無能だと追い出された回復術士は、メンタル回復の達人でした!

刀綱一實

第1話

「役立たず」


 親友の口から放たれた言葉は、他の誰から言われるよりも私の心に突き刺さった。私の足元には、もの言わぬ死体と化した彼女の恋人が横たわっている。


「癒やしの術を学んだって言ってたよね!? それなのになんで間に合わなかったの、ここに来た時はまだ生きてたのに!!」

「……ごめん……私、力が弱くて……」


 術士は師匠について術を学ぶ。私は、癒やしの術士の中でもダントツの落ちこぼれだった。皮膚に血がにじむ程度の軽い傷ですら、治すのに人の三倍は時間がかかる。


 そんな私が戦場に赴いたのは、こんな出来損ないですら「いないよりはましだろう」と思われるほど、状況が悪かったからだ。


 その予想は見事に当たっていた。我が国の部隊は他に逃げ場のない谷に追い詰められており、敵の激しい攻撃にさらされていた。まとまっていたはずの兵隊も術士もばらばらにされ、私たちは数人単位で谷のわずかな遮蔽物に身を寄せるようにしているしかなかった。


 ──そんな状況で、親友が瀕死の恋人を連れて逃げこんできたのだ。私がやるしかない、私が助けるしかないとありったけの術を唱えたのだが……結果は、このありさまだ。親友の恋人は眠っているような安らかな顔をしているが、そんなもの、なんの救いにもなりはしない。


「役立たず、役立たず、役立たず!! お前が死ねば良かったんだ!!」


 鬼の形相でまくしたてる親友。それでも、彼女のことを嫌いにはなれなかった。──悪いのは、全部私なのだから。


 だから、彼女にできる償いとして思いつくことは、一つしかない。幸い、足を一歩踏み出せば……敵の攻撃が、雨のように降り注いでいた。


 こうして、私は戦場で命を落とした。




 つもりだったのだが。


「……ここ、どこ?」


 目を開くと、夜の闇の中にいた。だんだん暗さに慣れてくると、私は道端に寝かされているのだと気付く。


 普通なら道の様子を見れば、そこが都に近いのか山村部なのかはすぐにわかる。だが、私が今寝ているところは、今まで見たどの道にも似ていなかった。びっしりと黒くて固い土で埋め尽くされていて、端にだけ白い線が引いてある。


 道の横にある建物も、やけに四角くて高い。てっぺんが見えない代わりに、窓からは煌々と明かりが漏れていて、中の様子は容易に見て取れた。やけに布地の少ない服や、変な形の鞄がこれみよがしに置いてある。


「あっ! このお姉さん、気がついたよ」

「良かった良かった。救急車、まだ来ないのかな?」


 私は景色を見るのに夢中になっていて、周囲に人がいるのに気付かなかった。顔を真っ青にした中年の女性。彼女を取り巻くようにして数人の若い男女が居る。彼らは一様に服も顔も綺麗で、激戦区にいるとは思えなかった。


 私は、助け出されたのだ。途中の状況は全く覚えていないが、ひとりだけ助かってしまった。全く、どこまで役立たずなのだろう。私の喉から、乾いた笑いが漏れた。


 死ななければ。前線に戻らなければ。その思いだけで立ち上がってみて、私は顔をしかめた。痛みはないが、自分の服が奇妙なものに変わっている。黒い布でできていて、上着も下衣もぴったりして妙に動きにくい。


「なに、これ……」

『スーツというのじゃ。この世界での一般的な服装じゃな』


 頭の中に、いきなり声が聞こえてきて私は顔をしかめた。飄々とした老人の声が、聞き間違えようがない。


「師匠……」


 戦場で散り散りになったまま、生き別れた師匠の声。有名な術士であったが誰にでも腰が低く、皆が私を落ちこぼれ扱いしても庇い続けてくれた。師匠は生きていたという安堵と、最後まで期待に応えられなかったという悔しさが混ざって、心の中がぐちゃぐちゃになる。


『おいおい、泣くでない。お前さんの第二の人生が、ようやく始まるのじゃから』

「どういうことですか? 戦闘は終わったのですか?」


 周りの人から遠ざかり、私は道沿いの建物にもたれかかる。そして再び師匠に話しかけた。


『戦が終わったかどうかは儂にもわからんな。薄々分かっておると思うが、ここはあの戦場ではない。いや、わしらが居た国ですらない。全く違う世界、全く違う時間じゃ。儂がお前たちを、ここへ連れてきた』

