狂いゆく道程 9

 大学の三年目を迎えると始まるのが就職活動である。講義を受けながらアルバイトをして、週末には宮下くんとのデート、その合間を使って趣味も続けていた。そこに就職活動が加わりわたしの生活のキャパシティは限界を迎えた。過労で倒れないのが奇跡と言えた。でもそれは確実にわたしの身体、精神を蝕んでいた。


 大学の講義は身に入らず、バイトでは小さなミスを繰り返すようになり、彼との間には諍いが増え、創作活動は遅々として進まない。就活も手応えはゼロ。

 考えてみればわたしがこれまでやってきたことは学業とバイトと文章を書く事だけ。資格もなければサークル活動に励んでいたわけでもない。わたし自身はそれで十分満足していたが、社会適合者の模範解答としてはバツ。現に一社も内定が取れていないのがその証拠だった。


 週末になってまた宮下くんと会う。その日の彼は会うなりわたしの不調に気がついた。たまには気分を変えようかと、お酒を提供してくれる店に行くことになった。溜まったストレスを解消するためにお酒を飲むという短絡的な思考にちょっと落胆する。でも彼なりに気を使ってくれていることはわかっていた。だから素直に誘いを受けた。もとより断る気力なんてなかった。

 彼に誘われるままにたどり着いた店は成人式の日に入ったあの店だった。なんて芸のない……と思う反面、そもそもこの街にはお酒の飲める店自体が少ないのだと気づく。田舎はこれだから――と普段は思わないような悪態が頭に浮かぶ。わたしが相当滅入っている証拠だ。


 店に入って座敷に通され二人で適当にメニューを選ぶ。それから他愛無い会話をしながらお酒を嗜む。飲み始めてから二十分ほど経った頃だろうか、突然彼の携帯が鳴った。画面を確認して、ちょっとごめんと席を外す彼。それからしばらくして戻ってくると、大学の研究がなんやらかんやらですぐに帰らないといけなくなったと言い、わたしの意見も聞かずにお金をテーブルの上に置いてさっさと出ていってしまった。

 宮下くんが卒論に向けてなにかの研究の仕込みをしているという話は以前聞いた。だからその事を咎めるつもりはない。


 座敷に一人残されたわたし。食べかけの料理、飲みかけのお酒がテーブルに並んでいる。とてもじゃないがそれらを一人で片付ける気にはなれなかった。わたしは彼が出ていってから間を空けて店を出た。


 以前なら、どんなに忙しくてもわたしを思って、それこそ家まで送るくらいのことはしてくれた。でも今は……


 始まりがあれば終わりがある――。ありふれた言葉。


「もう、終わりかな」


 宮下くんが優秀なのは知っている。休みの日にまで呼び出されるのは彼が信頼されている証拠だ。でもそれがちょっと嫌な気分だった。彼にとって、わたしの存在が特別じゃなくなっている。一番じゃない。


 違う。そんなのはどうだっていいことだ。そもそもわたしが彼の告白を受け入れた目的は色恋を楽しむためじゃない。あくまで“経験値”を手に入れることだったはずだ。現に一度だって彼に恋愛感情を抱いたことはない。だから悲しむ必要など……ない。


 ――わたしは宮下くんに何を期待しているんだ。


 わたしはこのまま家に帰る気になれず、店を出てから街を歩いた。春の夜風はまだちょっと冷たく感じた。あてもなく歩き続けてわたしは歓楽街へとやってきた。無論こういう場所に足を運ぶのは初めてだ。

 たまには冒険してみたっていいだろう。もしかしたら新しい発見があって、それが創作に活きることだってあるかもしれないのだから。そんな軽い気持ちでわたしは適当に見つけた店に入った。ムーディーな雰囲気漂うバーだった。耳障りにならない程度のジャズが流れている店内は、カウンターだけでなくテーブル席もある。わたし以外の客はテーブルに二人、カウンターに一人だけだった。わたしはカウンターの空いているイスに座った。背の高いスツールは座面が狭くて座り心地が悪かった。


「ご注文は?」


 カウンターの向こうにいる男性の店員に言われ、どうしようか迷った。なにせこういった店に来るのは初めてだから注文の仕方がわからない。ファミレスにあるようなメニュー冊子もなくわたしは黙ってしまった。


