右腕
Xは、走っていた。
ぜいぜいと息を荒げる音と激しい足音がスピーカー越しに聞こえてくる。それに加えて、背後からは甲高い汽笛のような音。振り返ることはできない。その一瞬が惜しいとばかりに、Xは前だけを見据えて走り続ける。
行く手には岩のような壁が左右に立ち並び、走るルートを制限する。全力で走っているにもかかわらず、背後の音は遠ざかってはくれない。それどころか、刻一刻と迫っているような気すらしてくる。
Xをいつでも引き上げられるよう、スタッフたちに命じる。スタッフたちが持ち場につくのを横目で確認しながら、私はディスプレイに映し出されたXの視界に集中する。
けれど、Xは自分から引き上げを求めてこない。いつもそうだ、Xはどれだけ危機的な状況になっても、めったに引き上げを求めない。自分の判断が及ぶ範囲では『異界』の探索を続けようとするのだ。たとえ、その判断が、正しかろうと、間違っていようと。
……果たして、Xは走り続けていたが、その行く手に何かが現れたことで、その速度ががくりと落ちる。それが、何か別のものに追われているのか、必死の形相でこちらに向けて走ってくる、X自身と同じような姿形をした『人間』だと視認できてしまった時点で、私が引き上げの判断を下すべきだったのだろう。
Xがどうするかなど、わかりきっていたのだから。
「来ないでください!」
『異界』の人間に言葉が通じるかなどわからなかっただろうが、Xは叫んでその場に立ち止まり、その人を庇うようにして、今度こそ背後を振り返る。
いつの間にかすぐ背後まで迫っていたのは、立派な鬣を持つ、巨大な六足の獣だった。口から蒸気のようなものを吐き出したそれは、Xに向かって飛び掛かってくる。ほとんど反射的な行動だったのだろう、Xは獣に向けて片手を突き出して。
その、片手が、食いちぎられたのを、目にした。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
……だが、私は、今。
「――っ!」
言葉にならないXの叫びを、聞いている。一瞬前まで腕があった場所から血が噴き出している。それが肉体を伴わない意識体であっても、Xがそう認識している以上、それは現実の痛みを伴っているに違いなかった。
それと同時に、視界の隅の寝台に横たえられているXの肉体も打ちあげられた魚のように震えていた。唇がぱくぱくと動き、何かを訴えかけているかのようですらあった。
「リーダー、まずいですよ!」
横からスタッフの声が聞こえてきて、我に返る。引き上げの判断ができるのは私だけなのに、何を呆けていたのだろう? 今、Xは明らかに危機的状況にあるというのに。
何故か、目の前で繰り広げられている凄惨な光景に。スピーカーから響くXの悲鳴に。意識を、完全に、奪われていた。
じゃり、と音を立てて獣が動く。今度は腕ばかりではなく、Xの全身を狙って。
「引き上げて! 早く!」
待っていたとばかりにスタッフたちが一斉に動き、『異界』に置かれているXの意識を、目には見えない命綱を手繰って一気に『こちら側』の肉体まで引き上げる。肉体が一際激しく震えて、ほとんど暴れているような様相になる。今までになかったことだ。Xがもがき、苦しんでいることがその様子からも伝わってくる。
引き上げ完了、の声を聞くのと同時に、私はXの横について、声をかける。
「X、大丈夫? 声は聞こえる?」
は、とXの目が開かれる。少し焦点のずれた視線がこちらの視線を受け止めて、それで我に返ったのか、手足の動きも止まる。
「X」
もう一度呼びかけてみると、Xはわずかに息を乱しながらも頷く。意識が戻ったのは間違いないようで、ほっとする。ドクターとサブリーダーが手分けしてXの全身に繋がるコードを外している間、Xはぼんやりと天井の辺りに視線を彷徨わせていたが、その作業が終わった時点でゆっくりと左の腕を上げる。左の手首と右の手首を繋ぐ手錠に引きずられるように右腕も持ち上がるが、何か……、様子がおかしい。
持ち上げた左手を握って、開く。右手はそのまま、だらりと垂れさがっている。単純にXが動かしていないだけならよかったが、おそらくそうではない。
「……X。右腕、動かないの?」
