犬がうるさい

増田朋美

犬がうるさい

その日は、梅雨の時期というのによく晴れていて、梅雨の中休みという感じの日であった。杉ちゃんとブッチャーは、イングリッシュ・グレイハウンドのたまを連れてバラ公園に散歩にでかけた。

公園にはいろんな種類の犬がいる。昔は、犬といえば柴犬や秋田犬ばかりであったが、今はそんなことはない。ボーダーコリーもいるし、ボルゾイもいる。そのうち、変わった種類の犬が流行ると言われるのではないかと思われるほど、多種多様な犬が散歩しているのだ。とはいっても、イングリッシュ・グレイハウンドを飼っている人は、多くないだろう。だからたまも注目の的になった。たまは後ろ足が悪いので、引きずって歩いてしまう。そこもたまが注目されてしまう理由の一つである。足の悪いワンちゃんであるから注目されてしまうというのは、あまりうれしくないものだ。足の悪いたまが、後ろ足を痛そうに引きずって、バラ公園の中を歩いていると、

「可愛いですね。珍しい種類のワンちゃんですけど、なんていう種類のわんこちゃんなんですか?」

と、一人の女性が、杉ちゃんとブッチャーに言った。

「色っぽい女だね。まあ、答えれば、イングリッシュ・グレイハウンドです。」

と、杉ちゃんが答える通り、彼女は、ちょっとどころか、かなり色気のある女性であった。

「グレイハウンド?その割にグレーじゃありませんね。」

と、女性は言った。

「名前の通りグレーが多いですが、実際のところは、黒や茶色もいます。本場のイギリスでは、グレーでないと殺処分された時代もあったようですが、最近は動物愛護の問題から、そのようなことはされなくなっています。」

ブッチャーが説明すると、

「そうなんですか。珍しいワンコちゃんでびっくりしました。なにか病気でもされたんでしょうか?足を引きずって歩いているから。」

女性は、またそういった。

「いやそれは知りません。もともと飼い始めてから、足が悪かったので。正確な理由は知りません。」

ブッチャーが答えると、

「名前はなんていう子なんですか?」

と女性は聞く。

「たまだよ。」

杉ちゃんが答えると、

「たま!なんともミスマッチなお名前、、、。」

と、女性は笑いをこらえながら言った。

「ミスマッチかもしれないけどたまはたまだ。それは名前だから、誰にも変えられないの。たまもそれで覚えていることだから、仕方ない。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうですか。実はうちにもワンコちゃんがいるんですよ。もしよかったら、家のワンコちゃんの遊び相手になってくれませんか?うちのワンちゃん、遊び相手ができて喜ぶと思いますから。ぜひ、来てくださいよ。」

女性に言われて、杉ちゃんたちは、そうだねえといった。確かに、彼女は、ものすごく色っぽくて、美人な女性であるといえる。そんな女性の誘いを断ったら、それは行けないんじゃないかと思われる美しさである。

「じゃあ、寄らせてもらおうかなあ。あんまり長くはいられないけどさ。」

杉ちゃんとブッチャーは、顔を見合わせて言った。

「ぜひ来てください。大したものは無いけれど、お茶くらいなら出せます。」

そう彼女に言われて、杉ちゃんとブッチャーはたまを連れて、その女性のあとをついていった。

「私、田川と申します。田川未華子。よろしくおねがいします。」

女性はあるきながら、そう名乗った。

「ああ、よろしくね。僕達は、影山杉三で、杉ちゃんって呼んでね。そしてこいつはブッチャーで、名前はえーとなんだっけ?」

杉ちゃんがブッチャーに言うと、

「須藤聰だよ。寺尾聰と同じ名前。」

と、ブッチャーはぶっきらぼうに答えた。

「まあ、須藤さんですか。意外に素敵な名前を持っていらっしゃるんですね。」

と、未華子さんがわらいながら言うので、ブッチャーは、

「いやあ、よく言われますよ。」

とだけ言っておいた。本来、彼女のような顔をしている人に、笑われたら、男であれば許してしまいたくなるほどである。彼女がそういう術を持っているのかもしれない。でも、ブッチャーも杉ちゃんも、そういうことは感じなかったようで、ひょうひょうとしていた。

「ここなんです。どうぞ。」

と言って、女性が指さしたのは、いかにも昭和という感じの建物であった。なんでも西洋的になものにできるだけ近づいている現在の家ではなく、瓦屋根で、ドアは引き戸の、昔の日本家屋という感じの家である。

