カラスが殺す(短編)

雨傘ヒョウゴ

カラスが殺す

 



 片っ端から死んでいく。

 片っ端から、消えていく。

 そんな世界に彼は育った。


「次のターゲットはこの少女だ」


 写真には、可愛らしい金髪の少女が映っている。大きな麦わら帽をかぶって、真っ白なレースのワンピースを翻して嬉しげに笑っている。

 受け取ったそれを見つめて、青年は静かに表情を無くした。自身の記憶を探り、理解した。溜め息がでる。男は青年の仕草に気づかず続けた。


「歳は十五。とある資産家貴族のご令嬢だ。名前はリルフ・ロレンス」


 十五というには、写真は幼い姿だ。実物は実際に現地に行ってみろ、と追加されたところで眉をひそめた。詳細なデータがない。それはおかしなことだ。彼は殺し屋だ。依頼は正確に。当たり前の常識である。


 雇い主は青年の不満にすぐさま気づき、悔しげに顔をしかめた。咥えた葉巻からは、煙がくすぶっているようだ。


「今の写真はないんだ」

「……ないって?」

「だから、ないんだ。撮りたくても、撮ることができない。幾度も失敗した。彼女には強力な呪いがかかっている」

「ははあ」


 飲み込めた。青年は自身の黒髪をぐしゃぐしゃにさせ笑った。彼は殺しのエキスパートだ。幾人をこの手で屠ってみせた。わざわざ彼の元へ来るほどの依頼――と、なると想像はつく。


「彼女に近づくと、人は死ぬ。送り込んだ暗殺者、全てが死んだ。例外はない。これは呪いだ」


 父から莫大な財産を受け継いだ、ただ一人の幼い少女。その彼女の命を、多くの者達が狙っている。誰よりも早く、向かわなければいけない。すぐさま踵を返した。その背中を見て、男はほっと息をついた。葉巻を咥えていた口元が震えている。


「……ふー……」


 自身が雇い主であるはずなのに、あの青年の瞳を見る度に、ひどく緊張する。暗い瞳だ。何もかもをどこかの闇に落としてしまったかのような、真っ黒な、濁った瞳の色だ。彼は最強の暗殺者だ。任務の失敗は、今まで一度だってありはしない。しかし、今回は例外だ。数々の人間が、命を落とした。


「いや、無駄な考えだ」


 必ずあの男はやり遂げる。

 彼が少年の頃から、様々な技を叩き込んだ。男の想像以上に、彼はその技能を吸い取り、開花させ、我が物にした。落とした葉巻を革靴で踏み潰した。


「朗報を、待ってるぜ」


 かあ、と一つ、外ではカラスの声が聞こえる。




 ***




 リルフの父が亡くなってしまったのは、ほんの数ヶ月前のことだ。

 彼女は庭の花の一つ一つに水をやり、声をかける。庭師はいない。とっくにいなくなってしまったのだ。リルフが麦わら帽子をかぶりなおすと、緩やかに金の髪が揺れた。ゆっくりとジョウロを傾けていく。少しでも以前の庭に戻るようにと頑張っているつもりでも、どうにも力不足で、力ない花壇を見る度に瞳を落とした。


「ジョウロって、本当に、こんなに重たいの……?」


 喘ぎながら、必死に何度も持って往復する。可愛らしいつるつると真っ白な靴がすっかり汚れてしまったことに気づいた。でも、誰もリルフのことなんて見るわけもないから、気にしなかった。


 体を動かしても、以前よりも少しくらい息が上がらなくなってきたような気がする。髪の毛も、一人で結べるようになってきた。最低限の支度をしてくれる使用人やメイドはいるが、なるべく近づかないようにしている。


 かあ、とカラスが庭の前をちょこんと通る。貴族によっては縁起が悪いと追い出すのだろう。けれどリルフはさみしげな瞳のまま、ぽそりと呟く。


「……あなた、私と同じね」


 よければ好きにいらしてね、と声をかけると、かあ、とまるで返事をするように鳴いたので、うっかり少しだけ笑ってしまった。でも、自分にはそんな権利もないと考えて唇を震わせながら飲み込む。

 そのとき、いきなり手の中の重さが消えた。リルフの視線よりも持ち上げられたジョウロに驚き、瞬く。ばさりとカラスが飛び立って、消えていく。見上げると、まるでカラスのように真っ黒な頭をした青年がリルフからジョウロを取り上げていた。


 逆光になって、顔がよくわからない。でも知らない人間であることは間違いない。なんせこの屋敷に男がいるはずがないのだから。

 そのことをゆっくりと考えてやっとこさ気づいたとき、「ひいっ」とリルフは小さな悲鳴を上げ、後ずさった。すると、足元がひっかかって尻からこけた。逃げないといけない。近づいてはいけない。リルフは座り込んだまま真っ赤な顔で頭を抱えるようにうずくまり、必死で小さくなった。男はその様子をひどく不思議気に見下ろした。彼女から持ち上げたジョウロをベンチに置いたらしく、こちらに近づく足音が聞こえる。


 丸眼鏡をした柔和な表情を持つ青年だった。年は二十歳を越えているか、いないかという程度。黒髪の黒目で、ひどく顔は整っている。好奇心に負けて、そっと見てしまった。でもだめだ。


「お嬢様、驚かせてしまいまして、大変申し訳ございません」

「近づかないで!」


 必死の声だ。リルフに伸ばそうとした青年の手のひらを勢いよく弾き飛ばした。そうした後で、はっとして、自身の弾いた手を見つめた。申し訳ない、と彼は言っていた。そうだというのに見ず知らずの青年に、とても失礼なことをしてしまった。でも、仕方のないことだ。伸ばしていた手で自身をかき抱いて震えた。――リルフに近づいた人間は、みんな死んでしまう。

