狂いゆく道程 1
本が好きだ。――と言っても読むのはもっぱら娯楽小説。最も好きなジャンルはミステリ、次いでホラー。
小学生の頃は読書クラブという学校のクラブに所属していた。中学生になってからも読書部という部活に入って本を読むことに熱中した。当時の同い年の子たちよりたくさん本を読んでいたことは間違いなく、わたしは完全に
ある日、友人がわたしに一冊の本を勧めてきた。部活仲間ではない友人が「これだったらきっと気にいると思うよ」と言って渡してきたのは、なんてことない恋愛小説だった。わたしが恋愛小説が苦手なのを知っている友人はこれだったらとチョイスしてくれた一冊だった。友人の気持ちは嬉しかったけどいまいちピンとこなかった。友人に感想を求められた際に正直微妙だったと返事をした。その上、よせばいいのにここがダメ、あれがダメ、わたしだったらこういう展開にする、これだけいい材料が揃ってるのにもったいないと批評家気取りで酷評した。当然ながら友人はいい顔しなかった。不貞腐れたように半分涙目で「そんなにもんく言うんだったら自分で書いてみなよ」とわたしに言う。それは友人なりの必死の反抗で、きっと内心ではできるわけないと思っていたに違いない。
でもその言葉にわたしは心を打たれた。それまでずっと本を消費するだけだった自分が生み出す側に回るなどという発想は微塵もなかったからだ。読書部でも何かを作って発表したりする機会はなく、ただ本を読むだけの活動しかしていなかった。
友人の言葉に「うん。それもありかな」と適当に応える。その反面、心の中では「みてろよ、ものすごい小説を書いてあっと言わせてやるんだから」と意気込んでいた。
その日からわたしは毎日コツコツと物語を紡いでいった。長い時間をかけてやっとの思いで完成させた作品は友人の好きな恋愛小説。そのジャンルを選んだ理由は友人の紹介してくれた本をこき下ろしてしまったことに対してのお詫びの意味もあった。内容はシンプル。ひょんな出会いを果たした二人が恋に落ちる、どこにでもあるような設定。でもそれ故にとっつきやすい。わたしは自慢気に友人に見せた。A4のノート一冊分を使った鉛筆書きの自作の小説。しかし、わたしの期待も虚しく友人は数ページほど目を通しただけでノートを閉じて突き返してきた。そして一言――
つまらない。
ショックだった。なんで? どうして? って聞き返す余裕もないくらいにショックを受けていた。
納得が行かなかったわたしはそれを読書部の仲間に読ませてみた。しかし誰一人として最後まで読んでくれる人はいなかった。しかもみんな友人と同じように口をそろえて言うのだ「つまらない」と。それに加えてさらなる批評や批判が飛んでくる。中にはバカにして腹を抱えて笑う者もいた。さすが同じ部の人間。微塵も容赦がない。
わたしが友人の勧めてくれた小説を酷評した際、友人もこんな気持ちだったのだろう。でも決定的に違う点がある。酷評されているのは『わたしが書いた小説』なのだ。
悔しかった。泣きたくなった。
わたしはもう一度自分の書いた小説に目を通した。頭が冷静になっているからか、それともみんなに指摘されフィルターがかかった状態になっているからか、書いている時はあれほど面白いと思っていた小説はまったく面白くなくなっていた。
私は言った。だれそれさんがこう言った。その時私はこう思った。そしてこうなった、ああなったとただ事実の羅列が延々と続くだけ。登場人物の心の機微など微塵もなく、まったく感情移入のできないもので、まさに鉛筆と紙を無駄にしただけの駄文だった。こんなものを良いと思っていた自分はどうかしていた。わたしは途中で読むのをやめてノートをビリビリに破りクシャクシャに丸めて八つ当たりするようにゴミ箱にたたき入れた。
だけど、あれだけ大恥をかいたのに、「もう小説を書くのはやーめた」――とはならなかった。わたしの心の裡にはまだ小説を書くことに対する熱があった。
そもそも小説を書いたことがない人間がいきなり他人に絶賛されるような小説を書けるはずがない。しかもわたしには足りていないものが多すぎる。恋愛小説を書くなら恋愛経験が必要なのは言わずもがな。それ以前に基本的な経験も見聞も文章力も語彙力だって……。ありとあらゆるモノが足りてない。だったら腕を磨くしかない。
思い立ったが吉日。その日からわたしは欠かさず日記をつけることにした。日記を書くことで少しでも文章力の向上を図ろうとした。ほかにも小説を書くための教科書のような本を買って読んで、少しづつ少しづつ努力を重ねていった。
…………
高校生になってもわたしの創作に対する熱は冷めなかった。しかしこの頃になるとわたしは創作のもどかしさを実感していた。書きたいという思いがあっても、具体的なお話が下りてこない。一度面白いストーリーを思いついたとしてもそれをうまく言葉に表現することができない。一度も成功したことがないのに早くもスランプに陥った状態になっていた。その感情はストレスとなってわたしの中に蓄積されていった。
その年の夏は厳暑で夜でも気温の高い日が続いていた。わたしの部屋には冷房がないから窓を開けて扇風機をつけて暑さを凌いだ。
中学の時から始めた小説を書くための勉強もそろそろ実を結んでもいい頃ではないかと思い小説の執筆を試みる。小説の書き方の本を読みながら机に向かって文章を書こうとする。しかし、人に読ませる文章を意識した途端何を書いていいのかわからなくなる。それでも一所懸命頭をフル回転させ想像を巡らせる。何かが絞り出せそうになったそのときだった。
