異界図書館

 Xが降り立ったのは、見渡す限りに巨大な本棚が立ち並ぶ空間だった。

 この「巨大」というのは、本棚もさることながら、収められている本そのものも巨大であるということだ。本の一つ一つがXの身長ほどの大きさを持ち、目に入る範囲の背表紙には私も知らない文字――と思われる、いくつもの線の重なり合いが描かれている。

 この空間に窓はなく、遥か遠い天井から吊り下げられたいくつもの灯りによって、床に本棚の影が複雑に重なり合っている。

 腕を失った右の袖を揺らしながら、Xは足元に落ちている本に視線を落とす。それもまたXの体と同じくらいのサイズの本であり、何も書かれていない真っ白なページを開いている。

 まるで小人になったようだ、とXの視界をディスプレイ越しに眺めながら思う。それとも、ここは巨人の図書館なのだろうか。

 そんなことを考えていると、本棚の間から突然何かがXの前に飛び出してきた。緑色の肌をした、Xよりも遥かに背の低い何者かが、ぎょろりとした目玉をこちらに向けて、耳元まで裂けた口を開く。

「おや、お客とは珍しい」

 こちらにもわかる言葉でそう告げた不可思議な生き物は、足元の本とXとを見比べながら言った。

「閲覧は自由だけど、お静かにね。迷惑にならないようにしてくれればいいよ」

 それだけを言って、再び本棚の向こう側に去っていこうとする生き物を、Xは「すみません」と小声で呼び止める。生き物はぐるりと首を回してXを見やる。

「何か?」

「ここにあるのは、どのような、本なのですか」

「そんなことも知らずに来たのかい。ここは、」

 その後に続いた言葉は、どうしても私には聞き取れなかった。Xもそうだったのだろう、首を傾げて緑色の生き物を見下ろす。生き物は呆れたように大げさに肩を竦めて言った。

「あんたの言語に該当する言葉がないのかな。随分遅れてるね」

「はあ……」

 遅れている、と言われても、何がどう遅れているのかわからない。Xも戸惑いの声を隠そうとしない。生き物はふんと尖った鼻を鳴らすと、指を一本立ててくるりと回した。

 すると、天井近くから一冊の本が音もなく本棚から取り出されたかと思うと、Xの前に降りてきた。表紙に書かれている文字は私には読めないものであったが、唐突にXが口を開いた。

「『雨の』、……『降り止まない』、『土地』」

「あんたの言葉に直すとそんなところかね。開くよ」

 つう、と緑色の指が目の前に浮かぶ本の表紙を撫ぜると、自ら本が開かれる。開いた途端、ざあ、という音がスピーカーから響いてきて、それから。

 

 

 ――『異界』。

 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。

 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。

 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。

 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。

 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。

 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。

 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。

 そして、私は今『異界』の中にいるXの視点を借りて、不可思議な光景を目にしている。

 一瞬前まで図書館と思しき場所にいたはずのXが、雨の只中にいるのだ。灰色の雲から降り注ぐ雨がXを濡らす。足元には煉瓦が敷き詰められていて、街灯がところどころに灯っているようだったが、見渡してみてもそれ以上は雨に煙ってしまって何も見えない。

「ここは……」

 戸惑いの声と共に、ふらりと足を踏み出そうとしたその時、Xの腕の入っていない右袖をくんと引かれる。そちらを見れば、傘を差した緑色の生き物がXの袖を握っていた。

「お戻りはこっちだよ。迷子になる気かい」

 緑色の生き物の背後には、四角くぽっかりと開かれた窓のような空間があった。そこが「出口」なのだろうと察する。Xは素直に言葉に従って、その「出口」から一歩を踏み出す。すると、雨の音はその瞬間に消え去り、静寂に包まれた図書館の光景が目の前に広がった。

 唯一、雨に濡れたXの体だけが、先ほど垣間見た雨の世界に確かにいたのだということを示している。

 背後を見やると、開いたままの本が浮かんでいた。本のページは真っ白だが、その上にわずかに雨の風景が重なって見えたのは気のせいだろうか。

「わかったかい、お客さん」

 緑色の生き物が、傘を閉じながら言う。

「これがうちの本だよ」

 Xは答えない。今の現象をどう解釈していいものか悩んでいるのだろう。ただ、私には何となくわかりつつあった。

 きっと、これは『異界』を記した本なのだろう。この『異界』に存在する本の一つ一つが別の『異界』のありさまを綴っていて、それを再現することができる。もしくは『異界』そのものに繋がっている、のかもしれない。

 しかし、だとすれば今もなおXの足元に落ちている、最初からそこにあった本は――。

「それじゃあ、こっちの本も片付けていいかな」

 緑色の生き物が『雨の降り止まぬ土地』の本を本棚に収めながら、視線を向けるのはXの足元の本だ。Xは黙ってその白いページを見つめていたが、やがて首を横に振った。

「いえ。……もう、帰ろうと思いますので」

「そうかい。気が向いたらまたおいで」

「はい、ありがとうございました」

 雨を滴らせながらXは緑色の生き物に一礼して、足元の本に向かい合う。そこにぼんやりと浮かび上がるのは、まさしく、この研究室の風景で――。

「引き上げてください」

 

 

 Xの意識が肉体に戻っていくのを眺めながら、私は考える。

 あの『異界』には本の形をした『異界』が存在していた。そして、私たちが存在しているこの世界も、どうやらそのうちの一つであるらしいと、わかった。

 ならば、私たちの世界とは、何者かに記述されてあの図書館に存在するものなのだろうか。果たして、あの本には、私たちの世界のありさまが全て記されているとでもいうのだろうか。

 だとしたら、私たちという存在は、本の中に生きる存在だというのだろうか。

「……だとしても、私たちの目的は変わらないわ」

 あえて口に出して、確かめる。

 仮にそうであったとしても、私という人間がこうして存在している以上は。私たちのプロジェクトがこうして動いている以上は。今も、そしてこれからも、すべきことは変わらない。

 ここではないどこかである『異界』を観測し、いつかは異界潜航サンプルの目を通して観察するだけでなく、私たちが直接観測するに至る。その時まで、私たちは実験を繰り返していくのだろう。この世界のありさまがどうであれ、それだけは、変わらないことだ。

 寝台の上のXが、雨に濡れた感触を思い出しているのか、くしゅ、と小さくくしゃみをした。

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