久紫side

序 弾いた手

 あるいはそれは、逃げのようなものだったのかもしれない。

 伸べられた手を取ろうとした幼い手。

 けれど辿り着いたのは、横から攫う皺くちゃの手。

 数多の傷を刻んだ、温かな――……



 鈍い光を瞼に受け、慌てて起き上がった。

 首を振って纏わりつく睡魔を払い、枕元に手を伸ばしては片眼鏡を握り締める。

 あの女どもが来る前に、早く終わらせねば!

 焦燥にかられながら、箪笥から群青の作務衣を取り出す。寝室の戸を開けた先、奥に作業場が見える居間へ作務衣を放っては、すぐさま下駄を履いて一気に外へ続く戸口を開けた。

 その際、女の短い悲鳴を聞いた気がして、余計顔が青褪める。

 確かめる間も惜しいと、一刻も早く顔を洗うため家横の井戸へ走る。

 が、勢いをつけ過ぎたせいで、縁に手をかけても止まらなかった身体が、ぽっかり開いた穴へ突っ込みそうになった。

「危ない!」

 俺のものではない声の後、腰帯が後ろへ、ぐいっと引っ張られる。決して強くないその力は、見た目が女のようだと評されても、男である身を元に戻せない。

 それでも一瞬の静止が得られた。

 手に力を入れて、井戸から自分の身を引っぺがす。

「きゃっ!?」

 と同時に、戸を開けた時の悲鳴と似たものが背後から聞こえてきた。

 ぎくり、強張る身体。

 ゆっくりそちらを振り返れば、山吹色の着物姿の娘が尻餅をついた格好で、打ったらしき尻を擦っていた。

 朝日を受けた短い黒髪下の表情は痛みに顰められており、眼は腫れぼったい。

 元からそうだったのかもしれないが、何せ会ったのは昨日で、碌に顔も見ていなかったから憶えてなかった。

 それでも娘の存在を受け、俺はこの島に引っ越してきたのを思い出す。

 別に急く必要はなかったのだと、起きてからようやく安堵の息をついた。

 と、娘が言う。

「ど、どうかなされましたか……異人さん」

 ……異人?

 その呼称に眉根を寄せる俺に気づかず、立ち上がった娘は土埃を払う。

 確かこの娘は昨日、父である信貴のぶたか殿から俺の名を聞いていたはず。

 そうだ、いきなり呼び捨てにしてきたのだから、知らないはずがない。

 尤もあれは、紹介をただ反復したに過ぎないのかもしれないが。

 この島国の人間と同じ黒髪黒目だろうと、顔は異人と呼ばれても差し支えない造り。事実、生まれも育ちも、この国より遥かに広い大陸であり、俺をそう表すのは娘にとって間違いではないのだろう。

 しかし、だからといって「異人さん」と呼ばれるのは面白くない。

 俺には名があるのだ。

 宮内みやうち久紫くしという、大切な名が。

 窘めるつもりで開きかけた口。

 けれどもすぐに呑み込んで、何事もなかったかのように井戸の水を汲む。

 怒っているとでも思ったのか、娘は後ろで謝罪や挨拶をしてきた。

 それら全てに対し、おざなりな返答をして顔を洗う。

 やがてその気配すら去っては、濡れた顔を上げ、嘆息した。

 知らないのだ、俺は。

 あの娘に名で呼ぶよう窘めたところで、肝心の俺が娘の名を知らない。昨日の時点で、信貴殿が娘の名を呼んだかもしれないが、俺には他を構える余裕がなかった。

 ぼたぼた顎を伝う水の感触を受け、袖口で拭おうとすれば、白い手拭が視界の隅に現れる。

「どうぞ」

 控えめな娘の声。

「……アア」

 絶妙なタイミングに少しばかり目を見張り、有り難く頂戴しては、礼の一つでもと思って顔を上げた。

 しかして、娘はそこにおらず。

 井戸に落ちそうになってさえ、手放さなかった片眼鏡を軽く洗って拭き、左目に合うよう身につけては、また、嘆息一つ。



 作務衣に着替えた俺を待っていたのは、握り飯が数個。

 娘が訪れた時を考えればあまりにも早い出来は、自宅で握ったためだと言う。

 触れればまだ仄かに温かく、一体いつ起きたのだろうと顔を上げては、やはり娘はいない。

 いや、それでは語弊があるだろう。

 何せ娘はてきぱきと視界の端々で働いているのだから。

 呆気に取られても仕様がなく、白い握り飯を喰えば、ずいぶん空腹であったのを知った。絶妙な塩加減と適度な柔らかさで、更に食欲が増していく。

 あっという間に平らげた後で、茶がおずおず差し出された。

 見やれば娘が一礼をし、また仕事に戻っていく。

 人形師である俺の、世話役という仕事に。

 認識を改めねばならないと思う。

 娘は元々俺の師匠・宮内喜久衛門きくえもんが、この小さな島へ来た際の世話役を務めていたという。この話を師の旧友であり、仕事相手でもある幸乃ゆきの信貴殿から聞き、最初に俺が想像した彼の娘は、もう少し齢を重ねた女だった。それが実際会ってみたなら、ひと目見て女とわかる身体つきであっても、幼さの残る容姿。

 肩に食い込む重い荷物を背負い、苦手な人混みを掻き分けて、知人宅からこの島まで長い旅路を経て――出会った世話役の娘は、あまりに頼りない。

 精も根もとっくに尽き果てていた俺は、そんな娘を信用できなかった。

 気遣う余裕さえなく、仕舞いには叩いてさえしまった。

 だが、これは仕方あるまい。

 茶を空にして視線を窓の横へ向ける。

 物静かな微笑を浮べた重い荷物――女の生き人形。

 俺にとって大切な人形は、素人風情が不躾に触れて良いものではないのだ。

 とはいえ、手加減はすべきであった。

 娘が帰って後、疲労から何も口にせず寝入った胃に、握り飯は温かく優しい。

 茶の一つでさえ、柔らかく染み入るほどで。

 言葉少なに叩いた俺を非難するでもなく泣くでもなく、娘は世話役に徹している。

 段々、罪悪感だけが高まってきた俺へ、娘が湯のみを受け取りに来た。

 渡す際、ちらりと覗いた手首に心臓が跳ねる。

 白い肌の陰、覗く――青い痣。

 去ろうとする娘を見れば、目の腫れが幾分和らいでいる。

 泣いていたと察するには遅く……。

 慰めも何も浮かばない俺は、詰まった息をこっそりと吐き出した。

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繰り糸囃子 かなぶん @kana_bunbun

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