「何故です?」

『強い命令により、儂はお前たちを戦場につれていかざるを得なかった。しかし、あの戦で若い命が大量に失われると思うと、どうしても我慢ができなかったのじゃ。なんとか儂の弟子だけでも救おうとして、儂は転送魔法を発動した』


 転送魔法。ある場所にいる対象を、他の場所に移動させる魔術。単体、それも軽いものを移動させるにもかなりの技術が必要な高級魔術である。師匠の弟子総勢十八名を移動させようと思ったら、どれだけの技術と魔力がいるのか、想像しただけで気が遠くなる。


『お前さんの思っている通り、術は失敗した。儂を入れて十九名の体をそのまま転送することは到底できず、不完全な形──魔力の源である魂のみでの転送となってしまった』


 魂。ひとの性質や感情を司るものであるが、肉体がなければ非常に不安定なものであり、単独ではいずれ消滅してしまうと聞く。


『儂は仕方無く一番近い世界に皆を転送し、一番近くにあった肉体に入り込むよう指示を与えた。だから今のお前さんは、九条あかりという女性の体を借りている状態じゃ』


 師匠はさらりとすごいことを言った。


「借りたって……勝手にですか?」

『同意を得る暇が無かったからな。魔術師の魂は魔力があって主張が強いからの。元の持ち主は休眠状態なんじゃろう』

「そんな恐れ多い……」

『緊急避難じゃ。いずれ、お前さんたちの体を再生させる手段を見つける。それまでの礼儀として、対象の生活を悪化させないようにはすべきじゃろうな。……今、できる限り集めたこの世界の情報と、彼女の今までの経歴をお前さんに送る』


 師匠の声が終わると同時に、私の頭にどっと情報が流れこんできた。この世界には自動車という乗り物があり、私はそれとぶつかりかけて「事故」を起こした。だからこんな騒ぎになっているのだ。


 今まで生きてきた世界の常識と、ここの常識がぶつかりあって混乱する。しかし、他人の体を借りている以上、なんとかうまくやらなくてはならない。


「……あの、大丈夫ですか?」


 一人離れたところにいる私に、制服を着た男たちが話しかけてきた。「救急隊」という、この世界の癒やし手たちだと判断し、私はうなずく。


「はい。運んでいただくほどの怪我はしていません」

「意識ははっきりされているようですし、立つことも出来ていますが……あなたは車と接触しそうになって転倒している。脳に異常がないか、一度検査を受けてもらった方がいいでしょう」


 早く九条あかりの人生の把握に努めたかったのだが、こう言われて強く拒否するのは不自然だ。師匠も従えというので、私は彼らの申し出を受けることにする。


「……その前に、一つだけいいですか?」

「なんでしょう」


 私は救急隊員たちに断ってから、真っ青な顔の女性に近づいていった。


「さっきからあなたの顔色が悪いのが気になって……」

「ご、ごめんなさい!! 私、久しぶりに運転したの!! あなたが横の道から出てくるなんて予想もしてなかった!!」


 その会話から、この人が「自動車」を操っていたのだとわかる。自分のせいで人を傷つけてしまったと思っているから、こんなにも憔悴しているのだ。その様子を見ていたら、自然と体が動いていた。


「大丈夫ですよ。私はすぐに帰ってきますから」


 わずかでも、彼女の力になれるように。彼女の手を握って、魂が覚えていた癒やしの術をかけてみる。──出来損ないのかける術だから、大した効果はきっと出ないのだけれど。


 しかし、予想に反して、彼女の顔にはみるみる血色が戻っていった。緊張がとけて表情が柔らかくなり、自然な笑みが浮かぶ。


「あ、ありがとう……なんだか、すごく楽になったわ」


 涙が出そうになった。術士をやっていた時に、そんな言葉は一度ももらったことがない。命を落として、違う世界に来て……散々だったけれど、今の瞬間だけで報われた気がする。