「私と同じやつを。甘めでお願い」


 わたしが返答に窮していると、いきなり誰かが注文を入れた。顔を向けると最初に確認したときカウンターにいた女性客がすぐ隣に移っていた。ライトブラウンのソバージュに赤いルージュを引いた三十代後半くらいの女性。赤ワインみたいな色のドレスの胸元は大きく開いていて彼女の豊満なものの谷間が見えている。裾はスリットになっていて、組んだ白い太腿が顕になっている。


「かしこまりました」


 男性はあいわかったと手際よくお酒を作り始める。


「あなたはじめてでしょ。こういう店」


 妖艶な仕草で顔を寄せて訊いてくる。香水とアルコールの混ざった匂いに鼻腔を刺激される。意外にも不快感はない。わたしはただ首を縦に振った。


「なら、お姉さんがお酒の飲み方を教えてあげるわ」


 女性はごく自然にわたしの太腿の上に手を置いた。まるで身体が固くなる魔法にかけられたみたいに背筋シャンと伸びて硬直してしまった。


「ふふ、かわいいわね。あなた」


 かわいい、そんな事言われたの小学生以来だ。


「どうぞ」


 注文の品がテーブルに載せられる。逆さにした円錐形のグラスには白と桃色がキレイに二層に分かれた液体が注がれていた。店員がよくわからない言葉を発した。それがこのお酒の名前だとすぐにはわからなかった。


 口をつける。甘い。でもほのかにアルコールの香りがする。


「どう?」


「おいしいです」


「そう。ならよかったわ」


 嘘は言っていない。でもわたしの貧乏舌ではコンビニに売っているチューハイとの味の違いはわからなかった。それからしばらくその女性と話をした。気づけば自分が今置かれている状況をべらべらと話していた。アルコールのせいか、はたまた愚痴をこぼしたせいか、荒んだ心が少しだけ安らいだ気がした。


「じゃあ私そろそろ行くわね」


 話の区切りがついたところで、女性は高価そうな腕時計を確認しながらそう言って立ち上がった。


「今日は私がお金を払っておくから今度また一緒に飲みましょう。その時はあなたの奢りでね」


 女性はわたしよりあとに入ってきたお客さんに対応している男性店員に声をかける。二、三言葉を交わして店から出ていった。彼女は去り際に私の方を向いてウインクした。

 わたしはもう少しだけカウンターでちびちびとやって過ごした。カバンからノートと鉛筆を取り出して今起きた出来事をメモした。こうやって実体験したことをノートに取る作業もずいぶん久しぶりな気がした。あらためて見ると、それなりにたくさんの経験がそこに積み上げられていた。


 いつかこれらの経験が小説という形に変わる。そしてそれは意外と近い未来に訪れるかもしれない。


 満足して、さあ店を出ようかというときに店員の男性に声をかられた。


「あの、お会計は?」


「え?」


「え?」


「ん?」


「ん?」


 オウム返しのやり取りが続く。アルコールの入った頭で必死に思考を回転させる。この人は何を言ってるんだろう。お金ならさっきの女性が払ったはずだ。それともそれをなかった事にしてわたしからもふんだくろうという魂胆だろうか。ここはいわゆるぼったくりバーの類なのではと不信感を抱きかけたところで店員が言う。


「先程ほどのお客様が、支払いはあなたがやってくださると言っていましたが」


「……え?」


「え?」


「えっと、ああ――」


 バラバラだったパズルのピースがようやく形をなした。


 わたしは騙されたのだ。


 結局どこの誰かもわからない女の分まで支払う羽目になった。持ち合わせがあったからなんとか払うことができたのが不幸中の幸い。あの女は結構飲んでいたらしく何枚ものお札が消えてなくなった。


 許せなかった――


 あの女はわたしが素人のニオイをさせているのを感じ取って近づいてきたのだ。その手際の良さから、何度もこういうことを繰り返しているのだろうということは想像に難くない。それでもなんのお咎めもなしにのさばっていられるのは、これまで騙された人たちはきっと泣き寝入りしているからだ。

 くやしいがいい勉強になったと諦め、二度とこの場所には近づかないでおこうと自分を戒める。だからあの女はここ一帯で自分が引っ掛けた人間に二度と会うことはない。それをわかっているからこそ繰り返し犯行を重ねられる。


 だがそれもここまでだ。


 わたしは今までお前が食い物にしてきた可愛い子羊とは違う。正真正銘の“赤い羊REDRAM”だということをわからせてやる!!

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