「どうぞ。お入りください。ワンコちゃんも一緒に入ってください。」

と、未華子さんは家の引き戸を開けた。確かに、和風の建物だけど、上がり框などは設けられておらず、障害者でも入れるようになっている。

「あれまあ。外は老けてんのに、中は随分、入りやすい様になっているんだな。」

杉ちゃんが思わず言うと、彼女は、

「ええ、なくなった主人が、そういう人でしたので、それでできるだけ段差をなくすようにしているんです。」

と、言った。とりあえず、杉ちゃんもブッチャーもたまも、靴を脱いで中に上がらせてもらった。そして、いかにも昭和という雰囲気の廊下を移動して、小さな居間に二人は入らされた。その居間には、仏壇があって、隣にお経の一部を書いた、掛け軸がぶら下がっている。

「ありがとうございます。これから、体験入門に入らせていただきます。」

女性は、そう言って、本を一冊持ってきた。これで、杉ちゃんとブッチャーは、彼女が何をするつもりなのか、すぐわかってしまった。犬の話をするのではなくて、体験入門させるために、彼女は二人をここへ連れてきたのだろう。

「体験入門って何だよ。」

と、杉ちゃんが言うと、女性は、二人の前に、一冊の本を渡した。

「では、現在の諸問題を解決すべく、まずはじめに、お題目の意味からお教えいたしますね。」

ブッチャーも杉ちゃんも、こういうことになるとは、予想していなかったので、大いに驚いてしまった。それに、もう帰りたいと言っても、多分、彼女が帰らせてくれないと思う。世の中には、こういう変なやり方で入信を迫る新宗教とか、そういうものがあるものだ。それだと見分けるには、最近非常に難しくなっている。犬の話をするつもり、という言葉に騙されて、この人に着いていったほうが悪いという評論家もいると思われるが、そういうことが、実現できたら、多分、こういう被害はゼロになっていると思う。

「じゃあ、このお題目を唱えてみてください。南無妙法蓮華経です。」

と、彼女は、掛け軸にかかっている漢字を指さした。

「悪いけど、僕読めないんだよね。読んでみてくれ。」

と、杉ちゃんが答えると、

「まあ、学校に行かなかったんですか?」

と彼女は聞いた。杉ちゃんが、

「行かなかったよ。文字を読めないので、学校には行かなかったの。」

と答えると、

「そうなんですか。でも気にしないで。どんな人にも、教祖様は必ず着いていてくれますからね。それは私が保証するわ。だからもう安心して。読み書きができないのなら、このお題目と基本的なお経を唱えることで、文字を覚えてくださるといいわよ。」

彼女は、にこやかに笑って答えるのだった。多分、何を話しても、教祖様の話しに持っていってしまうのだろうと思われた。犬の話をするつもりはなく、もう教祖様の話ししかしないようなそんな目つきだった。

「これは弱った事になったなあ、、、。」

ブッチャーが、思わずそう言うと、

「大丈夫よ。体験入門したあとは、教祖様の教えを受けて、強い人になれるって、皆さん口を揃えていいますからね。まずは、このお題目を覚えることから始めてください。」

と、彼女は言った。ある種の監禁に近いものだった。もう用事を思い出したから帰りたいとか、そういう手は使えないだろうなと思われた。こういうところから脱出するには、本当に難しい物がある。誰かが外から手を出してくれればいいのだが、そのようなことは、そういう日に限って絶対に無いのである。

「じゃあ、一緒にお題目を唱えてみてください。行きますよ。」

と未華子さんが言うと、部屋の外で、

「ワンワン!ワウー!」

と犬が鳴いている声が聞こえた。未華子さんは、それを無視して、お経を唱え始めるが、

「ワンワン!ワンワン!」

という声のおかげで、お経が聞こえてこない。未華子さんが何度も言い直そうとするが、そのたびに犬二匹が、お互いに吠えている声が聞こえてくるので、それができなかった。

「ごめんなさい。ちょっと止めてくるわ。うちの犬がきっとうるさいんだと思うの。困るのよね。飼い主の言うことを聞かない犬なんて。教祖様がこっちに来るときは、そんなにうるさく騒がないんですけど。全く、何を考えているのかしらね。」

未華子さんは、犬が騒いでいる声を聞きながら、よいしょと部屋から立ち上がって、外へ出た。杉ちゃんたちは、未華子さんが、お題目の不況から注意をそらしてくれるきっかけがあって良かったと思った。

「ルシアちゃん、うるさいわよ。ちょっと、静かにしなさい!」

そう言っている声を聞いて、ここに住んでいる犬は、ルシアちゃんという名前なのだということがわかる。しばらくすると、犬の声が止まったので、未華子さんは部屋に戻ってきた。

