壊れた人形の円舞曲

日比 樹

壊れた人形の円舞曲


 雪のちらつく十二月。クリスマスの装飾が施された店内には数組のカップルが幸せそうにきらびやかなショーウィンドウを覗き込む。


「そういえばオマエ、最近ペット飼い始めたんだよね?」


 俺の問い掛けを受けて、隣で熱心にガラスを見つめていた女——ルナが顔を上げた。まるで俺の存在を忘れていたかのような驚いた表情がなんとも癪に障る。しかしその苛立ちも一瞬で消え去るほどの美貌をルナは備えていた。


 日本人離れした色素の薄い琥珀色の瞳がじっと俺を見据える。くるんとカールした長い睫毛は職人が一本一本埋め込んだように綺麗に隙間なく大きな瞳を縁どるように並ぶ。真っ白な肌、花びらをつけたような小さな唇、鎖骨の辺りで切りそろえられたミルクティーのような淡いブラウンの髪は柔らかく波打ちまるで絵画に描かれたように艶やかだ。


 俺も自分の容姿に自信はある。しかし上には上がいるものだ、と彼女を見るたびに思うのだ。親同士が知り合いだったこともあり、ピアノ教室でも、バレエ教室でも、キッズモデルの仕事でも一緒に過ごすことが多かった。美人は見飽きると言うが、そんなことはないと断言できる。いつも隣にいたルナのことは幼少期から飽きるほど眺めてきたが、今でも見慣れることなんてなくて。いつ見てもため息が出るほど完璧な造形。彼女は本当は人間ではなくて、神の手を持つ職人が作った『限りなく人間に近い人形』なのではないか、なんて。


「……え?」


 俺の問い掛けから数十秒。ルナは何かを考えるようにゆっくりと首を傾けた。ぱちっと一度の瞬き。その些細な仕草でさえ名高い人形師が動かす操り人形のような芸術性を感じてしまうから悔しい。


「え、じゃないでしょ? 艶のある黒い毛並みとオッドアイが綺麗な……俺が電話で何回同じこと聞かされたと思ってんの?」


電話口で嬉しそうに話していたからせっかく話を振ってやったというのに——今はその話をする気分ではないということか。伊達に長く幼馴染をやってきたわけではない。ルナの性格は嫌と言うほど理解している。


「これ、すごく綺麗」


 軽くため息を吐いて、ルナが指さす先に視線を移す。

 磨き上げられたガラスの中に、濃い黄色と紺色の小さな石が光る華奢なデザインのブレスレットが在った。

 確か……付き合ってる女の子のうちの一人がもうすぐ誕生日だったはず。いちから選ぶのも面倒だし適当にアクセサリーでもプレゼントしてみようか。

 そんなことを考えながらじっとブレスレットを見つめていると、ショーケースの向こうから様子を窺っていたらしき販売員が俺に声を掛けてきた。


「プレゼントをお選びですか?」


 言って、隣のルナへと視線を移す。

 俺とルナのことをカップルだと思っているのだとすぐに気付いた。全く、人間観察がなっていない。こういった店には訳ありのカップルも多く訪れる。それを見抜く目もまた、販売員としてのスキルだろうが——目の前の人の良さそうな販売員の笑顔を見る限り、純粋で無邪気で人の悪意何てこれっぽっちも知らないやつの顔だ。

 

 ふと一抹の不安が頭を過り、横目でルナを見遣ると、今だ一心にショーケースを眺めていて、こちらの話は全く耳に入っていないようだった。

 販売員の心が折れて仕事を辞めたくなってしまう前に伝えてやらなければ。微笑んで手の平で軽く制止する。これ以上は何も言うな。忠告のつもりだったのだが、俺の微笑みを肯定と受け取ったらしい販売員は言葉を続けた。


「とてもお綺麗な彼女さんですね」

「チッ……」


 直後、ルナの発した鋭い舌打ちが空気を凍り付かせた。「え?」という表情をして固まる販売員。続けて隣へ視線を移すと、目を閉じて額に手を当てるルナの姿。激情が溢れる数秒前。俺はやれやれと頭を振って販売員へ向き直った。