「良かったです! じゃ、私は行きますね」


 私はその後担架に乗せられ、病院に運ばれていった。自分の癒やしの術とは全く違う、見たこともない機械や薬の治療にびっくりするばかりで、全然眠れなかった。医師の診察の時に赤い目なのはどうだろうと、自分に癒やしをかけてみたのだが、その術は全然効いていなかった。




「ようやく……九条あかりさんの家に帰ってきた」


 一日入院して、ようやく病院を出られた。私は目の前にそびえる集合住宅を見て、ため息をついた。住所自体は師匠の情報で分かっていたが、地図がない。スマホという謎の機械をいじり倒して、私はようやくこの世界での「自宅」に辿り着いた。


『成長したのう、弟子よ』


 師匠の声がした。病院では全く話しかけてこなかったが、何かあったわけではなかったのだ。私は安堵する。


「師匠、お久しぶりです。昨日はあれから声が聞こえなかったから、心配しましたよ」

『すまんの。儂の力も落ちていて、あまり遠くに念を飛ばせないんじゃ。……この姿では、病院に入れんわ』


 師匠の声がする方を見てみると、そこには誰もいない。憑依しているという話だったのに、はじき出されてしまったのだろうか。


『違う違う、もっと下じゃ』


 言われるがままに視線を落とす。……するとそこには、金色の毛に包まれた小さな鼠がいた。この世界で、「ハムスター」と呼ばれる愛玩動物だ。頬袋がぷくっとしていて可愛い。触りたい。もふりたい。


「……はっ」


 一通りもふってから、こんなことをしている場合ではないと気付いた。


「師匠、まさかこの鼠の中に……!?」

『いかにも。近くにいる生命体がこいつしかいなかったのだ。おそらく飼われていた家から脱走したと思われる』

「おいたわしや……」

『まあ、これにはこれで便利なところもあるがの』

「とにかく、うちでお茶でもいかがです? これからどうするかもご相談したいですし」


 私は師匠を誘って、部屋に入る。外は蒸し暑かったが、「エアコン」という機械を起動させると、快適な温度になる。この世界、魔法はなくても魔法のようなことができるので私はいちいち目を見張った。魔術師を養成する学校などもちろんないし、術士が尊敬されることもないのだろう。


「……術士としての生活常識は、完全に忘れた方が良さそうですね」

『じゃな。九条あかりは薬を扱う仕事に従事しておるが、魔術とは全く関係がない普通の人間じゃ。さて、どんな人間関係だったのか調べさせてもらおうかの』


 ざっとした略歴はわかっても、彼女がどんな性格でどんな行動をするかを把握しておかなければ、ボロが出てしまう。ということで、申し訳ないが、彼女の書き残したものを漁らせてもらった。日記帳はなかったが、「インターネット」上には色々な記録が残っている。


『なるほど。入社三年目で、最近は難しい仕事や新人教育も任され、悩んでいたようじゃな』

「先輩との関係も、あまりうまくいっていなかったようです。きつく当たられるので、転職すべきか悩んでいる記載がありました」


 なんだか自分の境遇に重なるものがあって、気分が重くなってくる。


「彼女の背負っているものを軽くしてあげたい……と思います。でも」

『でも?』

「散々周りから嫌われていた私に何ができるというんですか。なんの能力も無い役立たずなのに」


 私は自分の立場を忘れて、つい昔のことをつぶやいてしまった。握り締めた拳が白くなってくる。


 その拳の上に、師匠がそっとのしかかった。


『自分のことを、そんな風に言うもんじゃない』

「でも」

『お前さんの癒やしの才能は、やや特殊なものじゃ。確かに前の世界では広く認知されにくいものじゃったが、それでも確実に必要としておる人間はおったはず。──そしてこの世界では、もっと需要が高いかもしれんの』


 師匠の言うことが理解できなくて、私は目をしばたいた。


『行くぞ。儂の仮説が間違っていないか、実証してみせよう』




 師匠に言われるがまま、家の近くをそぞろ歩く。すでに時刻は深夜となっていて、歩いている人はまばらである。青っぽい街灯の光は、安心させるというよりかえって恐怖を煽っているように見えた。


