第11話 変わり者のマヤ②
「では、早速、明日の朝でどうでしょう?」
女性を誘うという行為はコウキにとってほとんど経験のないことだった。しかし、気が変わらないうちに約束してしまいたい一心から出た言葉だった。
「どうしようかな」
マヤは、うーんと腕組みをした。ここで悩まれるのは想定外だ。これまでの会話の流れを考えると断られるはずはないと思っていた。明日、何か予定があるのかもしれない。それなら直近で予定が合う日にすればいいだけだ。
「何か、悩まれることがありますか?」
引っ掛かる事項があるなら解決すればいいまで。まずは悩みのポイントを聞くのがよさそうだ。
「明日までに準備ができるか心配で……必要な物は聞いたけれど、それで足りるのかなって」
初めての経験の前には不安はつきものだ。マヤはそこが心配だったのだ。それなら、解決は難しくない。
「ハハハ、さっきも言いましたけど、大げさな準備は不要です。駅よりちょっと遠くに行くくらいのイメージで大丈夫ですよ。ルートも遠くないところまでにしますので」
コウキの言葉に安心したマヤは「じゃあ、明日、お願いします」と頭を下げた。そして、翌朝、九時にマンション下で待ち合せをする約束をした。
「ところで、そのシャツ、音楽関連みたいですけど……」
マヤはトレーニングの話題を綺麗に終了し、コウキのシャツに印刷された絵柄を指さした。コウキの白シャツの胸元には、スタンドマイクで歌う金髪のボーカルとドラム、キーボードを叩くメンバーの写真が印刷されている。
「ああ、これですか。好きなバンドです」
「バンド?」
聞きなれないのも無理はない。バンドの曲を好んで聞かない人には馴染みがない単語なのだろう。
「ギターやキーボード、ボーカルで集まりチームで歌うんです。昔はそんなグループがたくさんあったみたいです」
マヤはうなずきながら聞いている。こんなところに興味を示すとは意外だった。おとなしそうなマヤにはロックやパンクは似合わない。興味がある振りをしているだけかとも思ったが、その割には目つきが真剣だ。
「相当、古い時代、千年以上前の激しく、うるさい曲が好みなんです。朝から大きな音で聞くと気分が高まります。あっ、マヤさんもそうかは、分かりませんが」
好みは人それぞれだ。この時代は皆、個人の嗜好を最優先に生活している。良いと思うものをすすめるのは他人ではなくコンピューターの役割だ。他人に自らの好みを押し付けるのは良くないことだ。
「今、似たような曲を作っている人はいないんですか?」
マヤの質問の意図がはっきり分からなかったが、現代でリアルに曲を作ったり歌ったりしているということを意味しているのだろうと考えて返答をした。
「実際にグループを組んでやっている人はいないですね。合成音で作られた似たような楽曲はあります。……でも、リアルな歌は迫力が違います」
コウキは力説した。これは日々、感じていたことだ。コンピューターにより合成された楽曲も、昔のロックも同じデジタル信号で送信されてスピーカから流される点は変わりがない。しかし、昔の楽曲には言葉で表現できない情熱を感じることができた。
マヤは、コウキの返答のあと少しモジモジして何か言いたそうにしてから口ごもった。そのあと、改めて口を開いた。
「私……実はピアノを弾くのが趣味なんです」
「ピアノを……弾く? マヤさんが?」
コウキは、驚きでマヤの言葉を反復してしまった。この時代では音楽は電子的に生成するものか、昔の記録しかない。自分で楽器を奏でる人は極めて稀だ。そんなことをしなくても、コンピューターがあっという間に好みの楽曲を作ってくれる。
目を丸くしているコウキに、マヤが少し困ったような笑みを浮かべる。思い切って言ったことを後悔したのだろうか。だとすると誤解だ。
「また、化石を見るような目で見ないでください」
マヤは、皮肉っぽく言ったあと、話し続けた。
「私、部屋にピアノを置いているんです。実家で保管していたものを修理して運んでもらったんです」
リアルな楽器を弾くという行為は、コウキの興味を引いた。昔は溢れていたリアルな音楽。そこに迫力を感じるのは人間が直接、演奏し歌っていたからだ。だから、コウキも昔の楽曲に魅力を感じるんだろう。しかし、聞けるのは過去の録音だけ。実際に聴ける機会が得られるなんて考えたこともなかった。
「是非、聴かせてください!」と口から出そうになったが、ぐっと抑え込んだ。それは、初対面の女性に「あなたの部屋に入れてくれ」と言っているのと同義だからだ。そこで、遠回りに興味を表現することにした。
「実は、ずっとリアルな楽器の演奏を聴いてみたいと思ってたんです」
毎日、聴いている昔のロックバンド。過去に戻れるなら本物の演奏を聴いてみたいと思ったことはある。とはいえ、そんな機会が得られるなんて絶対にないと思っていたので「ずっと思っていた」というのは正しくない。しかし、目の前にそのチャンスが訪れると、興味が膨れ上がった。
「そうですか! じゃあ、提案があります!」
マヤは両手を小さくパチンと叩いて目を輝かせる。
「ランニングに付き合っていただくお礼に、演奏をプレゼントします。私、駅前のレストランでピアノを弾くお仕事をしているんです」
駅の近くを通ることはあるが、そんな場所があるなんて知らなかった。調べればすぐに分かることだろうが、コウキの興味の範囲外だった。
「レストランで……ピアノですか?」
「レストランといっても小さいお店。食事というより、軽食とお酒がメインのお店です。今の時代でも生演奏が好きな人は意外と多いんですよ」
自分の部屋か、車の中でしか音楽を聴かないコウキは、お酒を飲みながら聴く生演奏に俄然、興味を持った。
「是非、聞いてみたいです。すぐにでも」
思ったより上ずった声が出てしまった。マヤはその様子に苦笑しながら続けた。
「ピアノは音楽だけで歌はないし、コウキさんのお聴きになる種類の音楽とは随分、違いますけど、それでよろしければ」
マヤは機嫌が良いようだ。自分の特技に興味を持ってもらったことがうれしかったのだろう。コウキは社交辞令で言った訳ではないし、マヤもコウキの言葉が本心であると分かっているようだった。
「話を聞いていると、僕もピアノの曲を聴いてみたくなりました」
コウキは本心を率直に語った。そして、予習のために、マヤに楽曲名をいくつか教わった。当日までに聴いてみよう。早く、コンピューターの異常が治って欲しい。
「次のお仕事は、明後日。夜の六時にお店に直接集合でどうでしょう? 私、店長に伝えておきます。お友達が来ますって」
友達と言われたコウキは嬉しいような、はずかしいような不思議な感覚がした。明後日は仕事だが、定時で終了して帰れば間に合う。社長に誘われても断ろう。
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