 この男性は、きっとそれを知らないのだ。だから、だからと必死に伝えようとした。私から逃げて、この庭から出ていって。


「お嬢様」


 細い体を震わせる少女の目の前に、青年は座り込んだ。


「はじめまして、俺の名前はロイ。名字はありません。今日から、貴女専属の執事となります。どうぞ、お見知りおきを」


 青年は、再度彼女に手を伸ばした。さきほどの彼女の行動なんて、まるで気にしていないように。ロイと名乗った青年は丸メガネの奥の柔和な瞳をゆるりと細めた。その瞳にうっかり胸の奥がドキリとしてしまったが、そんなのもちろん一瞬で、彼の手を取ることもなく、ただ震えた。リルフは、そうするしかなかった。



 ***



 リルフの父は高名な呪術師である。ロレンス家は代々呪術の血で富を築いた。残念ながらリルフは父からその力を譲り受けることもなく呪術の技は途絶えてしまったのだが、父は多くの人間から様々な依頼を受けたときく。


 その中にはいいものも、悪いものもたくさんあっただろう。リルフは父の仕事を知らない。書斎にこもって、薄暗いランプの灯りの中で難しい書物にペンを走らせる背中を幼い頃からそっと覗いていた。


 茶色いベストを着て、大きな背中を丸くしながら仕事をする父の背を見ることが好きだった。幼い頃はこっそり覗いているリルフに気づく度に、仕方のない子だねと父はリルフの手をひいて寝室まで連れて行ってくれた。もしかすると、それが一番嬉しかったのかもしれない。


 でも、そんな姿はもう見ることができない。リルフの父は、数ヶ月前に変死した。真っ赤な血を吐き出して倒れたその姿は、"呪い"の暴走に違いないと多くの人々が揶揄した。悲劇はそれだけで終わらなかった。自身の呪術の暴走によって死んだ父の呪いは、リルフを襲った。彼女に近寄るものは全て死ぬ。


 父からの莫大な財産を受け継いたリルフだったが、見知ったメイドや、庭師が死んでいく様を見た。唯一の身内を亡くして、さらにおかしな呪いにかかって、頭がどうにかなってしまうかと思った。だから屋敷中のもの達に、自分に誰にも近づかないようにと命令した。もう誰も傷つくところを見たくなかったのだ。それでも呪いが何だと親切にしてくれるものは大勢いたが、全員死んだ。


 いつしか誰もかれも、リルフを遠巻きに見つめた。彼女を恐れて、辞めていくものもいた。たくさんの人で賑わっていた屋敷も、すっかりと静かになって、掃除をするものも、庭を手入れするものもいないから、いつしか薄汚れてしまった。



「ミスキャロル! 一体どういうことなの!?」


 リルフ専属の執事だとロイに名乗られ、リルフはただ呆然として青年を見上げた。そしてまず行ったことは、ロイへの返事ではなく古株のメイドに向かっていくことだ。唯一と言っていいほど残ってくれたメイドの一人で、彼女は屋敷の管理を一手に引き受けてくれている。


 キャロルは二十代半ばのひっつめ髪で瓶底眼鏡の女性だったが、今では年若いリルフに変わって屋敷の管理は彼女が行ってくれている。多くの従僕達が去っていく中、『私はお嬢様のもとに残りますとも』と彼女はほほえみながら言ってくれた。


 キャロルは長い付き合いの女性だから、リルフにとっては姉のような存在だ。だから彼女の言葉は、リルフの中に温かなものとなって染み込んだ。けれども、だからこそ逃げてほしかった。しかし数ヶ月前まではたくさんの侍従に世話をされていた身だ。一人きりで生きていくのはあまりにも難しく、リルフの願いは受け入れられることなく今もキャロルは屋敷にいる。


 けれどもまさか彼女の命を危うくするわけにもいかず、リルフは部屋のギリギリまで離れた状態で、いつもはおっとりと垂れた瞳を、精一杯に吊り上げ、キャロルを睨んだ。


「いかがなさいましたか? お嬢様」

「いかがなさいましたか、ではないわ……! これ以上人は増やしてはいけないと言っているじゃない。それに私専属ですって? ふざけないで!」


 声を荒げているのは、あのロイという青年の命を心配しているからだ。これ以上誰かを犠牲にするわけにはいかない。なのに、「もちろんふざけてなどはおりませんとも」と聞こえた声が、ぞっとするほど近くてリルフは震え上がった。ロイと名乗った青年は、恐ろしいことにもぴたりとリルフの隣にいる。


 リルフは、彼の元から必死になって逃げたはずだ。たとえ彼女がお嬢様で、足が平均よりも遅いということを差し引いても異常なほどの速さだった。それにまったくもって気配を感じなかった。呆然としてリルフはロイを見上げて、「ひっ、ひゃあ!?」 そのあと悲鳴を上げてキャロルとは別方向にさらに部屋の端に逃げる。かくかくと大変な動きである。


「いかがなさいましたか?」


 ロイは主人の奇行にもにっこり笑って、ほのぼのとしている。いつその首に死神の鎌が落ちるとも知らずに、リルフの隣に立っていただなんて、あまりにも恐ろしすぎる行為だった。


「わ、私に、近づいたら……!」


 死ぬわよ、と叫びたかった。けれども言えない。すでに街では誰しもが知っていることだが、リルフにかかっている呪いは、実の父がかけたものだ。これ以上、父の汚名を広めたいわけではない。だからどうにも要領を得ないまま、リルフは板挟みになっていた。父の名誉とロイの命。


「わ、私に、近づいたらぁ……!」


 とりあえず同じ言葉を繰り返してぶるぶる震えるしかない。いや、答えが出ないのなら仕方がない。「ミス、キャロル! なんでこの人を雇い入れてしまったの!」 もはや八つ当たりのように叫んだ。


「お嬢様のお気持ちは、私よくよく理解しているつもりでございますわ」

「だったら……!」

「今この屋敷には、圧倒的に人手が足りないのです」


 キャロルは瓶底メガネをくいっと片手で上げながら、きらりとメガネを光らせた。そこを言われると、ぐぐっとリルフは唇を噛みしめるしかない。元凶はリルフだ。逃げていく使用人達を、止めることはなかった。それどころか、よりよい勤め先を見つけられるようにと様々な手を尽くした。そして、気づけば空っぽの屋敷ばかりが残った。どんどん荒れ果てていく庭を見る度に、なんとかしなければと慣れないジョウロを握ってみたものの、リルフの頼りない力一つでは何もすることができない。


