第6話 不安

 奇妙な部屋だ。何者の気配もしない。もし犯人が城の者であるなら、今は表向きの仕事に出向いているのかもしれない。

 ユグムは部屋の中に何らかの手がかりがないか、辺りを見回した。

 部屋はしんと静まりかえっており、薄暗い。窓がないのだな、とユグムは思った。

 無造作に転がっている器具はどれも得体の知れないものばかりで、身分がら珍しいものに触れる機会のあるユグムにとっても、初めて見るものばかりである。

「気味が悪い」

 ユグムは右手で反対側の腕をぎゅうと握った。

 部屋の中を何かに形容するとしたら、実験室という言葉が合うかもしれない。床には謎の魔法陣が描かれていて、その上に何かが置かれていたような形跡が見受けられる。少し離れたところに無骨な机が置かれていて、その上には紙の束が乱雑に散らばっていた。

 なんらかの記録だろうとユグムは思った。ユグムは紙束の数枚を手に取ってみてみたが、彼にはさっぱりなんて書いてあるのか分からなかった。ーー知らない文字だ。

 おそらく魔術に関する何かが書かれているのだろう。マエラがここにいたら、何か手がかりを得ることができただろうか。ユグムは目の前の資料を諦めめ、他にこの部屋の主人の状態に迫るようなてがかりがないか探した。

 これだけ物で溢れているのだから、犯人にたどり着くためのとっかかりを得られるかもしれない。しかし、棚を漁っても壺の中を覗き込んでも、一向にそれらしいものは見つからない。

「……は」

 歯痒い気持ちになりながら部屋を探索していると、不意に鏡に写った自分を見つけた。

 しかし、そこに写るのはよく知る自分の姿ではなかった。

 ーーユグムは、自分が恐ろしい状態になってしまった、昨夜の自室での出来事を思い出していた。あの時は、何が起こっているのか理解できなかった恐怖と、ひたすら自分の姿の醜さに慌てふためき、衝動のまま駆け出した。

 ユグムの右手、指から肩にかけてを中心にして、皮膚が『波打って』いる。

 輪郭がはっきりしておらず、うねる様に肌が脈打っている。その動きに合わせて、身体中の青痣が呼応するように仄暗い光を放っている。

 この皮膚のざわつく様な動きが、腐食現象のそれに似ている、とユグムは思った。

 ーー気持ちが悪い。そう思った途端に、サーっと音を立ててユグムに感情が戻ってきた。徐々に自分の状態を思い出して、足が震えてくる。

 さっき、どうやって天井まで登ったのだっただろうか?今まで自分は何を思って行動していたのだったか?

 凍りついていた自分の心が徐々に戻ってくるにつれ、腹から酸っぱいものが込み上がり、ユグムは口元を覆った。そして、あんなに冷ややかな感情になれるのかと、自分に驚いた。

 ユグムが自分を取り戻していくにつれ、『波打つ現象』は徐々に収束していった。

 ユグムはその場にしゃがみ込む。耳の奥で、心臓が張り裂けんばかりにうるさく鳴っている。ユグムは取り乱さまいと、息を吸って吐いてを繰り返し、呼吸を整えた。それに伴って、右手は普段の形状を取り戻していった。落ち着くことを期待して、ユグムは懐にあるマエラから賜った仮面を触る。ぬるくさらさらとした感触を確かめて、自分のするべきことを考えた。

(今は、感情を制御できないうちは、闇に近づくのは危険だ)

 今、自分は明らかに人間ではなくなりつつあったのだ。この現象は、感情に任せて思うように振る舞った結果だ。

 動揺と体の異変が鎮まりつつあるのを確認して、ユグムは立ち上がった。そして、冷静になろうともう一度鏡を見た。しかしーー

 鏡に映る自分の姿を目に留めた時、違和感を覚えた。目が霞んでいるのだろうか、鏡の中の自分がぶれて見える。指で目頭を摘んでほぐしてみたり、瞬きをしたりしてから、再び鏡を覗いた。だが、鏡の中の自分は相変わらず定まらずにぶれていた。

 その時、気がついた。ぶれているのは自分だけだということに。ユグムの周りにぶら下がっている剥製や、周辺に散らばる異様な器具はしっかりとした輪郭を保っており、正しく鏡に反映されている。何故、自分だけこのように映ってしまうのだろうか。今度は鏡を介さず自分の目で、自身の体を確認してみた。しかし、輪郭がぶれるような現象は起こっていない。ユグムの身体はいたって静かだ。

 では、この鏡は何を映しているのだろうか?

