捉えた。それは、がさがさと何かが擦れあうような音に聞こえたが、何の音なのかは判別できない。Xは足を止めて、その音に耳を澄ませる。

 どうやら、音はこちらに向かって近づいてきているらしい。音の聞こえてくる方向に視線を向けていると、遠くにぽつりと四つの光点が灯り、それががさがさとした音を響かせながらどんどんこちらに近づいてくる。

 やがて、Xはそれが「何」であるのかを知ることになる。……と言っても、具体的にそれを「何」と形容すべきかはわからなかったに違いない。がさがさと動き回る六本の脚を持ち、四つの目を光らせた、巨大な虫、と言えば実情に近いだろうか。金属めいた光沢を持つ体が、やわらかな明かりを照り返している。

 巨大な虫のような何かは、Xの前でぴたりと動きを止める。そして、虫のようなものの上から声が投げかけられる。

「どうしたんだい、こんなところで。迷子かい?」

 声はこちらにも通じる言葉で言った。完全に虫のようなものに気を取られていたため気づかなかったが、虫の上には人影が乗っていた。とすると、この虫はもしかすると、乗物、なのかもしれなかった。人影をよく見れば、黒い帽子を目深にかぶり、もこもことした服を身にまとった人であることも見て取れた。

「……そう、ですね。ここがどこなのか、わからないんです」

 Xは正直に答えた。我々がわかるのは『異界』の位置までで、その『異界』がどのような場所なのかを知るにはXが実際に『潜航』してみるまでわからないのだ。

 すると、黒服の男性――声から判断する限りは男性だと思えた――は、虫の上から手を差し伸べてくる。

「そりゃあ災難だったね、人の足じゃ出口まで辿り着く前に干からびちまうよ。ほら、乗った乗った」

 Xは逡巡したが、このままあてもなく探索を続けるよりは状況の変化を選んだのだろう、その手を左の手で掴み、虫の脚に足をかけて何とか体をその上に持ち上げる。下から見上げているだけではわからなかったが、虫の上にはいくつかの座席があり、それが確かに「乗物」であることを表していた。

 Xが恐る恐るその座席の一つについたことを確認して、黒服の男性は暢気な声で言う。

「それじゃあ、揺れるからしっかり捕まってるんだよ」

「は、はい」

 Xの返事と共に、虫が動き出す。がくん、という揺れと共に、再び三対の脚ががさがさと蠢きだし、走り出す。空気の流れに、Xの空の右袖が靡く。Xはしばらくぼんやりと辺りを見渡していたが、やがて虫を操る黒服の男性に語り掛ける。

「あの。ここは、どのような場所、なんですか」

「ここは見ての通りトンネルだよ。私も通ってるだけで詳しいことは知らないがね、いくつかの――の間を繋いでるんだそうだ」

 言葉は虫の足音にかき消されたのか、それとも元より「聞き取れない言葉」だったのか、一部が欠落して聞こえた。『異界』では時折そういうことがある。同じ言語を話しているようでいても、Xや私には理解できない言葉は欠けて聞こえることが。

 虫はがさがさと走り続けていたが、ふと、行く手に一際明るい場所があることに気付く。出口かと思ったが、そうではない。壁の一か所が妙に明るく光っているのだ。そこには数人の人影が立っていた。

 虫は減速し、その人影たちの前でぴたりと止まった。待っていたとばかりに人影たちが虫の上に乗り込んでくる。Xがそちらを見れば、乏しい明かりのせいだろうか、誰もが顔色が悪く、今にも倒れてしまいそうな顔つきをしていた。

 黒服の男性が全員無事に乗り込んだのを確かめて、再び虫は走り出す。行く手を四つの目で照らしながら、真っ直ぐに続いていく穴をどんどん進んでいく。

 Xはちらちらと同乗する人々を見つめていたが、席に腰かけている人々は誰もが俯いてこちらを見ようともしない。結局、Xは彼らから視線を切って、黒服の男性へと再び意識を向ける。

「このトンネルの出口は、どこに、繋がっているんですか」

 Xの問いかけに、黒服の男性はこちらをちらりと見て、「はは」と陽気な調子で笑ってみせる。その顔は、帽子が作る影に覆い隠されていてXからはよく見えなかったけれど。

「もちろん、――だよ」

「すみません。よく、聞こえませんでした」

 Xが言うと、もう一度黒服の男性が同じ言葉を言ったのだと、思う。だが、どうしてもその言葉を聞き取ることができない。Xは露骨に困った顔をしたのだろう、黒服の男性が「ああ」と何かに気付いたように声を上げる。