「確かにお嬢様から、これ以上人の雇い入れは行わないように、と言い付かっておりましたが、ものには限度がございます。今現在、お嬢様の世話をするものすらも足りてはいないのですよ」

「で、でも世話って、男の人だし」

「誰も服の着せ替えまで行えと言っているわけではございません」


 リルフに近づけば近づくほど、死の確率は高くなる。始めこそは四苦八苦していたものの、服の着替え程度は、自分で行えるようになってしまった。以前は綺麗に編み込んでいた髪はどうしても一人でできないので、今は流している程度だが、それなりに頑張っているつもりだ。


 キャロルの言葉に、リルフは僅かに頬を赤くさせた。「ふ、服の着せ替えって、そ、そこまで言ってたわけじゃ……」 もごつきながら、本当はひっそりどうしよう、と考えていたことだから、さすがの勘違いに恥ずかしくなったのだ。いつの間にかロイはリルフの隣に立っていて、女二人の会話を聞きつつも涼しい顔をしている。


「なんにせよ、彼はありがたくもこのロレンス家の労働力です。お嬢様、ご心配なさるお気持ちはわかります。しかし、現実を見てくださいませ。彼は執事のエキスパートです。様々な屋敷を渡り歩き、業務の改善を行ってきたとのことです。保有している資格は、履歴に書ききれませんでしたわ。とても有能な人材です」


 キャロルの言葉は分かる。確かにありがたい存在だろう。今この屋敷には男手はいない。いや、男どころか、女もいない現状だが。「でも、その……私に近づくと」「もちろん、そのことも理解の上、だそうですわ」 キャロルの返答に、ロイはにっこりと笑っている。リルフは、再度ゆっくりと青年を見上げた。そして感じた。


 ――あまりにも、怪しすぎる。


 もし本当に有能な人物なら、リルフに近づこうとするだろうか。自分なら、間違いなく避けて通る。誰でも自分の命が一番大切なはずだ。それなのにこの男は、リルフに近づこうとする。一体何を考えているのか、まったくもってわからなかった。





 キャロルの説得を諦めたリルフは、ふわふわと柔らかい金の髪を揺らしながら、静かに回廊を歩いた。背中にはロイがいる。はず、なのだが、足音すら聞こえない。気配すら感じないのだ。


 おかしい、と不安に思って振り向くと、間違いなくいた。いきなり振り返ったリルフに、驚いたようにパチパチと瞬きを繰り返して、また笑った。よく笑う男だ。黒髪に、黒い瞳と暗い印象になるかと思えば、高い背や整った鼻筋が華やかで、服に着られることなくピッタリのベストを着て、ぴかぴかの革靴だ。糊がきいたシャツはキャロルが渡したものか、それとも自前のものかは知らないが、よく似合っている。丸眼鏡はちょっとだけやぼったいが、むしろそちらの方が親しみやすいのかもしれない。


「……あの」


 リルフは、青年を見上げながら、睨み上げた。本来ならいくら相手が侍従だろうと、高圧的な仕草を望んでいない。彼女は温厚な令嬢だ。でも、彼の命がかかっている。


「申し訳ないですけど、直接お伝えします。ミスキャロルを説得することは難しそうですから」


 だん、と両足を開いて、向き合った。小さな体を必死に大きくさせて、令嬢らしからぬ仕草で胸をはる。胸元の大きなリボンが揺れている。


「聞かれていたのでご存知とは思いますが、私は貴方が私の専属となることを望んでいません。初日で、いきなりのところ悪いけれど、荷物をまとめて出ていってくださる?」


 垂れた瞳を、必死に吊り上げた。

 これだけ言えば、はっきりとこちらの意思は伝わるだろう。ロレンス家の実質的な家督はリルフである。たとえ雇い入れたものがキャロルであろうと、口を出す権利は持っている。はっきりと、言葉を伝えた。なのに、だ。ロイは小首を傾げた。


「嫌です」

「ええ!? いやなの!?」


 まさかの反応に、うっかりいつもの気の弱さが出てしまった。想定外すぎた。「な、なぜ……?」 お金の問題だろうか。確かに、ロレンス家は父が成し得た莫大な財産を保有している。彼は有能だと言うから、金払いのいい契約をしてしまったのかもしれない。困った。そ、それなら、とリルフは顔を上げた。


「違約金を払います! 貴方の言い値で! いきなりのクビだもの。もちろんこれくらいはさせてもらうわ!」


 と、言いながらも、頭の中では、キャロルをどう説得したらいいものかとそれどころではない。はは、とロイは口元をほころばせた。高い背を折りたたみ、リルフにそっとささやく。「どう言われたところで、俺はあなたのそばを離れません」 なんでまた、と呆然とするしかない。凪のように緩やかな表情と、頑なな態度がどうにもそぐわない。


 困惑したまま青年を見つめる少女に、ロイは眼鏡の奥の瞳を、優しげに細めた。


「――ただ、あなたのそばにいたいのです」


 いやだから、怪しすぎる。



 ***



 リルフの年はまだ十五だ。立派なレディになるには、もう少しばかり背丈が足りないな、とよく父が笑っていた。亡くなってしまった母はリルフと同じように小柄だったから、いつになったら父が認めるレディになるのやら、とふわふわの金の髪に手ぐしを通して溜め息をついた。そしてロイという青年のことを思い出した。


 あなたのそばにいたい。まったくもって理解できない言葉だ。リルフに近づけば命を落とす。あまりにも不可思議な状況で、みんな命の灯火を消していく。最初はただの偶然だろうと思った。でも、繰り返せば必然だ。呪術師である父の仕事の兼ね合いで、呪術に関しての知識はないが、リルフにはある程度の理解もある。


 さて。

 リルフは視界の端に映る執事を、一体どう追い出してやろう、と考えた。庭には、最近よくカラスがやってくる。キャロルに見つかれば追い出されてしまうだろうから、おとなしくしておいてね、と伝えるとかあ、と一つ返事をしていた。