「うっ!」

 思わず声が出た。ユグムは見てしまったのだ。

 鏡に写る自分に重なるように、別の男が写り込んでいるのを。

 ユグムの輪郭がぶれていたわけではない。この男が重なっていたから、その様に見えたのだ。

 ユグムは口内に溜まった唾を飲み込んで、鏡を睨みつけた。

「……誰だ」

 ユグムは小さく問いかけた。首の後ろから汗が垂れる。恐ろしいが、ユグムは踏ん張った。正体を見極めるために。しかし、男には実態がないからか、姿形がはっきりしていない。

 “ぼやけた男”はユグムの問いかけに反応することはなく、ユグムの全身にべったりとくっついていた。時折ユグムの肉体から誘うように顔を覗かせてくる。実際に『ぼやけた男』はユグムを誘っているのだろう。「自分の正体を知りたくはないか?」と、巧みに自分の影をちらつかせユグムの心理を掌握する。

「一体何がしたいんだ!」

 苛々したユグムは、男の正体を読み取ろうと躍起になって、鏡の淵を鷲掴みにした。鏡に迫って、“ぼやけた男”を睨みつけた。そんなユグムを見てか、男はにぃと笑った。

 その時、“ぼやけた男”がそうしたように、ユグム自身もまた、にぃっと顔を歪ませて笑ったのである。

 (操作された)

 咄嗟に「操作」という言葉が浮かんだ。ユグムは勢いよく鏡から離れた。蹴飛ばした周囲の置物が、がらんがらんと音を立てて倒れる。

 恐ろしがるな、相手の思う壺だと分かってはいる。しかし、その思考に心がついていかない。冷静な自分がどこかに追いやられてしまう。精神と心の均衡は、簡単に崩れてしまうものだ。

(この部屋にいてはいけない)

 心理的にも、物理的にも。そう思って、ユグムは侵入に使った入り口まで急いで戻った。しかし、そこにあったはずの扉が姿を消していた。

 どういうことだ。ユグムは呆然と立ち尽くした。ここに扉があったのだ。だが、初めからそんなものなど無かったかのように、のっぺりとした薄灰色の壁がユグムの眼前に立ち塞がっている。手を滑らせて何かないか探る。完全に消えてしまうなんて、あり得ないはずだ。

 ユグムは焦った。落ち着けと自分に言い聞かせる。だが、虚しくも不安は広がっていく。次第に肌が波打ち始めた。ユグムは更に怖くなって、肌の波立ちを抑えようと歯を食いしばる。

(やめろ、やめろ)

 ユグムは部屋中を動き回って、とにかく出口を探した。早くここから出たい。

 ユグムはどうしようもなく「人間」が恋しくなった。「普通」というものに触れたい。安心したい。自分はまだ、「枠組みの中の人間」だ。そうであるはずなのだ。

 地下の腐食現象やら、ミミズの化け物やら、得体の知れない部屋などから、一刻も離れるべきだ。自分は「枠組みの中にいる人間」なのだ。そんなものとは、本来無縁であるはずだったのだーー

 壁に飾られた大きな織物をどかして、ようやくそれらしい物を発見した。不自然な場所に、木の板が立てかけられている。それを更に退けてみると、人がやっと通れそうな、小さな穴を発見した。

 ユグムは穴の中を見てみた。腐食現象は起こっていない。穴の中の奥の方から、微かに光が漏れている。どこかへ繋がっているのだ。

 ここから移動できるのならなんでもよかった。ユグムは穴の中に入っていった。


 穴の中は思いのほか狭かった。壁に梯子が張り付いていて、その先から光が漏れているようだ。

 ユグムは梯子を登った。どこへ繋がっているのだろうとも考えていなかった。梯子を上まで登ると、壁に隙間が空いていることに気がつく。ここから光が漏れているのだ。

 四角い溝だ。一度くり抜いたものを穴を塞ぐ栓として利用しているのだろう。四方に引き摺られて少し削れた跡が残っている。

 ユグムは栓を手で押してみた。ずしりと重みが伝わってくる。しかし、動かせないわけではなさそうだ。腰に力を入れて栓を押し出し続けると、そのうちボコッと大きな音がして、その瞬間、急に光が目に飛び込んできた。栓が外れたのだ。

