黄昏の行進
ゆっくりと薄暗くなりゆく空の下。
Xは道端に座り込んで深々と息をつく。目の前を行き交う人々がじろじろとこちらを見てくるのに対し、肩を縮めることしかできない。
今回の『潜航』でXが降り立ったのは、今からずっと古い時代を思わせる街角であった。踏み固められた道を行き交うのは和装に身を包んだ人々で、現代的な洋服を纏ったXの姿は明らかに場違いであった。
その上、ただ古い時代だというだけでなく、言葉が通じないのだ。音の雰囲気は日本語に似ているような気もするが、言葉のひとつひとつが全く異なるもので、Xは完全に途方に暮れてしまっていた。
もちろん、Xとて『異界』探索を任された身であり、何もしないまま引き返すことはせず、出来る限り歩き回ることで『異界』の規模を測ろうとしていた。が、途中でXの異様な姿を見とがめたらしい民衆に追われたことで、その気もすっかり失せてしまったようだった。やっと逃げ切った先で、こうしてぼんやりと時間を過ごしている、わけである。
これはもう引き上げてしまった方がいいだろうか、と半ば私も諦めかけていたところで、不意にスピーカーから不思議な音色が聞こえてきた。
これは……。
「笛の、音?」
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
果たして、スピーカーから響いてきた笛の音は太鼓や鐘の音、そしてわいわいとした人の声を加えて近づいてくるようだった。Xは顔を上げてそちらに目を向けようとした……、ところで、異変に気付く。
辺りを見渡すと、座りこむXを不審そうに見ていた道行く人々が、慌てて駆け去っていくところだった。一体何が、と思ってもそれを問いかけられる相手がいるわけでもなく、突然の人々の変化をただ見ていることしかできない。
そのうちに、辺りから人の気配が完全に消えてしまい、X一人がその場に取り残される。Xは座り込んだまま、ぼんやりと音楽が聞こえてきた方向を見つめていた。すると、土埃と共に何かがこちらに向けてやってくるのが見えた。
Xが目を凝らせば、土埃の向こうに見えたそれは大量の人影だった。否、それを果たして「人影」と言っていいものか。酷く小さなものから、妙に巨大なものまで、いくつもの影がゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。近づいてくればくるほど、それが異様なものであることがわかってくる。
先ほどまで目の前を行き交っていた人々は、格好こそ異なっていたがそれでもXと同じ「ひと」の姿をしていた。
だが、今、Xの方に歩んでくる人々は、まさしく異形と言ってよかった。
子どもよりも小さな体を持った、頭だけがやけに大きな人。頭に傘を被っているようで、傘と身体とが一体化している人。絵本で見る「鬼」を思わせる角を持った人。その他、私の言葉では形用しがたい姿をした数多の「人々」が、笛と太鼓の音色に合わせて、歌詞のない歌を歌い、不思議なステップを踏みながらこちらに歩み寄ってくるのだった。
Xはその場から動かなかったが、ただ、左の手で口を覆ったのはわかった。出かかった声を飲み込んだ、といった方が正しいかもしれない。
踊る異形の人々は道端に座るXには見向きもせずにその前を通過しようとする。しかし人々は長い行列を成しており、果たして完全に通過しきるまでどれだけの時間がかかるだろう……、と思ったその時。道の端を通りながら踊り狂っていた、笛を吹いていた小さな鬼のようなものが、座っていたXの足に躓いて、調子の外れた笛の音を立てる。
その瞬間、行列の足が止まり、ぐるりと視線がその小鬼に――そして、Xに向けられる。
Xは座った姿勢のままじり、と下がろうとするが、背後は壁で、それ以上下がることもできない。そして、行列の中から目鼻のない巨人がぬっと姿を現したかと思うと、Xの片方だけの腕を握って無理やり立たせ、激しい語調で何事かを語りかけてきた。だが、その言葉はXにも私にもわかるものではなかった。
「邪魔する気は、ありません」
通じていないだろうとわかっていても、言わずにはいられなかったようだ。Xの低い声がスピーカーから聞こえてきた。果たして、今のXはどのような表情を浮かべているのだろう。あくまでXの視界しか映さないディスプレイから判ずることはできない。
巨人はずるずるとXを引きずりながら行列の中に戻る。無数の、異形の人々の視線が突き刺さる。Xは居心地悪そうに肩を竦めたが、そんなXに構わず巨人は腰に提げていたものをXに押し付ける。
それは、言うなれば瓢箪のような形をしていて、その口に蓋がついている。巨人は同じものをもう一つ取り上げると、その蓋を無造作に外してぱっくりと開いた真っ赤な口にその中身を注ぎ込む。その中にどうやら液体が入っているらしい、ことはわかった。
――つまり、飲め、ということだろうか。
私がそう思った次の瞬間、Xは意を決したように手にした容器の蓋を歯で開け、中身を口に含む。それから、ぱちりと瞬きして、容器を軽く振る。
「……酒、ですね」