 こっそりカラスにかあ、と返事をしつつ思案する。意地悪な言葉をのたまって、ワガママな令嬢を演じてやろうか。なんせ彼の命が危ない。そばにいたい、と言われたとき、リルフはもちろん間髪入れず、「結構です、私これでも自分のことは自分でできますから!」と答えたのだが、まったくもってへこたれず、ロイはにこにことリルフの後ろをついてまわった。


 庭掃除の途中であったことを思い出して、庭のベンチに置かれていたジョウロを持ち上げ、そうっと花壇に水をやる。こんなものだろうか。わからないけど、放っておくよりずっといいだろう。えい、銀色のジョウロの口を傾けたとき、ひょいと持ち上げられた。既視感である。


 振り返ると、ロイがにっこりとリルフを見下ろしていた。


「……あの」

「失礼いたしますね」


 失礼します、じゃない。何かちょっと馬鹿にされているような気がする。ロイは花壇の土の具合を片手で確認し、ふむと頷き、「こちらは不要かと思います」と伝えた。


「え……? ちょっと」

「まだ湿っておりますので」


 確かに今日はあまり日当たりがよろしくない。靴が汚れてしまうことに今更構いはしないけれど、ロイと同じようにしゃがんでとなると、少しばかりリルフは躊躇した。でも、自分のことは自分でできると叫んだ手前、えい、と勢いよく触って確認してみる。よくわからないけど、さらさらはしていない。


「……あの」

「あとは雑草がありますね」

「えっ、あっ」


 せっかく育っていた草木が引き抜かれていく。そのとき、雑草という言葉を聞いて、愕然とした。可愛らしく飛び出ていた芽に、少しの喜びを持っていたというのに実は雑草だったらしい。まさか喜んで雑草を育てていたと白状することもできず、リルフは口をつぐんでロイの仕事を見守った。あまりにも切ない。気づけば、座り込んだベンチの近くに置かれた机には、温かいフレーバーティーが淹れられている。頭の上にはパラソルが。いつの間に。


 淹れられた紅茶に罪はない、とソーサーを持ち上げ、そっと紅茶を口にふくんだ。爽やかな味わいがする。ほっとする味がした。でもこんなことをしている場合ではない。


「お嬢様、日差しはきつくありませんか? もう少し大きな傘を持って参りましょうか」

「今日は日当たりがよくないという話をしたばかりだと思うのだけど」

「お嬢様のお美しい白い肌にはどんな日差しも毒かと思いましたので」

「おべっかは不要よ」

「ただの本音ですよ。あなたには本当に花が似合う。頑張って手入れされていたのですね、素敵な庭です」


 ぼろぼろの庭を前に、口先がよく回ることだ。

 近づくなという警告を聞いてもらえないのなら、いくらでも手に負えない子どもを演じてみせる、とリルフは彼に背を向けて去った。あなたなんて知らない、とドレスの裾を揺らしながら部屋に辿り着いたはずなのに、なぜだか彼が戻った部屋の先でベッドメイクを終えていた。動きがおかしすぎるのでは。


 実のところ、キャロルはロイ一人を雇ったのではなく、三つ子を雇ったのではないだろうかと思うほど、ロイの働きぶりはおかしかった。人が減り、手が回らなくなったはずの屋敷の管理が明らかに改善されていく。普段は気配を感じない。なのにふとしたときリルフが視線を向けると、彼は丸い眼鏡の奥の瞳を瞬かせて微笑んだ。一体なんなの。


 ――こんなお茶飲めないわ。

 ――こんなドレス、ダサすぎるわ。


 リルフは考える限りでワガママを言い尽くしてみたが、彼女が一つ声を張り上げる度に、ロイはさらにその上を飛び越えてくる。「みなさい、こんなところにまだホコリが!」 最終手段として、窓のふちにそっと指を伸ばしてみた。こんなところは彼の仕事でもなんでもなくメイドの仕事であるはずなのだけれど、なりふりかまっていられない。


「ほらぁ……!! ぴっかぴかあ!」


 見なさいよ! と人差し指を突き出したところで、つやつやしていた。まるでロイの掃除の腕前を本人の前で自慢した結果になってしまった。何かがおかしい。「お嬢様の指はどれも細くて可愛らしいですね」 にこにこ眼鏡の言葉である。怖すぎる。


 一体彼はどこまで本気なのか。リルフが何をしても、可愛らしいだの、素敵だのと言葉をつけるのは当たり前で、リルフもそろそろ慣れてきてしまった。自身が真綿にくるまれるように育った箱入りと理解しているから、そんな言葉を聞いたところで、彼らがリルフを褒める言葉は本心からのものでないことを知っている。だからこそ、はいはいと適当に受け流す程度で溜め息ばかり出てくる。


 それから、ロイが雇い入れられて、一ヶ月ほどが経過した程度だろうか。

 窓から溢れるような光は、とろりとしたオレンジ色だ。リルフは書庫にこもり、指先で本の文字をなぞっていく。


「勉強熱心ですね、お嬢様」

「本の間に潰されて死んでしまっても知らないわよ」


 どうせその場にいるとわかっている。彼の顔を見ずに答えた。「まさかそんな、間抜けなことがあるわけがないでしょう」 ぱたりと本を閉じた。


「本当のことよ。ちょうど、貴方がいるその場所。仲がいいメイドだったわ。お茶を持ってきてくれたの」


 ありがとう、と言葉を告げたとき、重たい本棚が音もなく倒れた。それが始まりだった。リルフは悲鳴を上げ、何度も彼女の名を呼んだ。紅茶はすっかりカーペットに染み込み、赤黒い跡を残していた。人も少なくなってしまったから、今もそのカーペットは取り替えられることもなく彼女の目の前にある。


 本当は取り替えようと思えば、いくらでも替えることはできた。金はくさるほどあるのだから。でもリルフはキャロルに命じなかったのだ。見る度に彼女の死を思い出した。


 自身への罰を受け入れた。


 ――そのはずなのに。


 本をめくろうとする指先がかたかたと震える。ふと、何かが覆いかぶさっていた。驚きながら見上げると、ロイがひどく沈痛な面持ちでリルフを見ている。「近づかないで」 どうにもこの男は胡散臭い。相変わらずそう思っているし、屋敷から離れることも祈っている。なのに、悲しげな彼の表情に嘘はないように思えた。


