夕焼けの部屋
haco
夕焼けの部屋
人が死んでいる。黄昏の明かりの中で、目の前には壊れたマリオネットにも見える何かが生気なく崩れている。倒れているのではない。それはまさにゴミのように崩れているのだ。人形のようだが、内在する生物としての本能がその物体をかつて命のあったものだと主張して止まない。それと平行するように、生命の残り火のようなものも感じられる。誰なのだろう。知り合いのような気もする。夕闇に溶けるその頭部は模糊として曖昧だ。記憶がない。ショックで混乱しているのだろうか。しかし同時に不思議なほど思考はクリアだ。直近の記憶だけがすっぽりと抜け落ちている。
妙な疲労感が全身を支配している。救急車を呼ぶために立ち上がろうと思ったが、指先すらまともに動かせない。床に酒瓶が転がっている。記憶の混濁はこのせいかもしれない。
普段は全く飲まないのだが、果実酒を作るのが好きで、梅酒や林檎酒など、普段からさまざまな酒を保管している。何を思ったかそれが全部空になっている。優に五リットル以上あったはずだ。知らず知らずのうちに飲んでいたのだろうか。いや、そんな記憶はない。この量を飲んだとすれば、急性アルコール中毒にでもなって気絶していた可能性が高い。ツマミでも切ったのか果物ナイフが落ちている。目の前のそれと飲み比べをしたのかもしれない。それならばあれは死んでいるのではなく気絶しているのか。
酒のせいか頭がふらつく。時間感覚がないが、相変わらず西日が照りついているところを見るに、大した時間は過ぎていないように思う。それにしても赤い。夕焼けで部屋全体が赤く染まってしまったようだ。視界がぼんやりと滲んでいる。眠気のためか。指先が冷えていく。錆びたゼンマイ仕掛けの玩具よろしく、ぎちぎちと思考の歯車が鈍っていく。息苦しい。わたしが大きく息を吐くと、俄に目の前のそれが身じろぎをした。
思わず注視して、違和感。それを切り抜くように木枠のような何かが囲んでいる。見覚えがある。知っている。気づいてはいけないと理性が警鐘を鳴らしている。うるさい。頭が割れそうだ。見るな見るなと叫んでいる。黙れ。黙ってくれ。知っているんだ。頼むから。
木枠の中、そいつの周りに蜘蛛の巣が張り巡っている。そいつは赤い部屋の中で正気のない目をこちらに向けている。顔が赤く染まっているが、それは西日のせいではない。酒瓶に混じって煌めく小さな果物ナイフ。それがそいつの首を切り裂いているのだ。そしてその顔は、紛れもなく、誰よりも見知った自分そのものだった。理性が絶望に哭く音が頭の奥でした。
ああ、そうだ。これは紛れもなくわたし自身だ。割れた鏡に映っているために虚像らしく見えるが、見間違うはずもない。気づいた途端に傷口からどくどくと流れ出す血液を認識する。部屋を赤く染めるこれは西日などではなかったのだ。笑いたくなるが、口からはわずかな空気が押し出されただけだった。
別に、それを選ぶ特別な何かがあったわけではない。ただ孤独が長い時間をかけてわたしに擦り寄り侵食し、内臓を喰らい尽くしてしまっただけだ。差し伸ばされたいくつかの手を取ることもできただろう。わたしから手を伸ばすこともできただろう。ただ、一度、そう、一度だけ、それをしたことがあるのだ。孤独はわたしの中から撤退し、温かい何かが空っぽの身体を満たした。美しい経験だった。
その手を振り解いてしまったのはわたしが臆病だったからだ。それ以降その手を頼むことはできず、代わりに戻ってきた冷たい孤独はより深くわたしを凍らせていった。わたしはただその温度差に耐えられなかったのだ。
たっぷりと酒を飲んだ後に刃を首に当てると、存外に温かな液体が溢れて妙に可笑しかった。アルコールが浸透した身体でも痛みはあるのだなと冷静に考えていた。そして酒精のもたらしたわずかな微睡みに身を任せたのだった。
最早不思議と痛みはない。身体の底の部分から、熱いような痺れるような感覚がじくりじくりと滲み出てくる。掠れ薄れる視界の中で、ただその赤が何よりも鮮烈に美しく見えた。達成感にも似た幸福感が柔らかく全身を包み込む。もしもそれがあるのなら、きっとわたしは地獄に堕ちるだろう。それでもやはりこの選択は正しかったのだと、最後に小さく息を吐いた。
夕焼けの部屋 haco @asarimisosoup
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