意識体が感じる味が果たして現実の味覚とどれだけ一致しているのか私にはわからなかったが、どうやらXはそれを「酒である」と認識したようだ。すると、巨人がばんばんとXの背中を叩き、Xの手にしている容器を示す。もっと飲め、ということらしい。こちらを見つめる異形の人々の視線を受け止めながら、Xはぐいと酒を呷る。液体を飲み下す音がスピーカー越しに響き、辺りから歓声――言葉がわからなくても声の調子でそう判断できた――が響く。
今まで止まっていた笛の音が響き渡り、太鼓と鐘の音がそれに続く。Xが戸惑いがちに辺りを見るが、もう一度背中を押されたことで、つられるように歩き出す。異形の人々は踊り狂いながら人の姿の消えた街を練り歩く。それに加わる形になったXはゆっくりと歩いていく。時折、手にした酒の器に口をつけながら。
不思議と、なかなか太陽は沈みきらない。空の端にかろうじて引っかかり続ける陽の光を浴びながら、異形の行進は続く。
酒を飲みながらでも、Xの足取りに酔いは見えない。意識体が酔わないようにできているのか、単純に元々酒に強いのか、もしくは、そのどちらも、なのかもしれない。周りを踊る異形たちが時折肩や背中を押すのは、踊りを催促しているのか。
「踊れませんよ、私は」
そんなことを呟きながらもう一口酒を飲み下し、歩く、歩く、歩いていく。
終わらないように見えた行進は、やがて街の出口に辿り着く。すると、行列の先頭から異形の人々の姿が消えていく。空気に溶けるように、ふわりと消えていくのだ。
その時、酒の器を手にしたXの左手に、白い手が重ねられた。Xが白い手の先を見れば、美しい顔をした、角の生えた女性がXの手を引くところだった。一人、また一人と行列の人々が消えていく。女性もまたそちらに向けて、歩いて行こうとしている。
Xは首を横に振った。女性は不思議そうな顔をしてXの手を引くが、Xはその手を振りほどき、もう一度、きっぱりと首を振る。
「一緒には、行けません。……行けば、楽になれるかも、しれないけれど」
それでも、と。Xは言って、足を止める。
「私は、楽になりたいわけではないので」
果たして、その言葉は通じたのだろうか。角の生えた女性は不可解そうな顔をしたが、そのまま一歩を歩み出し、その姿が虚空に消えた。ゆっくりと、ゆっくりと、辺りから気配が消えていく。音楽もまた少しずつ厚みを失っていき、やがて最後の笛の音が聞こえなくなった時、そこに立っているのはX一人になっていた。
街の出口にたった一人で立つXの手には、先ほど巨人から渡された酒の器が握られ続けていた。Xはその中の一滴まで飲み干さんとするかの如く呷り、器を握った手の甲で口を拭う。
いつの間にか太陽は地平線の向こうに沈み、空には一番星が輝き始めていたけれど。Xは私が引き上げを命じるまで、その場に立ち尽くしていた。行列が消えていった方角を見つめたまま。
「おかえりなさい、X」
引き上げが完了し、Xの頭に取り付けたコードが外される。Xは上体を起こして、相変わらずぼんやりと虚空を見つめていた。
Xが何も言わないのはいつものことだ。こちらが許可しなければ何も話さないのもそうだが、許可しても最低限のことしか言わないのだから。こちらを見てもいない以上、Xには特に私に向かって話すこともないのだろう。
ただ、私は何となく、言わずにはいられなかった。
「……別に、一緒に行っても、よかったのよ」
Xの目がこちらに向けられる。
「『異界』での判断は、あなたに任されているのだから」
私はXが何を考えているのかを知ることはない。知る必要もないと思っている。ただ、時折、『異界』に『潜航』している彼の言動を見ていると、何とはなしにもどかしい気持ちになるのだ。この気持ちの意味も、わからないまま。
「発言を許可するわ。何か言いたいことはある?」
Xは一度はかぶりを振ったが、少しだけ何かを考えるような顔つきになって、それからゆっくり口を開いた。
「行ったきり帰ってこないのは、きっと、お望みではない、でしょう」
「それはそうね。でも、あなたが望んだなら私は止められないわ」
そう、止められないのだ。引き上げを命じれば、かろうじて引き留めることはできるだろうが、私にできる介入はそれだけだ。こちらが引き上げないまま、こちらの目の届かない場所に去ってしまえば、この場に肉体を残し、意識だけがどこかに消える――ということも、十分ありうる。
Xは一拍を置いて、それから少しだけ口の端を歪めて言った。
「望みませんよ」
「X……」
「私は、何も望みません」
それだけを言って、Xは黙り込んだ。
何も望まない。そう言い切る彼の心境を、私はどうしたって理解することはできない。
寝台の上のXを見下ろす。Xは両の目を細めて、私を眩しそうに見上げてみせる。どこまでも、どこまでも、従順なサンプルだ。けれど、本当にそれだけ、と言っていいのだろうか。
私は。
本当は、もっと知りたい、知るべきと思っているのではないだろうか。Xのことを。
それでも、それは言葉になることはなく。ぷかりと浮かんだ他愛のない言葉を代わりに投げかける。
「二日酔いにならないといいわね」
「ああ……、確かに、そうですね」
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