「辛い想いをなさいましたね」

「そう思うのなら、出ていってくれると嬉しいわ。新しい死体が生まれるのは本意ではないの」


 辛い言葉を吐いた。まるで、自身をナイフで切りつけているようだ。なのに、リルフはロイの返答を確かめている自分がいることにも気づいていた。


「もちろん、お嬢様のもとを出ていきませんとも。なんせ俺は死にませんから」


 薄っぺらい言葉を吐き出す。なのに、だ。


 ほろり、と涙がこぼれた。嘘だ。そんなもの、我慢するすべはいくらだって持っている。涙なんて流さない。けれど、心の中はそうじゃない。


 いつしか、リルフはこのロイがこの場にいてくれることに喜びを感じていた。人がいないということは孤独だ。話して、返答してくれる人がいる。そのことはとても幸せなことだ。キャロルだってこうも無防備にリルフには近づかない。


 泣いてなんかいない。そのつもりだったのに、やっぱりリルフはぼろぼろと涙をこぼしていた。行かないでほしい、という声を出すことができなくて、かわりに涙を落とした。そんな自分が嫌だった。悔しくて、悔しくてまた泣いた。


「ロイ」

「はい」

「いてくれて、ありがとう」


 どういたしまして、という声は聞こえない。当たり前だ。リルフは呪われている。だから早く、彼には自分の前から消えてほしい。


 そのとき、リルフは気づかなかったが、カラスの鳴き声が聞こえた。ロイはふと窓の外を見つめ、「もう少しで終わりますね」とつぶやいた。夕焼けを見ていたから、リルフはてっきり今日という一日のことかと思ったのだが、もちろん違った。

 ロイは暗殺者だ。終わらせるというのならば、命に決まっている。懐には幼いリルフの写真が眠っている。殺せと命じられた。彼は、悲しいほどにただの暗殺者だ。



 ***



 こつこつと屋敷の中を歩く音が聞こえる。昼間の朗らかな青年などどこにもいない。一歩、一歩踏みしめて、ナイフを握った。リルフが使用する部屋を、丹念に調べていく。中でもリルフが自身の罰として残したカーペットのシミを見て苛立ったように舌打ちし、踏みしめた。ロイにとって、リルフの覚悟などどうでもいいことだ。


 そのとき、青年の眼前に、ぼうっと炎が灯った。浮かんでいたのは人の骨だ。茶色いベストを着た死人の霊は、ロイの目の前を立ちふさがるようにぼんやりと佇んでいる。


「……よっぽど、想いが強かったのか?」


 ナイフを、骸骨に向ける。間違いない。今まで幾度も呪いを受け、切りつけてきた身だ。ぞっとするような感覚は、さすが一流の呪術師か。しゃれこうべはかくかくと顎を揺らして、ロイに何かを伝えてくる。――これは、アモル・ロレンス。リルフの父の亡霊だ。


「そんなに、娘が大切かい?」


 がくがくと、口を動かし、呪いの塊は笑っていた。ロイは静かに口の端を緩ませる。

 そして、ナイフを突き立てた。かあ、とカラスが笑っている声が聞こえる。



 ***



 その日、リルフの寝室に、一人の人間が忍び込んだ。握られたナイフが、月夜の中で静かに光る。リルフはすでに深い眠りの中だ。食事の中に強力な睡眠剤を忍ばせた。どんな物音がしても彼女が起きることはない。ベッドの中ですやすやと可愛らしい寝息を立てる少女を確認し、ふう、と息を吐き出す。そして、一息にナイフで貫いた。「……!」 その、はずだった。


「ミスキャロル。お嬢様の寝床に侵入するだなんて、マナーがなっちゃいないな」


 男がリルフを抱きしめながら、笑っている。開け放たれた窓はひらひらとレースのカーテンが夜風の中に揺れていた。


「ロイ、あなた……!」

「一応伝えておく。物騒なものをまずはしまえ、眠っているとはいえ、大事なお嬢様の前だ」


 ひっつめ髪の瓶底眼鏡のメイドの目立たない女であるはずの彼女は、苛立たしげに歯噛みし、勢いよくスカートをめくりあげてリボルバーを取り出す。リボルバーにも関わらず、サプレッサーを取り付けている。


「珍しい銃を使うな。同業のことは一応把握しているよ。『消音のキャロル』、毒と銃を使う暗殺者か。アモル・ロレンスを殺したのはお前だな?」

「そういうあんたは『話すカラス』ね。とうとうあんたが来たってわけ。それで? アモルを殺したんだったらどうしたというの? あの男は力をつけすぎたのよ」

「なるほどね、まあ俺とお前はお仲間だ。言いたいことはよくわかるよ。お嬢様も殺すつもりかい?」

「ええ。あんたがちんたらしてるからね。何人も死んでもらったから、呪いは寝ている間には発動しないことは調査済み。確証がなかったからびびってたけど、さっさとこうしてたらよかったわ」


 銃口を突きつけられリルフを片手で抱き上げながら、ロイはもう片方の手をひらめかせる。そうしてキャロルから視線を逃さないように、ベッドに優しくリルフを寝かせて、キャロルに少しずつ近づく。撃ってくれと言わんばかりのあまりにも無防備な体だった。キャロルは彼のことを知っている。黒髪で丸眼鏡の気のいい男というのはただの仮の姿だ。『話すカラス』の異名を持つ黒髪黒目の青年が殺した人間の数にキャロルは足元にも及ばない。


 噂で聞く分でもそうなのだ。おそらく、実際はキャロルの想像以上。あの年若さで、どれだけの地獄を見たのか。


 ――だからこそ、依頼した。


 上からキャロルに渡された依頼は、ロレンス家を取り潰すこと。ロレンス家の呪術の血は濃い。すでにキャロルに依頼したもの達から、不要の烙印を押されている。キャロルはまずはリルフの父を毒殺した。なんせ相手はこの国一番の呪術師だ。長い年月をかけて、信頼を勝ち取り、やっとのことで殺した。そして残る相手はただの小娘。赤子の手をひねるようだと思っていたのに、キャロル以外に彼女を殺そうとしたもの達は、次々に死んでいった。必ず失敗し、キャロルには手が出せなかった。だからこそ彼女はロイに依頼をした。キャロルが知る、最高の暗殺者を呼び出すために。


 しかし今の彼はまるでリルフを守るように立ちふさがっている。

 見かけはただの二十歳前後の青年。そのはずなのに、彼が目の前にいるというだけで、足の震えが止まらない――そんな、わけない。キャロルはすぐさま自身を奮い立たせた。

(いくら、最高の暗殺者と言ったところで、持っているのはナイフ一本! こっちはリボルバーよ……!)


