雨、匂い、人生。

堅乃雪乃

第0話 いつかの雨

――雨で湿った匂いが好きだ。

 すぅーっと、鼻の穴を膨らませて胸いっぱいに溜め込むと、何故だかノスタルジな気分に浸れる。いや、「感傷的」と表現した方が正しいのかも知れない。

 どちらにせよ、俺が雨と手をつないでこの人生を歩んできたことに変わりはない。


 ※


 小学一年生の頃――神様を見つけた。

 は半年に一回、お婆ちゃんお爺ちゃん家に遊びに行っていた。

 それはある日の縁側でのこと。

「ねーねーおばあちゃん!」

「どうしたのさ?」

「見て見て! あの浮かんでる雲さん! すごい大きい!」

 僕は田舎の家の縁側から「それ」を見つけた。勿論、当時の僕は入道雲なんてものは知らない。だから初めてこれを見た時、なにか世界の謎を一つ見つけたような、そんな高揚感に襲われたのだ。

「おー……そうだねぇ。大きい、雲さんだねぇ」

 興奮してジャンプをする僕を横目に、おばあちゃんは微かに眉を顰める。

「……この後、すごい雨が降るよ」

「えっ⁉︎ なんで分かるの?」

 唐突に放たれたその言葉。さも降ることが当たり前かのように、お婆ちゃんはたくさんのシワを顔に浮かべて微笑んだ。

「そういうものなのよ」

「へー……」

「洗濯物、干しっぱなしだから手伝ってくれる?」

「……うん」

「よしよし、偉いねぇー」

 僕はおばあちゃんの温もりのある手を握って、言われるがまま縁側に向かう。

 するとその時。さっきまで雲一つなかった青空から、ポツン、ポツン、ポツポツ、ボツと雨が音を立てて襲ってきたのだ! 

 急いで洗濯物を中に入れながら、この時僕は世界の謎を一つ解き明かした。


「きっとおばあちゃんはこの世の神様だ! だって未来が予知できるんだもん!」


 まあ今となっては可愛い話だ。その種明かしがされるまで、時間はかからなかった。

 ただ――僕にはあの時の確信した高揚と、濡れた縁側の土の匂いがいつまでも脳にこびりついている。


 すう、はあー。

 重たい自然の匂いが体を満たしてく。


 雨が降るたびにはそこに神様を見つけられる。

 、神様だ。


 ※


 中学二年生の頃――初恋をした。

 はその人とたまたま隣の席になった。

「ごめん……教科書忘れちゃったから見せてもらってもいい?」

「え、あ、うん。良いよ」

「ありがとう! 机、そっち動かすね」

 こんな些細な会話から僕は運命と出会う。

 どうやら彼女は忘れっぽい性格のようで毎週何回か、授業で僕に教科書を見せて欲しいとねだってくるようになった。

「ねえねえ、教科書また忘れちゃった」

「おい、これで何回目だ? いい加減学習をしろ、学習を」

「生憎、そこまで便利な脳は持ち併せていなくてねぇー」

「偉そうに言うな」

 いつしか僕たちはこんな軽口を叩ける仲になっていた。

 机をくっつけてる時、雑紙にくだらないことを書きあってクスクスと笑った。たまに先生にバレて一緒に廊下に立たされた。

 テスト前は一緒に教室で勉強だってした。見て分かる通り、僕の方が頭が良いので基本僕が彼女に勉強を教えていた。

 そう。

 こんなにも濃密な時間を過ごしてしまえば、恋というものは芽生えてしまうのだ。

 そして、次第に僕はその心を彼女に隠すことが難しくなっていった。訳もなく胸が苦しくなって、だけが募っていく。

 彼女と話す度に心の何処かで、きゅうって音がした。

 ある日、僕はこの想いを彼女に隠し続けるのが失礼だと思った。もっと僕は純粋な気持ちで彼女と向き合っていたかったから。僕は告白することを決めた。

 その日も雨だった。


「好きです。僕と付き合ってください!」


「……ごめんなさい……本当に」


 今となれば中学生の恋なんて本当の恋じゃない。半分お遊びみたいなようなもん。

 ただ、その恋に悩む純粋な心。

 それだけは大切にしないといけないと心から思う。

 なんで僕はふられたんだ? なんでふった理由を教えてくれなかったの? 所詮は僕だけが舞い上がってただけなの? 

 ねえ!

 ねえ! 

 ねえ……

――僕は明日から、どんな風に君と話したら良いの? 

 ねえ……教えてよ。

 ふられた帰り道。傘もささずに僕はそんなことを考えていた。

 濡れたコンクリートの匂いが鼻をかすめる。冷たい人工物の匂い。所詮はこの気持ちも、人工的なものなだろうか?

