狂いゆく道程 10
あの女に騙されたことが尾を引いていた。ほかのことにますます身が入らなくなるほどに。早々に対処が必要だったが、後先考えずに行動すれば痛い目を見るのは自分だ。これまで二度の罪を犯しておきながらも平穏無事に日常を過ごせているのは細心の注意を払って行動した結果だ。それらすべてを無に帰すなどあってはならない。
わたしは復讐のための計画を練るのに時間を費やし完成させた。多少運の要素が絡むものだったがそれを実行に移すと決めた。すべて必然だけで組み上げられた計画よりも、偶然に左右される計画のほうが警察の目をごまかしやすいはずだから。
トレンチコートを着て鼻下と顎に無精髭を模したシールを貼り伊達メガネをかける。変装を終えたわたしはあの女に騙されたバーのある歓楽街にでかけた。
怪しまれないよう雑踏に溶け込むように歩く。同じ場所を何度も行ったり来たりはしない。歓楽街の端から端までをただ歩いて例の女を見つけられたらラッキーぐらいにとどめておく。女を見つけられるまで毎晩これを繰り返す。
そしてようやく詐欺師の女を見つけたのは五日目のことだった。
それからわたしは女の行動パターンを探った。
詐欺師の女の生活サイクルはほぼ一定だった。職場はわたしが騙されたバーと同じ歓楽街にあるキャバクラだった。あの派手な恰好からも容易に想像できていたので驚かなかった。女の勤め先が閉まるのは深夜一時でその後自宅に直行。休みの日はやはり同じ歓楽街で飲み歩く。約一週間ほど女の行動を観察したが別の誰かと行動している姿を見ることはなかった。
女の住んでいる場所は歓楽街から少し離れたところにある五階建てのマンションの最上階にある502号室。一人暮らしだった。
何から何までわたしに有利に事が進んでいるような気がしてほくそ笑む。だが油断は禁物だ。焦ってもいけない。行動を起こすのはこちらの準備が完全に整ったあとだ。
…………
週末は恒例になった宮下くんとのデート。彼との関係はもはや惰性と言ってもいいほどだった。わたしの中の宮下くんに対する価値が下がったことは悪いことばかりじゃない。でなければあの女に対する復讐計画に彼も巻き込むとう言う方法は思いつけなかったはずだ。もちろん巻き込むと言っても彼の知らないところで、だ。
その日の夜。宮下くんと体を重ねたあと、わたしは疲れ果てた彼が眠りにつくのを今か今かと待った。自分も一緒に眠ってしまわないようにしっかりと意識を保ちながら待ち続けた。やがて隣から寝息が聞こえてくる。
「寝たの?」
おそるおそる訊く。返事はない。
わたしは隣りにいる宮下くんがちゃんと眠っていることを確認してからそろりと布団から抜け出す。それからゴミ箱を漁って彼が捨てたゴムを取り出し、それを持って台所へ移動した。
ゴムの縛られた部分をハサミで切って中に入っていた液体を試験管型のプラスチック容器にこぼさないよう慎重に移し変える。キャップがしっかり閉まっていることを確認してからそれを冷凍庫に入れて、何事もなかったかのように部屋に戻り布団に入って眠りについた。
…………
わたしは毎晩歓楽街へと出かけ、復讐を実行する機会を窺った。それは思いのほか早く訪れた。
その日は女が仕事の休みの日だった。夜遅くにショットバーに入っていくところを発見し彼女が店から出てくるのを外で待った。一時間ほどで店から出てきた女は足取りが不安定な状態だった。
わたしがはじめてあの女と会った時は酒に強そうな印象を抱いた。少なくともわたしよりたくさん飲んでいたし、その分たんまりとお金を払わされたのだ。でも今は見るからに酩酊状態。これはチャンスだ。今このときにおいて犯行に及ばねば次にチャンスが来る日はいつになるかわからない。少し危険かもしれないが、ときには大胆な行動も必要だ。わたしは酔った女に駆け寄り「大丈夫ですか?」と声をかけた。女はわたしの顔を見るなり露骨に嫌そうな顔をして「なに?」と眉間にシワを寄せた。
「ずいぶん酔ってらっしゃるなと思いまして」
普段は出さない低い声を作って口調も変えた。今のわたしは髭を付けて伊達メガネをかけているので正体には気づかれないはずだ。
「けっこうよ」
体を支えようとしたわたしの手を女は荒っぽく払いのけた。かなり警戒されているらしい。
普段自分が人を騙しているからその分警戒心が強いのだろう。だから心の底から他人を信用出来ない。ここ一週間ほど彼女を観察していたが、彼女はずっと一人だった。おそらく理由はそこにある。
「そう言わずにですね」
わたしはタイミングよくあらわれたタクシーに向かって手を挙げる。そして半ば強引に彼女とともに乗り込んだ。
「ちょっと何よ! どういうつもり!」
口では拒絶の意思を示すが、体の自由が効かないようで、わたしを押し返すには至らない。
「そんなことより家に帰るんですよね? ほら、住所を伝えてください。それともわたしの家に行きますか?」
「ふ、ふざけないで!」
女は酒で紅潮した頬をさらに赤くしながら叫んで、ドライバーに自宅マンションの住所を告げた。
警戒心の強い女ならこう言えば絶対自分の家の住所を言うだろうと思った。でも賭けだったことも事実。もしこの女が「あら、それもいいわね」なんて言い出していたら、わたしはこの女を自宅に連れ込む羽目になっていた。それはそれで犯行に及びやすいことは確かだが、タクシードライバーという目撃者に遺体の後始末という課題を抱えることになっていたのだ。わたしは少し安心していた。