 屋敷にやってきたロイは、噂で聞いていたよりもずっと若い姿で驚いた。もっとおどろおどろしい、恐ろしい男が来るかと思っていたのに。けれどもこんなものだろう。だからこそ、暗殺者なのだ。まさかこんな青年が、と驚くような人間が懐に刃を忍ばせている。


「――邪魔をするなら、あんたも殺すわ!」


 ロイは依頼を放棄した。どうせリルフも、全てを殺すだけだ。向けたリボルバーは、するりと静かに手をのせ、向きを変える。「……え?」 体が浮き上がった。重力が反転する。「あ、え、あ……!!?」「庭はまずいな、やっぱりやめよう」 キャロルは窓から落ちていた。なのに今度はぐん、と上に投げられた。


「お嬢様の大事な庭を汚すわけにはいかないからね」


 なんせ彼女は花がよく似合うのだから、とわけがわからない言葉を聞いた。キャロルはすかさず受け身をとった。屋根の上に瓦を踏みしめ立ち上がる。分厚い瓶底のメガネは投げ捨て、髪をほどいた彼女はゆるくウェーブした髪を月夜の中で揺らしている。メイド服に隠された豊満な体は、幾人もの男達を虜にさせた。アモル・ロレンスにはまったくもって通じなかったため、仕方なく毒を使った。キャロルは自身の体を主張させるようにロイに見せつけたが、キャロルが持っていたはずのリボルバーが青年の手の中に握られていることに気づき、ぞっとする。


 ロイは無造作に手のひらを開いた。その瞬間、リボルバーは解体された形でばらばらと落ちていく。彼女は呆然として、その様を見つめる。


「誰がお嬢様の命を狙う依頼をしたのか。この一ヶ月、色々調べさせてもらってたけど、できればあんたであってほしくはなかったな」


 そうして呟く言葉は、とにかく切なく、沈鬱だ。


「ミスキャロル、あんたのことをお嬢様は姉のように慕っていたからな。悲しむだろうが仕方がない。しかし自分が殺せないからって他の暗殺者に依頼をするなんてね。情けない話すぎて、ちょっと考えが回らなかったな」

「……カラス! あなた、一体なんなの……!? 依頼されたものは赤子でも殺す、それが暗殺者ってものでしょ!? 私がした依頼は、リルフ・ロレンスを殺すこと! どうして守る必要があるの……!?」

「そんなの、俺がお嬢様を愛しているからに決まっている。気持ち悪いくらいの愛が心の中にあふれているんだよ」

「自分で言うところがさらに気持ち悪いわ!」


 キャロルは精一杯の侮蔑の表情のまま吐き捨てたが、ロイはにっこり笑っている。まるで褒め言葉を受け取ったかのようだ。多分、彼は価値観が違う。ひたり、と目が合った。その瞬間、キャロルの全身がまるで逆立つように震え上がった。


 逃げなければ。

 武器はまだある。なのに、心の中がその言葉一色に染まっていく。逃げなければ、なのに、その繰り返しの言葉が止まらない。

 太ももにつけた新たな銃を取り出し、引き金を引く。当たらない。当たらない、当たらない――!


「せめて優しく殺してやるよ」


 影が、ぬるりと近づいた。

 その言葉が、キャロルがこの世で聞いた最後の言葉だ。




 ***



「あら、あなた。とってもぼろぼろ。大丈夫?」


 これは随分昔の、遠い過去のことだ。舌っ足らずな少女が座り込んで動けもしないロイを見上げて声をかける。五つか六つの、綺麗で、可愛らしい女の子だ。腕の中にはいっぱいの花を抱えていて、死にかけているこちらからすれば、まるで遠い景色のようだ。


 腹が減っていたから、考えもわからなくて彼女がどうして自分に声をかけているのかわからない。はくり、はくりと口を動かそうとしたけれど、水ももう、何日も飲んでいない。けれどロイの姿なんて誰も気に留めていない。だって彼は風景の一部だから。「もしかして、お父さんも、お母さんもいないの?」 不躾な言葉だった。けれど、不思議と腹は立たなかったから、できる限りの力でロイは静かに頷いた。


「だったら、そういう子供は孤児院というところに行くんでしょ? ねえ、どうしてあなたは行かないの?」


 けれど、やっぱりお嬢様なのだと思った。街の中にはロイのような子供で溢れている。だから行ったところで門前払いだ。金がなければ保護をしてもらうこともできないから、諦めて、それでも必死で生きてきた。でももう、無理だと自分で悟っていたから、静かに死を受け入れていたのに。


 これが自身の人生で、最後の会話になるのだろうと思ったが、どうやらそうはならなかった。どこから持ってきたのか、従者を侍らせていたらしい少女はまずは水をロイに与えた。そしていくらかの食料を渡したあとに、ロイを運ぶように従者に命じて孤児院の前までやってきた。あら、お金がいるの。じゃあ、どうぞ。そう言って、ロイでは一生拝むこともできないような金を、ぽんと院長に手渡した。こうして、ロイの命は続いた。


 元気になってね、と少女は笑う。お父様の誕生日だから、街でお花を買ったけれど、あなたにも分けてあげる。そう言っていた彼女は、リルフ様、と呼ばれていた。幼い少女は、こうして、一人の少年の命を救った。