外から不快な音が聞こえてきた。その音は段々と大きくなり家の直ぐ側の道路を通過して小さくなってやがて聞こえなくなった。どこかのバカが爆音を鳴らしてバイクを走らせているのだ。窓を開けているせいでより一層大きく聞こえたその音が、わたしの頭に浮かび始めていた想像を見事に攫っていった。
「もうっ! せっかくいい案が浮かびそうだったたのに忘れちゃったじゃん!」
それはこの時期になると毎年のようにあらわれる自己中ライダーだ。去年までは「うるさいなー」くらいの感想しか抱かないけど今は違った。集中力を乱されることがこんなにも腹立たしいことだなんて思ってもいなかった。気がつけばわたしは持っていた鉛筆をへし折っていた。それでもイライラは収まらず、折れた鉛筆を握って真っ白なノートを黒鉛でグチャグチャに汚す。
例のライダーが爆音を響かせながらバイクを走らせる行為はその日だけにとどまらなかった。明くる日の夜もその次の夜もわたしを嘲笑うかのように爆走を繰り返す。
「ああっ、もうっ! イライラするっ!」
その度にわたしはイライラをつのらせる。
爆音が耳につくようになってから四日目の夜。わたしは窓の外を眺めていた。どうせ来るんだろう今夜も。だったら見届けてやろう。それからゆっくりと執筆活動を再開すればいい。
しかし待てども待てどもバイクがあらわれることはなかった。こういう時に限って自分の行動が裏目に出るのかと、そのことがまたわたしをイラつかせた。
「ふざけんなー!!」
あまりにも腹が立ったわたしは全開にした窓から夜空に向かって叫んだ。それは別の部屋にいたママにも聞こえていたらしく、「今何時だと思ってるの。近所迷惑でしょ!」と怒られた。
…………
書けども書けども本当に文章がうまくなっているのかどうかまったくわからなかった。わたしは小説書くということの難しさを痛感していた。そもそも上達したからなんだというのだ。努力したら面白い小説がかけるようになるのか。
――努力したからといって必ず報われるわけじゃない。でも成功している人間はみんな必ず努力している――
なにかの本に出てきた登場人物が言っていた言葉を思い出す。つまりそういうことだ。わたしのやっていることは先の見えない道をただひたすらに歩き続けていることに等しい。
わたしが今チャレンジしようとしているのはミステリ小説。初めて書いた小説は恋愛小説だったが、それは友人を喜ばせようと思ってそのジャンルを選んだに過ぎない。それが間違いだったのだと気づいたわたしは普段自分が好んで読んでいるミステリやホラー系の小説にチャレンジすることにした。
恋愛小説と比べれば多少は勝手がわかっている。そう思ったもののやはり行き詰まる。一番の問題はわたしが実際に殺人現場に居合わせた経験がないことだ。だから『事件が起こる』ということの肌感覚がわからない。
既存の作品を参考にするという方法ももちろん思いついていた。でもそれにしたってどこまでやっていいかわからない。かつて事件のトリックを盗んだ盗んでないでもめて発禁になった本もあるくらいで、この問題はとてもシビアなのだ。
「うーん……」
わたしは頭を悩ませる。煮詰まった思考を変えるため気分転換でもしようかとテレビをつける。テレビに映し出されるのは毎日この時間にやっている夜のニュース。いかにも遊んでそうな男が警察に連行されていく映像が流れる。その男は四歳になる自分の子どもを虐待し死に至らしめたのだとキャスターが伝える。
――大丈夫だよ。怖くないよ。今から女にしてあげるからね――
突然、脳裏に響く男の声。胃の腑から吐き気がこみ上げ咄嗟に口元を抑える。もう一方の手で慌ててテレビを消したがもう手遅れだった。残像だった男の影が確かな実態を伴って具現化する。パパだ――
あの忌まわしい記憶が蘇る。
暗い部屋。スッと襖の開く音でわたしは目を覚ました。眠い目をこすりながら開いた襖の方に目をやると、四つん這いでそろりそろりと近づいてくるパパの姿があった。
「なにやってるの?」
わたしがそう問いかけるとパパはハッと顔を上げる。
「大丈夫だよ。怖くないよ。今から女にしてあげるからね」
その言葉の意味はまったく理解できなかった。でもその優しい口調とは裏腹に下卑た笑みを浮かべるパパを見て、なにか異質なものを感じたわたしは布団から出て後退る。でもすぐに壁にぶつかって逃げ場を失ってしまった。
その時初めてパパの手に包丁が握られているのがわかった。開け放たれた襖から漏れ入る光を受けて、それはギラッと鈍く光った。わたしがそれに気づいた事に気づいたパパはそれを見せびらかすようにわたしの目の前にかざす。
「逃げなくていいんだよ。痛いのは最初だけだから。優しくするからね」
パパは明らかに常軌を逸していた。子どもの時分にもそれは理解できた。頼るべき存在、自分を守ってくれるはずの存在が、わたしを脅かす存在と化している。
パパがわたしの足首をつかみ自分の方に引き寄せる。わたしはそれに抗おうとしたが大人の力の前では無力。わたしの身体はあっという間に引き寄せられ、パパの左手がわたしの口を覆う。
「大丈夫だよ。怖くないよ。最初は痛いかもしれないけど、それも一瞬で終わるはずだから」
怖くないよ―― 怖くないから―― とパパはわたしに言い聞かせるように何度も同じ言葉を繰り返しながら、わたしのズボンを下着ごとずり下ろす。
これから何が起こるのか。わたしはどうなってしまうのか。でも確実に恐ろしいことが起こるということだけは本能的に理解していた。恐怖が全身を緊張させる。
――いやだ! いやだいやだいやだやだやだやだやだ。怖い。助けて。だれかわたしを……
その瞬間下腹部に悪魔のような激痛が走った。
「んぐぅぅぅぅがあああああああああああああああああ――」
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