しばらくして女のマンションの前でタクシーが停まった。お金はわたしが払って二人で車を降りる。夜も遅い時間。マンションの周囲に人の気配はない。
「それじゃあ足元に気をつけて」
わたしは好紳士を装って足早に女の前から姿を消した。もちろん帰るわけではない。どうせあの女はエレベーターで自室に向かうことはわかっていた。だからわたしは階段を使う。エレベーターとは反対側にある外階段を全力で駆け上がる。これを逃したらもうチャンスはないという強い思いが普段以上の力を発揮させたのか、体力に自信のないわたしにしてはかなりのスピードで五階にたどり着くことができた。
影に隠れて呼吸を整える。呼吸が整い切る前にエレベーターが到着を知らせる音を鳴らした。中から出てきたのはあの女。どうやら間一髪だったようだ。
女が自室の前に立ちカバンから鍵を取り出した。酔いのせいか体を左右に揺らして立ち尽くすだけでなかなか鍵を差し込もうとしない。女が手間取っている間にわたしは完全に整調を終えていた。ソロリソロリと女の背後に近づき二メートルほどの距離を開けて待機する。女はわたしの存在にまったく気がついていない。周囲の警戒も怠らない。咄嗟に隠れられそうな場所がないここで第三者が現れたらすべてがお終いだ。
女はようやく動き出す。しかしその緩慢な動きにわたしは苛立つ。何をやってるんだ早く開けろ――と彼女の鍵を奪って代わりにドアを開けてやりたい気分になるのをぐっと堪えてその時を待った。
ようやく女が解錠に成功した。ドアは外側に開くタイプで、女がドアを開いた瞬間わたしは一気に彼女に駆け寄りその体を突き飛ばしながら家内への侵入を成功させた。
女は框に足を引っ掛け廊下に倒れた。酔っ払っている状態では手をつくこともできずに頭から突っ込んだ。だが酩酊状態でも誰かに押されたという感覚は認識できたのだろう、ゆっくりとこちらを振り返った。
「ああっ――」
わたしを見る女の顔は青ざめていた。酒のせいではない、明らかな恐怖の色。その表情が、どうしてあなたがここにと雄弁に語っていた。わたしは無言でドアの鍵を締めてチェーンを掛けた。
女は靴を脱ぐのも忘れて両手両足を使って犬のように廊下を進んで奥の部屋に向かう。わたしはちゃんと靴を脱いでから家に上がり悠然と歩いた。
女は部屋に入ってフラフラと立ち上がりドアを閉めようとするが動作が緩慢すぎる。わたしはすぐさま体を滑り込ませ、女につかみかかって押し倒した。
「なによ! いや!? やめて!!」
女はわたしを暴漢だと思っているのだろう。たしかにその手のジャンルの小説なら格好のシチュエーションといえるが、わたしは成人向けの小説が書きたいわけではない。必要に迫られればそういう経験を積むことも
うまく立ち上がれない女は床の上で子どもが駄々をこねるようにがむしゃらに暴れまわる。ヒールのかかとがリビングの木板にあたってかかとが折れても、スカートが捲れて下着があらわになっても足掻くのをやめない。
わたしは哀れな蛸入道ダンスを繰り広げる女をただ見下ろしていた。わたしはまだ彼女に触れてすらいないのだから女の行動はまったく無意味な抵抗だった。
酔った状態では体力が続かないのかすぐに動きに勢いがなくなってきた。無駄な努力ご苦労さまと心のなかでほくそ笑み、わたしはしゃがんで女の頭を両手でつかんだ。するとまた動きが激しくなった。今度こそ自分に危害が及ぶと思ったのだろう。抵抗はこちらの予想よりも激しい。
まずは無力化する必要があると判断したわたしは両手でつかんだ女の頭を前後に振った。ゴンゴンと後頭部が床にぶつかる音がする。
「ちょ、にゃべ、てっ! ……つ!?」
女の抵抗が弱くなっていく。酒に酔った状態で頭を思いっきり振ったらどうなるかは見てのとおりだった。わたしは女が完全に抵抗する意志を見せなくなるまで頭を振り続けた。
「や、やべ――ろ――、ごプッ!」
次の瞬間女の口からドロっとしたゲル状の液体が溢れ出した。わたしは反射的に手を離して飛び引いた。前言撤回。わたしは酒をしこたま飲んだ人間の頭を振り続けるとどうなるかを完全に理解していなかったようだ。
女は目を回し髪を振り乱し、口からゲロを吐いた状態で床で横になっていた。眠っているわけではない。意識はあるが自由が効かないのだ。すえたような異臭が漂う。
「はぁ……」
わたしは辟易して盛大なため息を付いた。
このままの状態で復讐を実行する気にはなれなかった。とりあえず抵抗しなくなった女の両脇の下に手を入れて、リビングの隣にあった寝室のベッドまで運んだ。家から持ってきたカバンからガムテープを取り出して両手両足を縛るようにぐるぐる巻にする。
それから屋内を散策して適当なタオルを見つけそれで異臭を放つ女の口元を拭ってやる。そこに布を噛ませて上からガムテープを貼り付けた。履いたままだった靴を脱がせそれを玄関に置いた。踵が折れていたせいできれいに揃わないが仕方ない。最後に汚物にまみれたリビングの床も綺麗にした。
「さて」
復讐の時間だ――
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