 狭い穴から身を乗り出すようにして、ユグムは向こう側に出た。光に慣れてから、うっすらと瞳を開けた。すると、意外な場所に出たことが分かった。

「資料室じゃないか」

 ここは、王城の北側の楝の、書庫に付随してある第三資料室と呼ばれる部屋だった。様々な公的資料が収納されており、所狭しと書棚が乱立している。優先順位の低い書類を扱っているためか、あまり整頓はされていない。とにかく書類が詰まった紙の倉庫だ。

 犯人はここから「秘密の部屋」へ出入りしているのだろうか。第三資料室はそれなりに人の出入りが多い。一定位上の身分を有していれば、誰でも中の資料を閲覧できるようになっているからだ。第三資料室の利用者からユグムを攻撃した術者を絞り込むことは、不可能だろう。

 何故この秘密の抜け道は今まで見つからずに済んでいたのだろう。ユグムは振り返って、自分が出てきた穴をじっと見つめた。それから、もう一度栓を元に戻して、穴を塞いだ状態を作ってみた。ユグムは顔を顰める。どうしたって四角い溝が目立っている。その違和感は明らかだ。隠す気があるのか、正気を疑う。

 だが、実際にこの抜け穴は誰にも発見されなかったのだ。何故だ?自分が最後にこの部屋を利用したのはいつだっただろうか。ユグムは過去を遡って、三ヶ月前という結論を出した。その時はどうだっただろう。いや、こんなものは無かったはずだ。父の容体のことで頭がいっぱいだったことは覚えているが、そんな状態にあったとしても、壁に大きな四角い溝があったのならば流石に気がつくはずである。

(まやかしの術だろうか、それにしたって、不自然だ)

 ユグムは納得がいかず、もう一度栓を触って確かめてみようと手を近づけた。その時、栓に触れるか触れないかのところで、指先に鈍い痺れが走り、皮膚が再び微かに蠢き出した。

「わっ」

 ユグムは反射的に手を引っ込める。掌が栓から充分に離れたところで、痺れは退いていった。皮膚の蠢きは、まだ止まらない。

 壁の四角い溝が、次第にーーまるでそこに何もなかったかのように、消えていく。

 なるほど、先ほどの部屋でも、そうやって消えたのか。ユグムはまっさらな壁を眺めて、静かに動揺した。

 対象を隠したり、見えなくしたりする術の存在は、もちろん知っている。マエラの家にかけられた、まやかしの術がそうだ。ユグムはマエラが術を解除するまで、目の前に家があることすら気が付かなかった。元宮廷魔道士というだけあって、術の練度は高かった。

 しかし、この術はマエラが使ったものとは全くの別物だ。そして、より高度なものであることは間違いない。

マエラの家は森の中にある。人が寄り付かない分、術が「人に引っ張られる」ことがない。

 術とは、世界の構成要素を人意的に変革させる技である。だから、こういった継続的に効果が及ぶ術は、本来の状態に戻ろうとする力が生じる。いわゆる、術の風化である。術の風化は人間との接触によって加速する。本来人の内側にあるべき力が抜けて、人へと戻ろうとするからだ。そのままにしておくと、最終的には術が剥がれてしまうので、定期的に手入れしなければならない。

 マエラの家の場合、この作業はあまり必要ではない。しかし、第三資料室は、人の出入りがある。その分、術の消耗は激しいはずだ。そうであるにも関わらず、術は充分な効力を発揮して、抜け穴を隠し続けている。

 その上、隠している対象が何であるかユグムに見破られた上で、術が発動した。本来、まやかしの術をはじめとする対象を隠匿する術は、一度その対象を見破ってしまえば、見破った人物に対しての効力を失うはずなのだ。

 ユグムの知識が通用しない。

 自分は今、いったい何と対峙しているのだろう。

(考えるな、今は考えてはいけない)

 ユグムはなんとか気を沈めて、皮膚の状態を落ち着かせようと試みた。

 その時だった。

「殿下?」

 ユグムはハッとして声のする方へ振り返った。

 視線の先にいたのは、薄い皺の入った三十路の男だった。身につけている服から察するに、記録官の筆係だ。古くなった資料を書き直してきたのだろう、両手に抱えるようにして書類を運んでいた。

 筆係の男は状況が飲み込めないのか、ぽかんと口を半開きにしてユグムを見つめる。それから堰を切ったようにあわあわと取り乱し始め、抱えていた書類を適当な場所に置くと、ユグムの元にすっとんできた。

