応援コメント

主語と述語③ 対応関係」への応援コメント

  •  これって僕でしたら、複文で叙述するには複雑すぎると判断して、もう単文にバラしてしまいますね。
     翻訳というのは理解できる言葉に直す事だと思うので、原文でそうなってるってだけの理由で、読み手を路頭に迷わせやすいシロモノを出してくるのはあまり、感心しません。
     原作者だって、そんな事は望んでないはずでしょうし。

    作者からの返信

     1文が長くなりそうなときに複数の短い文に区切るのはいわば定石ですが、そう言えばこの小論ではだいぶ後になってから、さらりと紹介した程度ですね。軽率でした。
     僕は外国語が苦手な上に頑固者なので、「論理的な欧米語のニュアンスは、非論理的な日本語では表現しづらい」といった話を耳にするたび、「工夫すれば日本語でだって表現できるはずだ」と思ってきたんですよね。もちろん今回はそういう話ではないわけですが、意識がそっちに引っ張られて、「1文では分かりにくいものを、1文のまま分かりやすくする」ことに固執していた気はします。
     くり返しになりますが、たてごとさんのおっしゃる通り、こういう場合、シンプルで短い文に区切るのが正攻法だと思います。翻訳だからと原文のニュアンスを偏重して、分かりにくい文章を提示するのが得策でないのも、その通りだと思います。直訳や逐語訳だけで済ませるばかりでは、原文が持つ文章としての美しさからは遠ざかってしまいますからね。

  • 確かに、これは高等テクニックだ。
    出来る自分と、妙な自信を持ち出した頃にやらかすヤツ……。←自覚あり

    作者からの返信

     『カラマーゾフの兄弟』の例は、注意深く読めば正確に伝わる(はずの)文なのですが、文法的には間違っていなくても読みやすいとは限らないという話ですね。読みやすい文章を書くためには、「間違っていない」の先を目指す必要があります。
     ただ、海外作品の翻訳の場合、訳者さんの多くは原文の文法をなるべく尊重して邦訳を組み上げることになりますし、明治・大正の文豪やその影響を受けた作家たちも自然と海外作品の影響を受けた書き方になっていることがあります。泉さんのおっしゃるように、読書家の方や、小説を書き慣れてきた書き手さんほど、Web小説としては難しめの書き方に違和感を持たなくなっている、ということはあるかもしれませんね。

    編集済
  • お疲れ様です。姫川です

    非常に勉強になります。主語と述語が対応していない文章だったり、回りくどい表現を用いたりは、私もよくしてしまうので、耳が痛いです(この文章がすでに添削対象ですね笑)。こういう日本語の文法の話にコメントを残すのはすごく怖いです。

    ロシア語は知りませんが、ドイツ語は定型第2位(動詞は必ず2番目)とか、枠構造とかそういう原則があるので、どれだけ長い文章になろうとも主語述語の対応がわかりやすいです(場合によっては動詞が部文末に来るので、その点は日本語と似ていたりもしますが)。英語も基本的に主語述語の順で並んでますしね。慣れるとドイツ語とか英語みたいなラテン語系?の言語の方が、扱いやすいんだろうなとは思います。紹介されていた「は」と「が」を代表とする助詞が、どう考えても難し過ぎるんですよね。知りませんけど。

    また、ドイツ語の翻訳をしていて日々感じるのはやはり「関係代名詞」の扱いです。英語もそうですけど、これのおかげで長ったらしく且つ主語述語関係がわかりにくい翻訳文が出来上がります。よろしければこの関係代名詞と日本語の関係を取り上げてもらえると私が喜びます。

    作者からの返信

     コメントを下さり、ありがとうございます。

     文章チェックのポイントなどと題したこの文章、書いた僕もビクビクしながら投稿しました。お互いにビクビクしながらお話をしているわけですね(笑)
     お褒めの言葉を頂けて、ひとまず安心しました。

     文の基本は主語と述語ですから、発話・記述の早い段階でそれらを提示してしまえるヨーロッパ系の言語は、おっしゃる通り、「扱いやすい」言語だと思います。言語の構造自体が、最初に結論を言ってから理由を付け足すような語り方を促すので、その意味でも、ヨーロッパ系言語の方が「分かりやすい」話ができますし、姫川さんが取り組んでいらっしゃる論文の類は、まさにそういう語り方を前提としているように思います。
     知ったかぶりで私見を申し上げれば、日本語的な分かりにくい語り方の良いところは、感情のすり合わせに向いていることだと思います。
     たとえば、
    「AがBというわけではないのだ。Cでもない。Dかと言うとそれも違う。E。そう、Aは実のところEなのではないか」
     というような文があったとします。
     かなりもったいぶった言い方ですが、このとき語り手は、聞き手の感情を誘導して、結論に至るまでの感情の道すじを疑似的に共有していると思うんですね。こういう狙い(感情の動きを呼び起こすという目的)がある語りの場合は、主語の直後に述語が来る言語よりも、述語が文末に来る言語の方が向いているのではないかと思います。
     まあ、そんなことを考えていても論文を上手く書けるようにはなれないでしょうし、おそらくそういう書き方はWeb小説にも向いていないと思うのですが。

     関係代名詞を含むヨーロッパ言語の翻訳については、残念ですが、僕ではあまりお役に立てないと思います。
     名詞(特に主語)を修飾する部分が長くなりすぎる場合の対処法についてなら、何か書けるかもしれませんが、僕が考える最も手っ取り早い方法は文を分けてしまうというものですから、原文の意味を忠実に書き出すことが求められるであろう学術書の翻訳には必ずしも適さないように思います。
     英語的でありながら日本語としても理解しやすい書き方をしている文章としては、古いですが、夏目漱石『三四郎』の冒頭を例に挙げて良いと思います。

    ――――
     うとうととして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。このじいさんはたしかに前の前の駅から乗ったいなか者である。発車まぎわに頓狂な声を出して駆け込んで来て、いきなり肌をぬいだと思ったら背中にお灸のあとがいっぱいあったので、三四郎の記憶に残っている。
    ――――

     さすが漱石先生というか、情報量が多いにしては、すんなり読める文章に仕上げています。ポイントは、文を細かく分けていることと、所々で主語を省略していることでしょうか。ただ、やはり小説的な言い回しで、話の全容が直積的にまとまっているかは微妙ですね。
     お役に立てず、すみません。

     美しい文章の書き方については、今後も思うところを書いていきたいと思っていますし、一つひとつの記事は短くまとめるつもりなので、何か参考になる部分を探していただければ幸いです。