その手で掴む
Xが白い扉を開くと、ぶわ、と風がその向こう側から吹きだした。
そこにあったのは白い壁の明るい部屋。奥の窓は大きく開かれ、カーテンがふわふわと靡いている。そして窓の側の寝台の上に腰かけた少女が、こちらを見てぱっと笑顔になる。
「あっ、さっきのおじさん! 三度目だね!」
どうしたの、と少女は無邪気に問いかけてくる。Xは「ええと」と言い淀んだ後、明らかに困惑した様子を声に乗せて、弱々しく言った。
「おじさん、迷子なんですよね……」
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
今回の『異界』は、いくつものちいさな部屋と廊下で繋がれた、こちらの感覚で言えば病院に似た建造物を思わせる『異界』だった。ただ、そこに病院にあるべき機材はほとんどなく、寝台の置かれた無数の小さな部屋と、リノリウムの床の廊下が続いているだけ。
Xは当初ひとつの部屋に『潜航』し、そこから探索を開始した。その探索の中で、一人の少女が寝ている部屋にたどりつき、いくつか言葉を交わして――別れた、はずだったのだ。しかも、これが一度目ではない。
ちなみにXは方向音痴というわけではない。というのは、今までの『異界』への『潜航』で明らかだ。むしろ少ない情報から自分が進んでいる方向を確かめる技術に長けている方だといってもいい。
故に、Xが「道に迷っている」というのは、おそらくこの『異界』の特性なのだと思う。第一、Xの足取りを見ているこちらからしても、先ほどとは違う道を通っていると思っていたのだから、もはや「そういうもの」と思うしかない。
「迷子? おじさん、大人なのに?」
寝台の上の少女がくすくすとおかしそうに笑う。Xがどういう表情をしているのかは、あくまで「Xの視界を映し出す」機能しか持たないディスプレイからはわからないが、おそらく相当困った顔をしていたのだろう、と思う。
「大人でも、迷子になることは、ありまして」
Xは部屋に踏み入りながら、言う。そして、彼もあてのない探索に疲れていたのだろう、寝台の横に置かれていたパイプ椅子に腰かける。ぎぃ、とXの体重を乗せた椅子が軋む音がスピーカー越しに聞こえてくる。
少女は抜けるような白い肌をしていて、柔らかな茶色の髪を肩の辺りまで伸ばしている。大きな空色の瞳がXを見つめている。
「おじさんは、どこから来たの?」
「遠い、遠いところからです。……私にも、よくわからないのですが」
それはXの率直な所感だろう。Xはあくまで私たちの指示で『潜航』するだけで、それがどこであるのかを知ることはない。だから、ここがどこであり、自分が元いた世界からどれだけ離れているかなど、Xが知ることはないのだ。
少女は「ふうん」と不思議そうに首を傾げながら、言う。
「おじさんは、旅人さんなの?」
「そう、ですね。きっと、そうなるのだと思います」
「旅人さんって、色んなところを旅しているんだよね。ねえ、旅のお話を聞かせてくれない? わたし、ここの外のことを知りたいの」
「ここの、外……」
Xの視線が窓の外に向けられる。
窓の外に広がっているのは、雲ひとつない青い空で、それ以外のものはXの座っている位置から見ることはできない。ただ、この建物が尋常でないことは間違いなく、つまりこの外も『こちら側』の感覚で当てはめてよいのか、Xには判断できなかっただろう。
少女はちいさな手を膝の上で揃えて、Xの言葉を待っているようだった。
Xはひとつ、息をついてから口を開く。
「そう、たくさんの場所を知っているわけではありませんが、それでよければ」
そして、Xは語り出す。それは今までXがその目で見てきた『異界』の記憶だ。
闇に包まれた森の中での出来事、終わらない夕焼けの無人駅、巨大生物に襲われたときのこと、無数の鏡に囲まれた空間……。私は、それらをXの視界を借りて見つめてきたが、Xの口から改めて『異界』での経験が語られるのは、これが初めてだ。
少女は目をきらきら輝かせてXの話を聞いていた。Xの言葉は決して流暢なものではないが、それでも少女の興味を掻き立てるには十分であったらしい。Xの言葉が終わるまで、頷いたり首を傾げたりしながら、笑ったり驚いたりと表情をころころ変えていた。
「こんなところ、ですかね」
Xがそう言って話を締めくくった時には、少女はちいさな子供のように、すっかりはしゃいでいた。
「すごい! おじさん、本当に色んな所を旅してきたんだね!」
「そうかも、しれませんね」
「うらやましいな。わたしね、ここから出たことないから。おじさんみたいな旅人さんから、お話を聞くことしかできないの」
少女は膝の上で白い指を汲んで、少しだけ表情を翳らせる。Xは少女をじっと見つめたまま、問いを投げかける。
「どうして、ここから出ないのですか?」
すると、少女は少し俯いて、ぽつりと言った。
「ここには、出口なんてないもの」
出口なんて、ない。その言葉にはXも驚いたのか、小さく息を呑むような気配がして、それから低い声が続く。
「……なら、ここに来た旅人は、どうやって帰るんです?」
「旅人さんは、帰ってないよ。ずうっと、一緒にいるよ」
「では、」