 ***





「う、……ひっ、キャロル……、キャロル……」


 リルフはぼろぼろと涙をこぼした。キャロルの死はロイの手で偽装された。運悪く落ちた瓦に頭を潰された哀れなメイドの葬儀は、速やかに行われた。キャロルに家族はいない。本当か、嘘かもわからないが、表ではそうなっているから、参列者はリルフとロイの二人きりだ。


「私の、せいで……あなたまで……」


 こうして、ロイはまた一つリルフを傷つけた。彼女の心にはすでにいくつもの深い傷が刻まれている。けれどもこうするしかなかった。

 優しい解決法など知りはしない。事実を知ればリルフはさらに傷つくだろう。姉のように慕っていた女性が、父を殺したこと。リルフ自身の命も狙っていたこと。言えるわけがない。


 ――


 誰がリルフの命を狙っていたのか、調べても、調べてもすべてが怪しくわからなかった。当たり前だ。全員が狙っていたのだから。

 本棚に潰されて死んだメイドは、リルフに紅茶を入れようとしていた。毒が染み込んだカーペットはロイのよくきく鼻にはひどくすえた匂いだった。ジョウロは奇妙なほどに重たい素材でできていて、簡単に人の命を奪うことができるほどだった。


 キャロルがリルフを襲った夜、ロイの前に現れた亡霊は、リルフの父だ。高名な呪術師だった彼にナイフを突き立てたとき、生前の記憶が流れ込んだ。ロイのナイフは特別製だから、呪いを斬りつけることで呪いの構造を知ることができる。リルフの父は、ミスキャロルにあっさりと殺されたが、呪術師という職につくことで、多くの恨みや災いを身に含むことで自身の命が狙われていることを知っていた。いつしかこうなる日を予見していたのだろう。だから、あえて殺されることで、自分の死で完成する強力な呪いを作り出した。自身が死んでしまったとしても、必ず娘を守るように。


 娘のリルフには、呪いがかかっている。自身を殺そうとしたものに、無意識に相応の罪を与える、因果応報の呪いが。

 アモルは娘だけでも守るために、自身の命すらもつぎ込んだ呪いを完成させたが、彼が想定外だったことは彼の想像以上にリルフの命を狙うものが多かったことだろう。ロレンス家に勤めていた多くのメイドや使用人達はリルフの呪いを恐れて逃げ出したものもいたのだろうが、大半は死んだ。つまり、だ。


(こんなこと、言えるわけない……)


 あまりにも残酷な呪いだ。アモルがリルフに伝えることができなかった理由は想像がつく。

 リルフはキャロルの墓の前で崩れ落ちた。静かな雨が降っている。喪服を身にまとった少女をじっと見つめながら、ロイはただ佇んでいた。


「……あなたも、早く私のもとから去った方がいいわ。もう誰も、死ぬところなんて見たくないの」


 あまりにも小さな背中だった。ロイはひどく胸がしめつけられた。口を噛みしめる。あと一歩、飛び出してしまいそうな言葉を飲み込む。この少女に、知られるわけにはいかない。、一体、誰が言えるだろう。


「お嬢様、俺は死にません」


 だから、伝えるしかない。


「彼らが死んだことに、呪いなんて関係ないと証明してみせますよ。俺はあなたを愛しています。ですから、何があっても、どんなことからもお嬢様を守り通してみせます」


 ロイはリルフの呪いでは死なない。彼女を守ろうとするロイに、因果応報の呪いが降りかかることはない。けれども、そんなことリルフが知るわけがない。振り返った顔は、ただ曖昧に笑っていた。


「……うそつき」


 奇しくも、リルフはロイを称した。それは間違いなく正しい言葉だ。ロイは一生の嘘をつく。


 そっと少女に傘を渡した。ざあざあと、雨は降り注いでいた。



 ***



「あんなおこちゃまの、どこがいいってんだ?」


 かあ、と一羽のカラスが鳴いていた。「どこって、全部だよ」 不思議なことに、部屋の中では二人分の声がする。青年の声と、年若い少年の声だ。『話すカラス』。その異名は、ロイが黒髪で、黒目であると、ただそれだけの理由ではない。


「お前がお嬢様をきちんと見守ってくれていたおかげで、こっちはやりやすかったよ」


 丸眼鏡を外しながら、ロイは静かに伸びをする。もちろん、眼鏡は伊達である。


「めんどくせぇ子守だったぜ。あのキャロルってメイドが食事に薬を入れたときはやっと終わるとほっとしたんだがな」

「本日決行。わかりやすい合図だったな。と、いいつついつもどおり教えてくれたよ、感謝だね」

「無視したときのお前が怖いんだよ、わしは」


『話すカラス』とロイの異名を知っていたキャロルも、まさか本当にその名の通りだったとは思いもしなかっただろう。このカラスは堂々と屋敷に居座り、ときおりキャロルに追いかけられていたロイの貧民街での相棒だが、ロイの保護者役のつもりらしい。


「しかし、組織を裏切ってまであの子の味方になる必要は本当にあるのかい?」

「まだ裏切っていない。調査中と伝えている。なんせまた一人の暗殺者が死んだ。下手に手をうつことができない」

「と、いうことにしている。いうなれば二重スパイだ。情報用のパイプがつながっていた方が何かと便利だからな。でもそのうち、全部ヤッちまうんだろ?」

「必要とあれば」


 幼い頃、無事孤児院に入ったロイだったが、残念なことにもそこはリルフが想像する場所とはまったくもって異なっていた。過酷な環境の中、より才能のあるものを選別し、黒い仕事を請け負わせた。こうして才能を開花させてしまったロイは、十七の年となる今の今まで飼いつながれた犬のごとく、よろしくやってきたわけだ。リルフはロイを二十歳を越えているか、その程度、と考えていたが、実際はそれよりもずっと年若い。落ち着いた彼の雰囲気が、リルフを錯覚させたのだ。