「じゃあ、体験入門を再開するわ。このお題目は、」

と、未華子さんが言いかけると、またワンワン!という犬の声がする。

「未華子さん、ルシアちゃんって、どんな犬?」

杉ちゃんが、彼女に聞いた。

「ええ。ただのボーダーコリーなんですけどね。全く、吠声が大きくて、独特な響きをしてるでしょ。だから、時々近所の人から、犬がうるさいって、言われちゃうのよ。」

未華子さんが答えると、

「まあ確かにボーダーコリーは、もともと羊を集めるために吠えるのを仕事としていた犬だから、声が大きくても仕方ない。それは、ボーダーコリーの歴史だからしょうがないね。」

杉ちゃんが、それに応じた。

「なんで、ボーダーコリーなんか飼うようになったの?ルシアちゃんは、ペットショップとか、ブリーダーから買ってきたのか?」

「ええ、教祖の教えで、動物を守ろうと言うキャンペーンをやっていて、それで保健所で拾ってきたんです。」

未華子さんは答えるのだった。

「なるほど。つまり、ルシアちゃんも、教祖が持ってきたというわけか。」

ブッチャーは、ここで逃げるきっかけができないかなと思われたが、ルシアちゃんも、教祖が持ってきたものであると知って、やっぱりと落胆してしまった。

「それでは、皆さんで、お題目を三回唱えてみてください。このお題目は、誰でも、簡単に、心を落ち着ける力があります。初めのうちは半信半疑かもしれないけど、終わったあとは皆さんそういいます。」

そう聞いて、多分、これは無理やりこういうことを言わなければ、帰してもらえなくなるんだとブッチャーは知ってしまったが、

「行きますよ、用意はじめ!」

と、未華子さんが言ったのと同時に、

「ワンワン!キャンキャン、クーン!」

と、二匹の犬が声を立てて遊んでいるのが聞こえてきて、お題目を唱えようという雰囲気ではなくなってしまった。犬二匹は、遊んでくれる相手ができて、お互いに嬉しいと思っているらしい。

「おい!犬がうるさいぞ。止めてきてくれや。それなら、せっかくのお題目も台無しだぜ。」

と、杉ちゃんに言われて、もう一度未華子さんは、

「ルシアちゃんうるさいわよ!」

と玄関先に向かって言うが、犬二匹の声は、どんどん楽しそうになっている。

「もしかしてだけどさ、長らくルシアちゃんを散歩に出していなかったのでは?」

と、杉ちゃんが聞くと、未華子さんはそれを無視しようともできなかったようである。

「そんな事ありませんよ。ちゃんと決まった時間に散歩に連れて行ってますよ。」

というのであるが、未華子さんの言う言葉よりも、杉ちゃんの言うことのほうがただしいということが、玄関先で聞こえてくる、二匹のワンちゃんの声で、わかってしまった。

「なんで、ルシアちゃんを散歩に出さなかったの?犬は、家族だけが遊び相手の動物じゃないよ。他の犬とも遊んで、楽しく遊ぶのが、本来の姿だぜ。なあ、なんで、散歩に出さなかったんだ?誰かになにか言われたか?」

杉ちゃんに言われて未華子さんは小さくなってしまった。

「そういうことじゃないわ。私は、良いことをしているのよ。犬は、犬同士が会うと喧嘩して困るから、できるだけ外に出さないほうが、いいと言われたのよ。」

「それは、犬の飼育に関することなんだろうか?でも、あの二匹の鳴き声で、二匹ともとても楽しそうにしているし、それは間違いだって、わかるよな?一体誰から言われたの?もしかして、お前さんが一番信頼している教祖様から言われたか?」

と、杉ちゃんに言われて、未華子さんは更に小さくなる。

「なあ、もし、教祖様がそういう事言うんだったら、それは偉い間違いだぜ。犬も人間も孤独はまさに命取りになるんだよ。そうじゃなくて、毎日散歩に連れていって、ボール遊びさせるなりして、体を動かすのが、人間も犬もいい運動になるんだよ。だから、そういうことはちゃんとさせような。犬がうるさいのではなくて、犬の望みを叶えてやることも、犬を飼う上で必要なことだぜ。」

と、杉ちゃんは言った。その間にも、ルシアちゃんという犬と、たまが遊んでいる声が聞こえてきた。その声は、杉ちゃんのいう通り、長らく散歩に行ってストレスが溜まっていたのが、解消されているのがわかる声だった。