私の言葉に対して、Xはこくりと頷く。先ほどまで苦痛に満ちた声を上げていた人物と同一人物とは思えぬ、酷く凪いだ顔つき。自分の腕が動かないことなど、さして気に病んでもいない、ようにすら見えてくる。
けれど、きっと、そうではない。そうではないのだ。
「Xの腕がおかしい。すぐにチェックして」
ドクターに指示を飛ばし、Xが隣室に運ばれていく。それを見送って、私は先ほどまでXが横たわっていた寝台に寄りかかる。
あれは、完全に私の判断ミスだった。あの時、もはやXはまともな判断を下せる状況に無かったのだから、ああなる前に私がXを引き上げるべきだったのだ。しかし、私は少なからず「その先」を見てみたいと思ってしまった。Xが見ている世界の、その先を。
だが、そんな状態に追い込まれたXが何も感じていないか? そんなことはない。我々が人間扱いしていないだけで、彼だって人間だ、何も感じていないわけがないのだ。ただ、それを表現しようとしない、だけで。伝わったところで意味がないと、自分自身で思い極めてしまっているだけなのではないか。
こうしている間にも、ゆっくりと、Xの中では何かが削り落とされているのでは、ないか。そんな風に、思うのだ。
……ドクターによる検査は、思ったよりも長く続いた。
そして、結論から言えば、原因不明の不調だということだった。ただ、『異界』での状況から考える限り幻肢痛の逆――「無いものをあると錯覚する」のではなく、「あるものを無いと錯覚する」状態なのではないか、ということだった。自分の意志で動かすこともできなければ、どうも触覚や痛覚もなくなっているのだという。
目に見えていて、肉体として存在しているけれど、意識の中では失われた右腕。その感覚をどうすれば取り戻せるのか、はっきり言って想像もつかないということだった。時間経過で取り戻せるのか、それとも一生戻らないのか。それもわからない。
Xはその話を聞いても全く動じた様子を見せなかった。だらりと垂れ下がった右手に左手で触れた、くらい。
「回復するまで、休んでもらった方がいいかしらね」
片腕が動かなかろうが『潜航』はできる。できるが、今までのようにいかなくなるのは確かだ。特に、意識の上での利き腕を失ったとなると、色々と不便は多いことだろう。回復の見込みがない以上、もはや代わりのサンプルを用意して『潜航』させた方がよいのではないかとも考える。
けれど、Xはじっと、訴えるように私を見上げてみせるのだ。
「何? 発言していいわよ」
「やらせて、ください」
「X……」
「右腕が使えないなら、左腕を使えばいい、だけです。役に立てないと判断した時点で、切り捨てていただくのは、構いません、から」
だから、どうか、と。
それはXには珍しい「懇願」だった。Xが自ら何かを望むのは初めてだったかもしれない。
けれど、最初に。Xに初めて顔を合わせた時に、言っていたはずだ。『力になれるなら、喜んで』と。本当にその言葉を、愚直なまでに守ろうとしているとしたら。
「無理はしなくていいのよ。私たちも別にあなたに無理をさせたいわけじゃない」
「無理を、しているつもりは、ありません。ただ」
「……ただ?」
「私には。……もう、これしかないので」
ぽつり、と言葉を落としたきり、Xは俯いたまま黙り込んだ。
これしかない。確かにそうなのだろう。Xの未来は閉ざされている。それは私たちに関わっても、関わらなくても同じこと。ただ、今現在のXにとっては私たちの存在が唯一「何かに関わる手段」であるのだろう。
果たして我々のプロジェクトがXにとってどのような意味があるのか私には想像はできない。しかし、いつの間にか、これがXに「懇願」させるだけのものになっているということだけは、わかった。
「わかったわ。次の『潜航』で判断する。それでいいわね」
Xは俯いたまま一つ頷いた。
私はそれ以上は何も言わずに、Xに背を向けて部屋を出ようとして……、振り向いてXの様子を見る。Xは俯いたまま、動かなくなった右手を左手で握りしめていて。
そこから、私がXの思いを読み取ることは、ついぞできなかった。
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