「殿下、どうしてこんなところに?お体の調子が優れないと聞いています、お部屋で絶対安静にしていらっしゃるのでは?」

 なるほど。表向きはそのように説明されているらしい。とにかく穏便にこの場を切り抜けなければ。

「いや、その」

 ユグムはなんと言っていいか分からなかった。なんとか、それらしいことを言わなくては。どうにかして現状を打開しなくては。

「部屋の中は、どうしても息が詰まるのだ。すぐ戻るから、ここで私を見たことは黙っていて欲しい」

 そのように言われて、筆係の男は慌てだす。当然だろうとユグムも思ったが、この主張を無理矢理にでも押し通すしかないのだ。

「し、しかし殿下、やはりお顔色が優れません。汗も酷いではありませんか」

 そして、筆係は「わっ」と大きな声をあげた。

 しまった、とユグムは思った。ミミズの襲撃の際に、ローブを失くしてしまったのだ。ユグムの袖の先から、奇妙な青痣が見えてしまっている。

「で、殿下……」

 ユグムはなるべく腕を体の影に隠した。しかし、今ので筆係は気がついただろう。痣がユグムの全身に回っていることに。化粧をしているとはいえ、ここに至るまでの度重なる障害によって崩れかけてしまっている。

「頼む。誰にも言わないでくれ」

「そ、それはどうなさったのですか?」

「障界症によるものだ、心配ない」

 筆係の男は、みるみるうちに青くなっていく。見てるこちらが気の毒に思うぐらいだ。

「殿下、今からでも医官様の元に参りましょう。な、何か羽織るものを持って参りますので……」

 部屋から出て行こうとする筆係の腕を、ユグムは思い切り掴んだ。ユグムがここにいることを、これ以上は誰にも知られるわけにはいかない。男は咄嗟のことに対応できず、よろけて転びそうになる。そのままユグムは彼を壁に追い詰めて、相手の口を手で塞いだ。混乱した筆係は、怯えた表情のまま固まっている。

 乱暴をして申し訳なく思うが、ユグムは強引にでも彼を止めなければならない。

「頼む、父に託されたものを守らなければならんのだ」

 ユグムの言葉が影響したのか、筆係は少し落ち着きを取り戻して、こくこくと頷いた。彼が従順にユグムの指示を聞いていることを確認し、彼の口から手を外した。彼はおとなしく、ユグムを見ていた。

「貴殿の名前は?」

「ウーロウです」

「では、ウーロウ。私がここにいたことは、すぐに忘れるのだ。私と接触したことは誰にも話してはならない。たとえそれが、私に近しい者だとしても」

 ウーロウは何度も何度も頷いた。ユグムから鬼気迫るものを感じるのか、彼は必死にユグムの話を聞いている。

「それから、これから何が起こっても、お前は姫巫女のことを信じろ。彼女がいる限り、この国が揺らぐことはない」

 ウーロウの顔には困惑が浮かぶ。何もかもが突然すぎる。無理もない。

「どういうことですか?」

 不安そうな彼の質問には答えられずに、ユグムはただ「頼む」と一言呟いた。ウーロウは眉を八の字に下げ、何が起こっているのか、何を言われているのか、よくわからないといった様子でユグムを見つめ返す。

「借りを返すのは、ずっと後のことになりそうだが」ユグムは苦笑する。

「めっそうもございません!」ウーロウは首を横にぶんぶん振った。

 ウーロウの必死な様子に、ユグムはたまらない気持ちになる。彼のような民を置いて、これから自分は姿を消すことになるのだ。

 ーーこの際だ。言いたいことは言ってしまおう。きっと、弁明する機会はずっと後になってしまうのだろうから。

「これから、民には大変な負担をかけてしまうだろう。しかし私は、民を裏切るようなことは絶対にしない。貴殿だけは覚えておいてくれ」

 ユグムの額に脂汗が滲む。人の形を保とうと必死だ。こんなみっともない姿を誰かに見られたくなかった。しかし、今はなんとしても彼の信用を得たかった。たった一人でもこの気持ちをわかってほしかった。

