第9話 正反対の彼女
隣の部屋のドアの前に女性が立っていた。女性はドアを片手で押さえているコウキの全身を上から下まで一瞬で見てから目を伏せた。
シャワーから出たあとのコウキの服装は、真っ白なアンダーシャツと短パン。決して外出用とは言えないラフな室内着。そんな男が突然、大きな音を立ててドアから出来たのだ。女性が驚くのも無理はない。
コウキも女性を観察した。あからさまに見るのは失礼なので見るのは一瞬だけ。肩まで伸びた艶のある黒髪にクリっとした大きな瞳が印象的な若い女性。着ている白いワンピースは薄手で室内着のように見えた。外出着でないのは女性も同じだ。
「この部屋に住んでいる者です。は、初めてお会いします」
若い女性は、戸惑った様子でペコリと頭を下げた。
「驚かせてしまってすみません。僕はこちらの部屋に住んでいます」
一度、部屋に戻って着替えることも考えたが、それはそれで不自然だ。ひとまず挨拶を返しておくのが無難だと考えた。
「扉を開けるとき大きな音がしたようですが……」
女性はコウキが押さえているドアに視線を向けて尋ねた。その言葉を聞いたコウキの頭に疑問がよぎった。日本中の機器の制御がおかしくなっているなら、この女性の部屋も同じだろう。だとすれば、隣の部屋のドアも開かないはず。毎日トレーニングをしているコウキですら全力でやっと脱出できた。
コウキが廊下に出ると女性は先に廊下にいた。こんな細身の女性がいったいどうやってドアを開けたのだろうか? もしかして、見かけによらず怪力なのだろうか。
「どうかしましたか?」
ぼーっと考えていたコウキは、女性の言葉で現実に引き戻された。迷っていても仕方がないのでコウキは直接、聞くことにした。
「変なことを聞いているかもしれませんが、どうやってドアを開けられたのでしょうか?」
女性は「なぜそんなことを聞くのか?」と言った感じで不思議そうな表情を浮かべた。
「どうって言われても、ドアを開けてとしか言えませんが」
質問の意図が伝わっていないらしい。ちゃんと説明しないと理解が得られなさそうだ。
「僕の部屋のドアは制御不能で開けられませんでした。つまみを回すと手動で開くと思ったのですが無理でした。そこで、全力でドアを押して、ハンガーを挟んで鍵を壊して出てきました」
女性は質問の意図が分かったらしく、首を小刻みに振ってうなずいている。
「それで、どうやって出てきたのかと、お聞きになったんですね」
女性は楽しげな笑みを浮かべた。固かった表情が和らいだ。最初は取っつきにくそうな雰囲気だった女性が途端に身近に感じられた。
「あなたのような、その……細身の女性がよくドアを壊せたなって」
「フフフフ、壊すなんて物騒なことはしていません」
女性は手の甲を口に当ててクスクスと笑い出した。コウキには何がおかしいかさっぱり分からない。隣の部屋に目を映す。ドアは通常のとおりに閉じられている。確かに壊れているようには見えない。
「壊さなくても、出られます」
「どうやって?」
女性は笑いのツボに入ったらしく、肩を揺らして笑い始めた。言葉にならず、なかなか答えを教えてくれない。
「ハハハ……ごめんなさい。つまみの上の小さい穴に、ドライバーか何か細い棒を押し込むんです。その状態でつまみを回せば手動で開きます」
小さい穴? コウキは開いたままの自室のドアを確認した。確かにつまみの上に小さい穴がある。こんなものが重要だったなんて。
「こんなの気が付かないですよ。良く分かりましたね」
コウキは感心したことを素直に伝えた。仮に穴に気が付いても、通常は棒を入れるという発想には至らない。
「マニュアルに書いてありましたよ。入居したときにもらった冊子に」
女性はサラリと言った。そういうことか。やはり、紙の冊子を捨ててしまったのが敗因だったのだ。それさえあればこんなに苦労することは無かった。手に血がにじむような苦労をせずとも簡単に手動で出られたのだ。
「僕は紙をすぐに捨ててしまうもんで……」
コウキは頭を掻きながら苦笑いをした。非を認めるしかなかった。
「それじゃあ確かに、分からないですね。つまみを回すだけで開くように作ることもできたでしょうに。なぜ穴に棒を入れないとだめなのか理解不能ですよね」
コウキの失敗を女性がフォローしてくれた。確かにそうだ。何か構造的な理由があったのだろうが、利用者に優しい仕組みとはいえない。
「私、普通の人よりも物持ちがいいんです」
女性は自慢げに胸を張った。紙の冊子なんて無意味だと思っている人がほとんどだと思っていたコウキには理解できない行動だった。
「もしかして、紙の冊子は全部、保管してるんですか?」
そんなはずはないと思いつつも聞いてみる。
「ええ。よほど不要だと思わない限り、だいたい取ってあります」
「場所、取りますよね?」
コウキは理由が知りたくなり突っ込んで質問をした。
「はい。でも、時々、開いて見ると楽しいですよ」
「でも、端末でも調べられるじゃないですか?」
「ですね。でも、リアルな紙には何と言うか、独特の風情があります」
コウキには理解が難しい考えだった。しかし、このような状況になったことを考えると結果的には彼女の選択は誤りではないことになる。
「全部、止まっちゃったみたいですね……機械。お宅も同じですか? この建物全体がおかしくなったのでしょうか?」
女性が突然、話題を変えた。顔から笑みが消え、少し不安そうな表情になる。コウキは手すりに歩み寄り眼下を眺めた。
「うちも同じです。日本中が同じなようですよ」
コウキは遥か下の道路を指さした。女性も手すりからマンションの下に視線を落とす。
「うそ、日本中!? ほんと、自動運転の車が全部……」
政府のコンピューターが止まったのだから当然そうなるだろう。制御されなくなった車が安全のためその場に止まっている。目視範囲内に数十台。乗っていた人たちが、手動でドアを開けて出てきている。その場を去る者もいれば、どうしていいか分からずオロオロしている者もいた。
「政府の巨大コンピューターが止まったそうです。テレビで放送していました」
「そ、そうなんですか!? 私、テレビをあんまり見ないもので……」
テレビを見ないとは映像コンテンツ自体を見ないということか? だとしたらよほどの変わり者だ。
「もっと小さい端末か何かで映像を見るんですか?」
会話の繋ぎに聞いてみることにした。
「いいえ、私、部屋にいるときは主にラジオを聞いています」
「ラジオ? 音声だけで聞くあれですか?」
「そう。音声だけの放送。最近はチャネルが少なくなっちゃったんですけど」
変わった人だな。それが、率直な感想だった。今の時代、テレビだけでなく立体映像も楽しめる。それなのに音声だけ聞くなんて信じられなかった。
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