 雨の音に、すべてが流されていくのを感じた。


 雨が降るたびには失恋をする。


 ※


 高校三年間。

 この三年間は色々とひどすぎた。

 幼い時に離婚して、女手一つで育ててくれた母親への反抗期。

「今日お弁当いるでしょう? ほら」

「は? いらねーよ! 頼んでねーし!」

「それじゃあこれ、もったいないじゃない……」

「うるせーな。勝手に作ったのがわりーんだよ」

 こんなとげとげしい会話が家の中では日常茶飯事だった。

 友達とも学校でたくさんバカなことをした。授業中に大声出したり、授業そのものをサボったり、ふざけてたら窓割ったり。じゃれあいだったものが喧嘩になって、友達と殴り合いにもなった。

 そんなことをする度にの母親はわざわざ仕事から抜け出してきて学校に謝罪をしに来た。

「またしてもうちの子が迷惑をかけて本当に申し訳ありません……」

 もう何度校長室で頭を下げてもらったか分からない。俺はただ下を向く母親の顔を横目でちらっと伺うだけ。申し訳ないという気持ちは確かにあるものの、やはり素直になれない自分が心の中でしょんぼり体育座りしていた。

 そんなことを繰り返しているわけだから当然、勉強面はボロボロ。

 浪人した。

 でも。そんなどうしようない俺なのに、母親は浪人中も家に置いてくれて、予備校代も払ってくれていた。決して裕福でないはずなのに。もっと自分のことに時間を、お金をかけたいと思っているはずなのに。母親は自分を静かにサポートしてくれた。

 ある日、朝起きると自分の部屋のドアノブに濡れたビニール袋がかかっていた。どうやらお母さんはもう仕事に出たらしい。こんなにも雨が降ってるのに。

 中身を確認すると、いつかの時にボソッと俺が欲しいと呟いた参考書が。しかもたくさん。

「お母さん……」

 結構高いのに……今月だって苦しいって、昨日ボソッと言ってたのに……

 そして手紙も一緒に入っていた。


「欲しいって言ってたでしょ? 私は頭悪いから……これくらいしかあなたの勉強をサポートしてあげられないわ。困ったことあったら相談するのよ? 


「お母さん……ッ」

 情けない、やるせない、みっともない。

 胸が張り裂けそうな、言葉にならない感情が体の内という内からこみ上げてきた。

 そのあふれ出る感情としょっぱい水滴とが、外で激しく降る雨と呼応する。

 それはまるで今の俺の感情、そのものであった。


 雨が降るたびには母親に感謝する。


 ※


 大学生の頃――二度目の恋が咲いた。いや、正確には一度目。

 そう。中学生の時にふられたあの女子と偶然再会してしまったのだ。

 神様というものは何処までもいたずらで、取っている授業もほぼ同じ。当然、話さない訳にもいかない。

「えーとーそのー。久しぶり、だね?」

「あーうん。そうだな」

 最初は何ともぎこちない会話。まあそれが妥当であろう。

 でも、数か月、半年も経てばもうお互いにそんな隔たりは無くなっていつも通りに楽しく話せるようになっていった。

 ある日、ずっと気になっていたことを意を決して尋ねた。

「……あの時、さ。のことをふったのって……」

「あー……あの時はね……まだ私、恋愛とかに本当に興味なくてね? 『好き』っていう気持ちとかも分かんなかったの。別に嫌いだからふったとかじゃないよ! これは本当! 今更だけど、理由、ちゃんと言えなくてごめんね?」

「そう、か」

 どうやらあの日の苦悩は全部空回りだったらしい。ホッとするような、意識過剰になり過ぎてて恥ずかしいような……うぅぅ。

 この日以来、僕たちの距離はこれまで以上に縮まった。お互いの過去を清算し合って、僕たちを隔てるものが無くなったからだろう。

 そして――


「好きです。僕と付き合ってください!」

「……はい。喜んで」


 その返答を聞いた瞬間、本当に報われるような気持ちがした。

 告白した日はまたもや雨だった。

 でも、今日の雨はあの日と違う。

――甘くて酸っぱい匂いが、今日の雨には溶けていた。

 そう、彼女と傘を捨てて、濡れながら抱き合った瞬間

 ふわっと、彼女の濡れた香水の匂いに包まれる。


 雨が降るたびには君に恋を叶えてもらう。


 ※


 そして現在――社会人数年目、ただいま勤務休憩中。

 今日もまた外で雨が降っているのを見つめて、ノスタルジな気分になっている。

 こんなにも楽しかったこと、苦しかったこと、情けなかったことがあるのに、今となってはそれらすべてが「懐かしい」の一言でまとめられる。当時のには分からない、年を経らなければ分からないこの


 別にこうして過去をただ振り返ることで誰かに共感してもらいたいわけではない。

「へー」

 それで相槌は終わるだろう。

 でも、この「へー」の後におそらく抱くであろうモヤッとした感情。

 この気持ちをそっと、大切にしてほしい。


 俺にとって雨は懐かしい過去を思い出として想起させてくれる。

 この先、何回雨が降って、何回こんな風に思い出を振り返ることになるのか。

 雨が降るたびに俺の思い出は増えていく。


 ふと電話が鳴る。

 俺はそれを妙にそわそわしながら、右胸ポケットから取り出す。

 取り出す手の薬指には結婚指輪がぴかり。

 そう。かつて俺のことをふり、大学で再開した彼女は、今では家で俺の帰りをおいしいご飯を作って待ってくれている。

 一度は「さよなら」をした彼女が、今は「おかえり」と言ってくれる。

 俺には守らなくちゃいけない、たった一人の大事な人がいる。

 それを教えてくれるのも雨。雨は俺の人生そのものなのだから。

 急いで電話に出る。


「も、もしもしっ! どうだった⁉」


「……無事、生まれたよ! !」


 たった今、守るものが一つ増えた。

 雨の湿った匂いが、また俺の鼻を掠める。


 ほら、また思い出が一つ増えた。

 

 

 

 



 





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雨、匂い、人生。 堅乃雪乃 @ken-yuki

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