「殿下、本当にお体が優れないようです。何があったのか詳しくは聞きませんから、適切な治療を受けてください。お願いですから」

「それから、襲われた人物の顔は見なかった。気がついたら殴られていた。いいな」

 ユグムは彼の首の秘孔を突いた。不意に衝撃を受けたウーロウは気絶して、その場にぐったりと倒れた。

 考えられる中で、この方法が彼を守るための最善だった。「逃げた王子と接触した男」として、恐ろしい術者から目をつけられてはいけない。後は、彼がユグムと接触したことを口外しないことを祈るばかりだ。ユグムは彼の持っていた書類を部屋にばらまいた。筆係が後ろから不意に襲われたように見せかけるために。

 人に手を出してしまったからには、時間との勝負になる。現在地点の北の塔から王宮殿まで、一気に駆け抜けなければならない。彼が発見されるまで、また目を覚ますまでに、なんとか事を片付けなくては。

 ーー焦りと不安、そして人を気絶させた動揺からか、ゆらゆらとユグムの皮膚は蠢く。

 ユグムは深呼吸をした。感情に支配されるな、逆に利用するのだ。地下通路で自在に体を変形させられた、あの状態を自分の意思の元で作るのだ。大丈夫、元に戻れる。マエラから仮面を賜っているのだから。


 ユグムは蠢く感覚に身を委ね、ずぶずぶと自分の輪郭が融解していく様を感じた。徐々に意識が深まっていくと、今なら、意のままに体を動かすことができるかもしれないと、思うようになり始めた。次期にその気持ちは、確信へと変わっていく。

 自分は現在、どんな容姿をしているのだろう?人の形を保っているのだろうか。感じるのは、体の表面の揺らぎだけ。

 地下通路の時のような失敗をしないように。人らしい感情を消さないように。恐怖や不安をどうにか傍に追いやって、ユグムは精神を集中させた。

 ーー感覚が鋭くなっているのがわかる。鼻、目、耳、肌、ありとあらゆる器官が逆立っている。次第にユグムは、ある信号を感知するようになる。周囲に散らばる、空気の摩擦を起こしているこの熱の塊、ーーおそらくこれは、人だ。

 ユグムは今、人間の気配を感じているのだ。どの位置に、何人、どの方向へ動いているかが分かる。ユグムとの距離が近いほど明確に、遠いほど朧げに、人の往来を察知できる。

 どのように移動すべきか、自分の感覚を頼りに、滑るように資料室を後にした。

 たくさんの人が動いているのが伝わる。この調子では、隠れながら移動していたら、いくらあっても時間が足りない。

 ならば、万が一人に見られたとして、目の疲れか錯覚かと勘違いさせる程早く動くことはできないだろうか。

 地下通路でユグムは、頭に思い浮かべた通りの形に身体を変形させた。あの時にできたのだから、今だってできるはずだ。頭の中を高速回転させる。一瞬で端から端まで移動できるような、そんな生き物を見たことがなかったか。それは、どんな形状をしていただろうか。変われ、変われ、頭の中でそう念じてみる。すると、ぶくぶくとユグムの体は泡立ち、一つの姿に落ち着いた。ユグムは大きく張り出した異形の太腿を獲得した。

 ユグムは物陰に張り付いて、機会を待った。ユグムには自然と分かっている。この姿でできることは、直線に真っ直ぐ飛ぶことだ。

 ユグムは神経をより尖らせて、周囲にいる人の数や、意識の向いている方向を探った。そして、軌道上に誰とも視線が被らないような瞬間をはかって、一気に跳躍した。

 着地の際、上手く体制を整えられずに壁に衝突しそうになった。大きな物音が立たなかったのは幸運だった。

 跳んでいる最中、空中制御が上手くいかなかった。着地に失敗し続ければ、当然見つかってしまうだろう。なんとかして、解決策を考えなくては。

 しかし、そうは言っても、どうしたらよいのだ。

「わっ」

 ユグムがうんぬん考えていると、唐突に腰の両脇から薄い膜のようなものが生えてきた。ユグムは驚いた。勝手に生えてきたのだ。軽いがピンと張り出していて、弛みがなく、虫の羽根みたいだと思った。

 何故だ。どのように形を変えればいいのか、答えが出なかったのに。まるで、ユグムが必要としているものを誰かに与えてもらったような、そんな感覚がある。

 だが、都合がいいことには変わらない。二回目の跳躍は、羽根の助けもあって幾分かまともに着地することができた。何回も繰り返していけば慣れてくる。北の棟から王宮殿へと繋がる連絡橋まで到達した頃には、ユグムは変形した自分の姿をものにしていた。