「……こんなところで何をする気なんです、師匠? 私の才能って一体?」

『さっきやってみせたではないか。もう忘れたのか』

「あの女性にかけた術ですか? でも、彼女の体に大きな変化はなくて……」

『体ではなくて精神、魂よ。彼女、お前さんが術を使う前と後で、明らかに顔つきが違ったじゃろう』


 思い起こしてみれば、確かにそうだった気もする。しかしそれは、事故の被害者に許されたという安堵感からくるもので、別に術は関係ないのではないか。


 そう主張してみると、師匠はにやりと笑った。


『その説は検証してみなければならん。だからこそ、今度はお前さんになんの関係もない人間を癒やしてみようかと思ったのよ。……ほら、あそこにいる男なんかどうじゃ?』


 師匠が指さす先にはベンチがあって、若い男性が一人座っていた。青い「ジャージ」を着ていることから、こんな夜中に運動していたものと思われる。彼は深く頭を垂れて、その姿勢のままでじっとしていた。


「あの……大丈夫ですか? 誰か呼びましょうか?」


 私が声をかけると、彼は弾かれたように起き上がった。私の顔をまじまじと見てから、無理に笑みを浮かべる。


「大丈夫です。……体調が悪いわけではないので」

「でも、顔色が」

「ちょっと、プレッシャーかかってるだけです。明日、大会なので」


 彼はそれを皮切りに、ぽつりぽつりと現状を語り始めた。彼は会社に勤めながら「駅伝」という競技を続けている。明日予選が行われ、それで五位までに入れば、冬に行われる全国大会に出場できるのだそうだ。


「去年は六位でした。その時のみんなの落胆した表情は、今もはっきり覚えています」


 彼は追い詰められた表情で、爪をかみ始めた。


「先輩が怪我をしてしまって、僕が最後の七区担当なんです。みんなが頑張って走ってくれても、自分が台無しにするんじゃないかと思うと不安でたまらない。いくら練習しても、いくらメンタルトレーニングをしても、この恐怖が消えないんです……!」


 私はそっと彼の隣に座った。贅肉のないすらりとした足は、鍛えられていることが一目で分かる。これだけ努力しているのに、それを信じられていないのだ。──それはとても、悲しいことに思えた。


 心の中で術を唱える。身体能力を過剰に強化するわけではない。そんなことは、したくてもできない。師匠が言ったとおり、精神を健やかに。魂が本来の輝きを放てるように。私に……そんな素敵な力が宿っているのなら、それを今使わせて欲しい。


 願いが通じたのか、術は無事に成った。私はおそるおそる彼の方を見る。


「……話して、少しは楽になりましたか?」

「はい。ものすごくスッキリしました。今まで誰にも弱音を吐けなかったけれど、思い切ってあなたに話してみてよかった」


 彼は明るい顔で言った。瞳に宿る光が、さっきとは比べものにならないくらい力強くなっている。私の胸ポケットに入っている師匠が、『ほらやっぱり』と小声でささやくのが聞こえた。


「しかしあなたは不思議な人ですね。まるで魔法使いみたいだ。コーチングの勉強でもされているんですか?」

「い、いえ! ここの駅前の薬局で働いている、しがない勤め人です!」


 魔術の存在を気取られてはならない。私は緊張して、必要以上にぶんぶんと首を大きく振った。


 それを見た彼は、声をあげて笑い、立ち上がった。


「面白い人ですね。僕、鈴木大輔って言います。お仕事中かもしれませんが、もしお時間あれば……予選見に来てください」


 彼は一旦言葉を切り、最後にこう付け加える。


「勝ちますから」


 さわやかな言葉を残し、背筋を伸ばして走って行く男性。その背中が小さくなり、ついに消えたのを見送ってから──私は大きく伸びをした。


「師匠、検証はこれで十分ですか?」

『良いじゃろう。お前さんの力が立証されたな。……この魔術は常に重圧に晒される王族や将軍にぴったりだと考えていたから、乱発するのは少々もったいないが』

「その思いがあったから、私を放り出さなかったんですね」

『そういうことじゃな。術士は王族貴族、将軍との接点を常に探している。下手に知れてはお前さんが嫉まれると黙っておった。辛い思いをさせてすまなかったな』

「……いえ、ありがとうございました」


 師匠の願いは実らなかったが、私は自分が役立たずでないと実感できた。それだけで十分だ。


 私は胸に暖かいものがせり上がってくるのを感じながら、そのままベンチでしばらく夜風にあたっていた。




「九条さん、金曜は本部で研修だったんでしょう? ちゃんとレポート提出してね」

「あ、あの……」


 月曜日。出社早々、上司らしい女性にこう言われて、私は困り果てた。九条あかねの魂と入れ替わる前の記憶が全くないので、書けと言われても何もネタがない。


「実は、その帰りに事故にあって……全然、覚えてないんです」

「は?」


 女性は眉をつり上げる。術士の先輩よりこちらの方がよほど怖くて、私はすくみ上がってしまった。こんな人の下で働いていたなんて、九条さんはなんて強い女性だったんだろう。