「そうかい、おたくの知らない言葉か。そうだね、もう少し違う言葉を使うなら……、意味合いはちょっと変わっちまうんだがね」

 男性は虫の行く先に視線を向けたまま、ぽつりと、言葉を落とす。

「地獄、といったところかね」

 その言葉は、確かに私の耳にも届いた。届いた、けれど。

「地獄?」

「そう。おたくも、罰を受けに来たんだろう? そういう顔を、してるよ」

 男性がまたちらりとこちらに顔を向ける。だが、本来顔のあるべきそこに顔はなく、ただの暗がりだけが広がっていて。Xはびくりと体を震わせて、改めて乗り合わせた客を見る。いつの間にか、俯いていたはずの彼らが皆、Xを見ていた。澱んだ目が、いくつも、いくつも、こちらを見ている。

「罰を……」

 Xの唇が、ほとんど声にならない声を紡ぐ。その間にも、虫はがさがさと音を立ててトンネルを走り続けている。しばらく、虫の走る音以外何一つ聞こえてこない沈黙が流れて。やがて、Xは言った。

「降りることは、できますか」

「こんなところでかい? 行くも帰るもできなくなるよ」

「それは、多分、大丈夫です。降ろしてもらえますか」

「そうしたいのは、やまやまなんだがねぇ」

 男性がそう言ったところで、Xの体ががくりと傾いだ。否、Xの袖を、誰かが掴んだのだ。そちらを見れば、Xの手を、足を、乗客たちが掴もうと手を伸ばしていた。Xは腕を振るって抵抗しようとするが、広いとは言えない虫の背中の上で、Xにできることはほとんどなかった。

 乗客たちの口が、Xに向けて言葉を紡ぐ。

「逃がさない、逃がさないよ」

「どうして、お前だけが」

「なら、私も連れてって、一緒に……!」

 Xは呆然と乗客たちを見下ろす。先ほどまでは黙って従っているように見えた彼らだが、もしかすると「そうせざるを得なかった」だけで、本当は。本当は――。

 乗客たちの手指がXの肌に食い込む。そのまま腕を、足を、千切り飛ばさんばかりの勢いで。明らかに人間のそれではない力で掴まれているのが、ディスプレイ越しに見ているだけでもわかる。

 それでも、Xは静かに言った。

「……すみません、私は、まだ」

 まだ。

 Xの言葉を、果たして乗客たちは聞いていたのだろうか。狂乱の形相でXをこの場に引き留めようとする。けれど、それは無駄なことだ。

「引き上げてください」

 その一言。一言だけでいいのだ。私たちはXの意識を一気に『異界』から引き上げる。ディスプレイとスピーカーにノイズが走り、Xを取り巻いていた怨嗟の声が掻き消える。そして――。

 

 

 無事こちら側に戻ってきたXは先ほどまで肉体を寝かせていた寝台の上に腰かけて、相も変わらずぼんやりとした調子で虚空を眺めていた。こちら側にいる間のXは大体そんなものだ。

 ただ、今回の『異界』に関しては思うところがあったのかもしれない。手錠を嵌めた左の手で、動かない――触れている感触すらもないはずの右手を揉みしだいているところからも、落ち着かない心持ちである、ということが何とはなしにわかる。

「X、お疲れ様。大丈夫?」

 こちらを向いたXがこくりと頷く。先ほど、乗客たちに襲われたことで何らかの痛みを感じてはいたようだったが、Xが「大丈夫」というなら、それを信じるしかない。

「今回もなかなか興味深い『異界』だったわね。地獄、と呼ぶべき場所に続いていくトンネル……、ね」

 あの時、虫を操っていた黒服の男性は「意味合いは少し変わってしまう」と言っていたから、我々が「地獄」と聞いて考える場所とはいささか趣が異なるのかもしれない。ただ、何らかの刑罰を受けるための場所であるらしい、ということだけはやり取りの間から察することができた。

「でも、……そうね」

 Xは、言ってしまえば「地獄行き」の人間なのだろう。あの男性も言っていた通りであり、ほとんどの人間からしても、そうであるに違いない。

 恐るべき罪を犯し、適切な刑罰を受けるべき人間。もし「あの世」が存在しているとすれば、そこでもなお責め苦を受けるべきなのかもしれない、人間。

 ただ、今は。今だけは。

「確かに、まだ、向こうに行ってもらうには早いわ。できれば、もう少しこちら側にいてほしい」

 我々からすれば、Xは数多くの『異界』を渡り歩いてなおここにいる貴重なサンプルであって。そのサンプルを失うのは、どうしたって惜しい。

 Xは左手で己の右手を握りしめたまま、じっとこちらを見ている。

「何か、言いたいことでもあるかしら。発言を許可するわ」

「……まだ。そう、言っていただけるのは、……ありがたいな、と、思いました」

 ただ、と。Xはそれきり黙った。

 Xの言いたいことは、私にもわかった。Xをこの場に繋ぎとめているのは、Xではなく、さりとて私でもない。ただ、ただ、Xの番がまだ回ってきていないというだけの、話。

 私たちも、Xの番が回って来ればそれを覆すことはできないし、そもそも覆す気もない。元よりそういう契約だ。

 ――Xの刑がいつ執行されるのか、私はまだ、知らない。

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