「全く、うるさいですよね。俺達もたまを叱らなくちゃいけないな。ちょっと部屋から出させて貰えないでしょうかね。たまも、マナーが悪い犬で仕方ありませんよ。」

とブッチャーが座布団の上から立ち上がった。

「そうしなくちゃ、題目の勉強にもなりませんもんね。犬は、飼い主じゃないということ聞かない犬もいるじゃないですか。そういう動物ですから、しょうがない。」

「ああ、僕も行く。」

杉ちゃんもそう言ったので、ブッチャーは杉ちゃんの車椅子を押した。仕方なく、未華子さんは、部屋のドアを開けるしかなかった。ブッチャーは、すぐに部屋を出ると、

「おーいたま!あんまりルシアちゃんに迷惑かけちゃいけないぞ。」

と言って、玄関の方へいった。確かに、玄関先には、白と黒のボーダーコリーが、真っ黒なグレイハウンドと一緒にじゃれ合っていた。たまも、ルシアちゃんもとても楽しそうだ。犬同士で、こんなふうに楽しみ合うことがなかなかなかったのではないかという、杉ちゃんの推理は本当で、二匹は、とてもうれしそうに遊んでいる。

「たま!」

と杉ちゃんが言うと、忠実なたまは杉ちゃんの方を見た。それを見たブッチャーがすぐにたまのリードを取り、

「さあ、帰ろう。遅くなったら、みんな心配するからね。」

と言って、急いで草履をはき、田川未華子さんの家を出た。靴を履く習慣のない杉ちゃんが、

「じゃあ、御免遊ばせ。」

と言って、玄関を出てしまった。確かに上がり框が無いので、障害者でも、すぐに出られてしまうのであった。ルシアちゃんが、名残惜しそうに、たまをじっと見ている。ブッチャーは、後ろを振り返らず、あるきだしてしまったが、杉ちゃんは、車椅子に座ったまま、未華子さんの方を見て、

「まあ、勧誘するなら、他の人をやることだな。僕達はちょっと、応じられないよ。」

と言って、自分で車椅子を動かし、未華子さんの家から出てしまった。ルシアちゃんが、追いかけて行きそうになったが、未華子さんは、彼女の首輪を掴み、外へ行かせなかった。未華子さんは、わっと涙をこぼして泣いた。人間の細かい感情までは理解できない犬にはこの悔しさを、慰めるのは難しかった。でも、感性のいい彼女は、飼い主が泣いているということは理解できたようで、座って泣いている飼い主の顔を自分の舌でそっと拭いてあげた。こういうのはもしかしたら、感性のいい犬種と言われる、ボーダーコリーでなければできないかもしれなかった。柴犬のような、きつい性格の犬にはできないと思う。

「あーあ、危なかったなあ。あやうく俺達も洗脳されてしまうかもしれなかったね。」

と、ブッチャーは杉ちゃんに言った。

「そうだねえ。でも、そうしなきゃいけない宗教団体がまだあるってことがびっくりした。あの地下鉄サリン事件みたいな事件があって以来、宗教団体は、減少したと思ってたんだけど、意外にそうでも無いのかもな?」

杉ちゃんも答えるのである。ということは、ふたりともある程度は恐怖を持っていたのだと思う。

「しかし、僕達が、勧誘されちまうとはな。詐欺とか、そういうものにあっちまうやつは、誰でもなんで私がとか思うんだろうけど、僕らも、そう思ってしまうよねえ。」

と、杉ちゃんが言う通り、なぜ自分が、鴨にされてしまったのか、よくわからないと思うブッチャーだった。自分たちは、お布施になるような財産を持っているわけでも無いし、なにか悩んでいるような雰囲気でもない。

「全くだ。」

と、ブッチャーも言った。それと同時に、ブッチャーの手をたまが引っ張った。なにか犬にとって気になる匂いでもあったらしい。犬は、人間に比べると、何十倍も嗅覚があるらしいので。

「真の英雄はお前さんだよ。お前さんがああして騒いでくれなかったら、僕らは、体験入門から逃げられなかった。」

杉ちゃんが苦笑いすると、たまは、それを無視して道路脇の花のにおいを嗅いでいた。

「真の英雄は、自分のしたことに全く気がついていないらしい。」

と、ブッチャーが言ってもたまは返事もしなかった。まあ犬と言うのはそういうものだ。たまにしてみれば、可愛いボーダーコリーの女の子と遊べて、嬉しかったということしか感じられないだろう。杉ちゃんたちが恐怖体験をしたことなんて、たまにはわからないからだ。

「足の悪い犬でも、こうして役に立つことはあるんだねえ。たま、今回は本当に感謝するよ。」

と、杉ちゃんが言うが、たまは道路脇の花のにおいを嗅ぐのに夢中になっていて、返事をしなかった。



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犬がうるさい 増田朋美 @masubuchi4996

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