「どんなどす黒い仕事を請け負ったって、今まで我慢の我慢を重ねていたお前がねぇ……」

「別に、我慢なんてしてないさ。特に文句もなかったから粛々と続けていた、ただそれだけだ。でもあの子の暗殺だけはいただけないな」


 愛しい少女がいた。薄汚れた自分が関わるよりも、自分の関係のないところで幸せになってくれるのならそれでいいと願っていた。けれども事態はそうはいかなかったらしい。


「……命を救われたってだけで、あの子を守る理由になるか?」

「むしろ、十分すぎる理由だと思うね」

「そのせいで、お前は血みどろな世界に飛び込んだというのに」

「それはお嬢様のせいじゃない。あの子とは関係のないことだ」


 ああいえば、こういう。カラスは呆れたように、かぁ、と一つ息をついた。なんにしても、報われない。なんせ十年前のこととは言え、リルフはロイのことを何一つ、覚えてなんていないからだ。そのことを静かに呟くと、ロイはきらりと目を光らせた。「そこが、いいんじゃないか!」 まったく、カラスには理解ができない感情である。


「お嬢様は俺のことを覚えていない。つまり、お嬢様にとって、俺の命を救ったことなんてまったくもってどうでもいいんだ。人の命を救ったことをだぞ! きっと俺みたいな存在を今まで星の数ほど救ってきたんだろうな。だから、あの子にとって命を救うことは、どうでもいい、ただの日常の延長線上の行為なんだ!」

「それは果たして、褒めているのか……?」

「当たり前だろ! そんな特殊な人間いるかよ? 自分がどれほど世間知らずで、死ぬほど善良な人間かってことを知らないんだ。金に困ることなく生きてきた純粋培養だからこそだ。たまらないね、俺はあの子のすべてが好きで尊い。俺は嘘つきで、たくさんの嘘をついているけど、彼女にかける言葉のすべては心の底からの言葉だよ」

「その純粋培養ってのに、嫌悪じゃなくて愛に変わっちゃうところがお前のおかしい所以だし、正直わしはきもちわるいよ……」


 端的なカラスの感想を無視して、ごそごそとロイは懐を探る。出てきたものはリルフの暗殺命令が出された際に出された、古いリルフの写真である。今から数年前、いわゆる幼女だ。最近の写真は彼女に近づく暗殺者がことごとく命を落とすために手に入れることができなかった。見た瞬間、たまらないと思わずかっぱらってしまったのだ。「かわいくて死ぬ……」 うっとりと写真を見つめるロイを見て、「きもちわるいの言葉しか無い……」と二度目の感想をカラスは呟く。ロイにとっては褒め言葉だ。彼の愛は、何より重い。


 けれどもすぐにロイは顔を引き締めた。もちろん写真は大切に懐にしまっている。


「送り込んだ暗殺者、全てが死んだ。あいつは、たしかにそう言っていたよな?」

「言ってたな」


 ロイの雇い主の言葉である。キャロルから言質をさそったところ、ロイを雇ったのはキャロルであることは間違いない。それなら、送り込まれた他の暗殺者達は、一体誰に依頼されたというのか。それは、キャロルを雇った人間と同一人物である可能性がある。リルフの父、アモル・ロレンスは、力をつけすぎたから消されたとキャロルは言っていたが、亡霊として残った彼に触れたロイの感想としては、アモルは善良な男だった。ならば彼が殺される原因となったほどの呪術を依頼できる人間と言えば、ロイは数えるほどしか覚えがない。


「なあカラス」

「なんだよ」

「たまには、王族を殺してみるってのもいいかもな」


 かあ! と思わずカラスは羽を広げた。「嘘だよ、冗談だ」そう言いながらも、「俺は殺すことしかできないからね。殺しで解決できるってんならいくらでもしてやるよ」朗らかな笑みの裏側では歪んだ価値観を握っている。


 カラスは少しだけリルフに同情した。彼女の幼い頃の本人にとってはなんてこともない行動が、ひどく重たい愛を生み出している。リルフは死の危機は乗り越えただろうが、さらなる面倒な種を生み出していた。ジョウロを持って、必死に雑草を育てていた彼女だが、別の種を育てる才能はあったらしい。


「……そうだ、お嬢様はとても花が似合うからな。とびきりの花畑を作ってみよう」

「殺しと花畑をいきなり同列に語るんじゃない。そしてそれは結構だが、とりあえず暗殺者の庭師が置いていった鈍器と思しきジョウロをさっさと買い替えたほうがいいんじゃないか?」

「おっしゃる通り」


 そういう言っている間も、窓の外のリルフの姿をロイは絶えず目で追っていた。彼女は自分を殺そうとした鈍器とも気づかずに、今日も必死にジョウロを持ち上げて、えっちらおっちら移動しているから、ロイは微笑ましそうに笑っている。でも正直なところ、カラスとしては別にあまり微笑ましくない。呪いがなければ、リルフはあのジョウロで殴り殺されていたのだろう。


「……俺は、お嬢様のそばに、どんな形でも一生い続けることができれば最高だな。お嬢様にいつの日か夫ができて、子供が生まれても、ご一緒させていただきたい」

「そんなこと許せるのかよ」

「当たり前だ、リルフ様の幸せが俺の幸せだからな」


 きっぱりと言い切るところが恐ろしい。けれどもカラスは知っている。リルフは、たしかにロイを心の拠り所にしている。それは近づくものすべてが死ぬという、閉ざされた世界の中で彼女が生きたからかもしれない。けれどもリルフは自身が認識しないほどに、息を吸うように命を救う女だ。本来、誰もが平等に愛しいのだろう。けれど、リルフはロイに心を許した。


 いつしかロイが、リルフを狙う者たちを殺し尽くし平和な日常を取り戻し、自身に向けられた彼女の心に気づいたとき、このおかしな男は一体どうなってしまうのだろう。想像して、親代わりのカラスは、こりゃまた見ものだ、とまるで高みの見物である。だってカラスなのだから。


 かあ、と声を出して、愛の重い男と、狂ったほどの善良なただの少女、幼い二人の未来を笑ってやるだけだ。


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カラスが殺す(短編) 雨傘ヒョウゴ @amagasa-hyogo

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