「嘘じゃないです……病院にも行きましたし、入院しました。警察の人にも話を聞かれましたから、確認していただいても結構です」


 念のためにとっておいた病院の領収書を見せると、ようやく上司は引き下がった。その時、舌打ちをしそうな顔をしていたのは……私の見間違いだったと信じたい。


「退院できたってことは、仕事には問題ないってことよね?」

「は、はい」

「じゃあ、さっさと手を動かして。あなた、普段から本当に気がきかないんだから」


 そう言われても、九条さんじゃないのだから仕事の流れなんてわからない。周囲の様子をうかがいながら立っているしかなかった。頼みの師匠も、今日は自宅である。


「……何もしないのなら、今来た患者様の対応! 急いで!」

「わかりました!」


 私が居るのは店舗の奥側。ここに薬の在庫が置いてあり、来客は表にある部屋の椅子に座る仕組みのようだ。とりあえず来た人の話を聞けばいいのだろう、と当たりをつけて表へ向かった。


「やっと見つけました。……九条さん、というお名前だったんですね」

「鈴木さん!」


 そこにいたのは、この前会った彼だった。はっきりどこの薬局だと伝えなかったのに、探し当ててくれるとは思わなかった。


 彼は私の名札をしばらく見つめてから、ぱっと顔を上げる。


「やりましたよ。ニューイヤー駅伝、出場決定しました!」

「はい。三位でゴールされるところを見てました。アンカーで三人も抜くなんてすごいですね」


 せっかく誘われたのだからと、師匠と一緒に見に行っていたのだ。晴れ晴れとした笑顔で表彰台に上る彼を見られて、本当に良かった。


「あなたのおかげです。本当にお世話になりました」

「いえいえ、鈴木さんの実力ですよ」

「他のチームメイトも、一度お話ししてみたいと言っていました。九条さんさえよろしければ、練習場に来て下さい。これ、連絡先です」


 そう言って彼は名刺を差し出し、私が受け取ると風のように去って行った。最後までさわやかな人だったな……と余韻に浸っていると、急に背中をつつかれる。


「ひいっ!」


 振り向いてみると、同期入社の女の子が立っていた。


「九条さん、あれって実業団の鈴木選手でしょ? いつスポーツファーマシストの資格とったの?」

「し、資格っていうか、そんな大げさなものじゃなくて……ちょっと、健康相談にのっただけで……」

「ふーん」


 同僚は全く信じていない顔で、鼻を鳴らした。


「あんまりここで目立つことしない方がいいよ。薬局長、自分がお姫様扱いされないと機嫌悪くなるじゃん? 今まで以上にいびられたら、九条さん耐えられないんじゃない?」

「そ、そうする!」


 九条あかりに迷惑をかけるのは本位ではない。……人のために術を使うのは、気持ちよかったけれど。これからは、ひっそりと生きていかなければならないだろう。


「……ありがとう、私を褒めてくれて」


 小さくつぶやきながら、私はもらった名刺をゴミ箱に捨てた。




 この時の私は知らなかった。


 鈴木さんが地元新聞紙の取材に答え、勝利は「天使のような女性」のおかげだと内心を暴露していたことを。


 それが新聞に掲載され、自宅にいた師匠が記事を読み込んでいたことを。


 弟子の快挙に興奮した師匠が新聞社に連絡し、鈴木さんと再会の約束をとりつけてしまったことを。


 ──これをきっかけにして人の縁がつながっていき、こちらの世界でも回復術士として生きていくということを。


 何も知らず、まだ小さく縮こまって生きていた。運命の時計が動き出すのは、もう少し先のことである。

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無能だと追い出された回復術士は、メンタル回復の達人でした! 刀綱一實 @sitina77

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