 このままの勢いで連絡橋を渡ろうとしたが、ユグムは自分の考えが浅はかだったと思い知る。連絡橋には頻繁に見回りが巡回しに来る上に、見張の兵士が常備されているのだ。彼らは訓練されているだけあって、文官たちに比べ勘が鋭い。外に属する外敵を討伐する経験も人より豊富だからか、ユグムの視線にも敏感で、時々ひやっとさせられる。

 人の往来に紛れて素知らぬ顔で移動しようにも、ユグムの身に付けている服は、一部がひどく壊れてしまっている。マエラの部屋で服を一式貸してもらったものの、先ほどの変形に耐えきれずに破けてしまった。何処かしらの部署の制服を引っ張ってくれば変装まがいなこともできたのだろうが、ないものは仕方がない。

 ユグムは彼らの視線を掻い潜って渡ることを断念した。兵士たちの目を気にすることなくここから王宮殿まで行くためには、連絡橋を屋根伝いに渡るしかない。ユグムは階段を二階登って、連絡橋の屋根へ降りることができそうな、廊下の窓まで迂回した。

 一番近いとはいえ、かなりの高低差がある。連絡橋自体が四階に相当する高さに設置されているのだから、連絡橋の屋根の上の更に上の、ここから見下ろす景色は背中を寒くさせる。しかし、この窓から降りていくしか王宮殿へ渡る方法がないのだから、腹を括るしかない。

 連絡橋の屋根は、ドーム状の屋根が一列に並んだ形をしている。一つ一つのドームの上には装飾が付いており、落下のち串刺し、なんて展開も思いついてしまう。笑えないと、ユグムは頭を振った。

 垂直の外壁を降りなければならない。ユグムは先ほど変形させた爪を杭の代わりとして利用した事を思い出した。履き物を脱ぎ紐で括って首に掛け、手足の指先に集中する。

(直立の壁って、どうやって降るのだろうか)

 経験のなさからくる不安か、城の外壁に穴を開けることに抵抗を感じているからか、なかなか先ほどのように上手く形を造れない。はっきりと形が留まらず、指先は不安定なままどろどろとしている。

 コツコツコツ。しまった、ユグムは焦った。向こうの方から靴音が近づいてくる。手間取っている間、周囲の警戒が薄くなってしまっていた。やり過ごそうにも、今から隠れるのは流石に無理がある。ユグムはままよと思って、半ば投げやりに窓枠を乗り越えた。 

「誰だ、開けっぱなしにしているのは。まったく」

 頭の上から声がして、ぎい、と窓が閉められたのが分かった。

 ユグムは窓の外枠に指を掛けて、外壁にへばり付いていた。見つからないように控えめに添えられた指先が、ユグムの全体重を支えている。風の音がユグムを煽ってくる。ユグムは喉の奥底から声を漏らしつつ、なんとか落ちまいと堪えた。

 窓は外側から開けられそうにない。鍵までかけられてしまった。再び建物の中に戻るのは不可能だ。

 ここからどうする、と必死に打開策を考えた。

 しかし、とうとうユグムは限界を迎える。

 びゅうと大きな音を立てて、風はユグムを攫った。ユグムの指は窓の外枠からずり落ちて、ユグムは宙に浮いた。

 ーーくそ、くそ、くそくそくそ!!

「畜生!」

 姿の見えぬ敵に理不尽に振り回され始めた昨晩から窓から落ちた今に至るまでの全てを思い出し、その全てに苛立った。走馬灯に浸っている場合ではない。

 とにかく落下の速度をどうにかしなくては、叩き潰されてしまう。北の棟の外壁に手を伸ばした。爪がえぐられようが、血だらけになろうが構うものか。

 ユグムはかなりやけになって、左手の爪を立てて思い切り外壁を引っ掻いた。

 その時、どぷんと音がした。

(な、何だ?)

 ユグムの左手の指先はどろどろのまま、壁の中の何かに触れている。指に感じるのは、なんらかの抵抗だ。

 落下は次第に減速していった。ユグムは自分の左手に何が起こっているのか、下降する最中にまじまじと見た。

 ユグムの指先は、建物の外壁の中に確かに沈んでいたのだ。

 ユグムのドロドロとした指が、指であることが辛うじてわかる状態のまま、外壁に突っ込んでいるのである。

 ユグムは半ば呆けた状態のまま、するすると屋根上に降り立ったのだった。

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青痣の狭間人 濫(仮) @nail-river-insect

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