どこに、と。言おうとしたのだろう、ということだけはわかった。結局、その言葉は同時に部屋の中に響いた轟音にかき消されることになる。轟音の正体は、閉ざしたはずの扉を突き破ってこちらに雪崩れ込んできた「何か」だった。
何か。そう、それを「何」と表現していいものか私にはわからなかったのだ。ぬらぬらとぬめる軟体生物の触手を思わせる、しかしその一つ一つが人の腕よりも太いそれが無数に部屋に飛び込んできたのだ。
Xの判断は早かった。椅子を蹴って立ち上がると、寝台を回りこんで窓に駆け寄る。窓から飛び降りて逃げようと考えたに違いない。けれど、窓に手をかけようとしたところで気付く。窓の外に広がっているのは、青い空に見えていたが、違う。それは、こちらを覗き込む巨大な「目」だった。そして、眼下に待ち受けているのは部屋に入り込んできた触手と同じもの。飛び降りたとしても、それらに絡めとられるのがオチだろう。事実、触手は窓からも部屋に入りこもうとしている。
Xは窓から離れると、ほとんど目の前にまで迫った触手たちと向き合う。
この事態を前に、私もただ静観しているだけではいられなくなってきた。スタッフに指示を飛ばし、いつでもXを『異界』から『こちら側』に引き上げられるよう準備する。
基本的に私たちは『異界』に『潜航』しているXには干渉できないが、唯一「引き上げ」だけはこちらの判断で行える。もちろんXを失ったところで次のサンプルを用意すればいいが、正直、失うには惜しいサンプルでもある。故に、私は引き上げのタイミングを計る。
だが、Xは思わぬ行動に出た。
じわじわと迫る触手と睨み合うような形だったはずのXが突然、少女の座る寝台に乗り上げたのだ。何を、と思う間もなくXは腕を伸ばす。少女に向けて。
「え」
少女の声がスピーカーから聞こえてきたのと同時に、Xの両手が、少女の喉を捉えていた。少女は必死にXの手から逃れようともがくが、Xは少女の喉に指を食いこませる。スタッフの一人が目を逸らしたのを横目に、私はディスプレイに釘付けになっていた。
触手がXの腕や体に絡む。それは恐ろしい力をもってXを締め付けているに違いなかったけれど、Xは少女から手を離さない。
少女の青い目がかっと見開かれ、唇が声にならない「どうして」を紡ぐ。対してXは静かに言った。
「何でも君の好きになると、思わない方がいい」
首に、顔に、触手が絡みつく。息が詰まり、視界が塞がれて何も見えなくなる。それでもきっと、Xは少女の首を絞め続けていたに違いない。
やがて。
ごきり、と嫌な音がスピーカーから響いた。
次の瞬間、視界を覆っていた触手が、どろりと溶けた。Xの体を拘束していた触手も同じく、どろどろに溶けて床に落ちていく。力なく四肢を投げ出した少女を寝台の上に放ったXは、手足にこびりついた触手の残骸を軽く振り払うと、辺りを見渡す。
触手だけではなく、部屋全体が溶けはじめていた。少女を乗せた寝台も、床に転がった椅子も――窓の外に浮かんでいた巨大な青い目も。唯一、もはや動くことのない少女だけが溶けることなく、ただ、ただ、溶け行く世界に沈みこもうとしていた。
Xはそんな少女をしばらく見つめていたが、やがてふっと視線を切って、声を上げた。
「引き上げて、ください」
Xの引き上げ作業は問題なく終了した。そして、それとほぼ同時にXが直前まで潜っていた『異界』の消滅を確認した。
研究室は酷く静かだった。その場に居合わせるスタッフたちは皆、寝台に腰かけてぼんやりとしているXから目を逸らしていて、唯一私だけが、Xに向き合っている形になる。私は腹の底から溜息をついて、Xに語り掛ける。
「体に異常はない?」
こくり、とXは小さく頷く。その表情はいつも通り凪いでいて、先ほどまでディスプレイの中で少女の首を絞めていた人物と同一人物には思えない。
「先ほどの『異界』は消滅したわ。あの少女の死を、切っ掛けにして」
もちろん返事はない。Xはこちらが許可しない限り決して口を開こうとしない。ただ、ぼんやりと私の方を少しだけずれた焦点で見つめている。
「どうして、あの少女を殺そうと思ったの? 発言を許可するから、答えなさい」
すると、Xはぱちりと一つ瞬きをして、それから口を開いた。
「笑っていました」
「……え?」
「私を見て、笑っていました。楽しそうに」
私は現れた触手の異様さに気を取られていたために、視界の端に映った少女にまで意識が回っていなかった。だが、Xは確かに見ていたのだろう。明らかに敵意を持った触手に迫られるXを見て、笑う少女を。
「それと、あの触手は決して少女を狙おうとしなかった。私が少女に接近しても、変わらずです。つまり、彼女が操っているのだろうと判断しました」
『異界』での行動は全てXの判断に委ねられている。Xがそう判断して行動したというなら、私はそれをことさら責める気にはなれない。過激ではあったが、あれはXの自己防衛のための行動だ。果たして正当防衛と呼べるかどうかは私にはわからなかったが。
ただ、どうしても聞かずにはいられなくて、私は問いを投げかける。
「もし、判断が誤っていたらどうするつもりだったの?」
すると、Xはこともなげに、
「死体がもう一個、増えただけですよ」
そう、答えた。
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