「すみません、妹なんです。俺と恋人に間違われるのが大嫌いなもので……」

「そ、それは大変失礼いたしました! お二人とも凄くお綺麗でお似合いでしたので……申し訳ございません!」


 販売員は焦った口調でそう言って、今だ俯いているルナに恐る恐る視線を移す。己の失言でこの客が爆発するのではないかと気が気ではないといった様子だ。俺もまた少しの不安を抱えてルナを見る。ルナのこういう態度に慣れているとはいえ、店のど真ん中で変に注目を浴びるのはごめんだ。

 俺と販売員が見守る中、ゆっくりと顔を上げたルナは、花咲くような満面の笑みを浮かべていた。


「これ、お願いします」


 形良い真っ赤な爪が指さすのはあの華奢なブレスレット。先ほどの空気が嘘のようにころりと態度を変えたルナに戸惑いながらも、販売員は慌ててショーケースからブレスレットを取り出してトレーに載せた。


「こ、こちらは最高品質の天然アンバーとラピスラズリを使用しております」

「うん、とても綺麗」


 ルナの柔らかな声色に安心した販売員が、マニュアル通りに語る琥珀の説明を、全く聞いていないルナの代わりにぼんやりと耳に入れる。


「琥珀は病気や悪魔を寄せ付けないお守りとして身に付けられます。また北欧では琥珀を贈ることは『幸せを贈る』とも言われていますので大切な方へのプレゼントに最適です」


 そういえばルナは北欧のクォーターだったか。おじいちゃんはね、蒼い目がとっても綺麗なの、と嬉しそうに教えてくれた幼い日のルナの笑顔をぼんやりと思い出す。

 微笑むルナの横顔は愛らしい天使のようでもあるし、儚い妖精のようでもある。悪魔なんて言葉とは到底無縁なその姿。でもきっと、ルナにこれを贈られる相手は幸せにはなれない。贈る張本人が、悪魔みたいなものなのだから。


「私とずっと一緒」


 ルナはそう言ってうっとりとした目でブレスレットを眺めている。到底意味の分からない言葉に販売員はぎこちない笑みを返し「では包装してきますね」と言ってそそくさと離れていった。——そうだよ、それでいい。世の中、関わってはいけない類の人間もたくさんいるから。


 この美しい入れ物の中には、長い年月をかけて一体どれくらいの薄汚い欲望とか、毒念が溜まっているのだろう。それは樹液のようにじわじわ染み出して長年かけて固まって、まるで琥珀の中に閉じ込められた虫のようにもうどうにも身動き取れなくなっているみたいだ。そうしてぽっかり空いた寂しい自分の隣に、一緒に囚われてくれる物を求めている。華奢なブレスレットの琥珀の隣に並んだ夜空のような濃い瑠璃色の石。星々が煌く蒼い夜空がルナを虜にしているのだろう。

 

 ずっと一緒。ルナはそう言っていたけれど。

 いつかその夜空を燃やし尽くすのはルナ、オマエだよ、と。

 言ってやるのは止めた。ルナが余りにも不憫だったから。



 ▼



 宝石店を出てカフェに入った。向かい合わせに座り、注文をして、そのあとは特に言葉を交わすことなくお互い好きなことをして休憩する。ルナは先ほど購入したブレスレットの入った箱を恍惚とした表情で眺めている。まるでたったいま俺がプレゼントしたような光景だ。これじゃカップルに見えても仕方ないよな、なんて。先ほどの販売員に申し訳なく思いながらも、俺はスマホを適当に操作する。

 トークアプリを開くとA、B、C、D……アルファベットで登録した女の子たちからたくさんのメッセージが届いていた。


「最近 、仕事はどんな感じ?」


 ふいにルナが声を掛けてきて、スマホから目を離して顔を上げる。美しい顔に笑みを湛えて、人差し指でくるくると毛先を弄る。機嫌が良い時のルナの癖だ。


「ルナが俺にそういうこと聞くの珍しいんじゃない」

「そうかな?」

「そうでしょ」

「この間、夜中に電話した時に仕事帰りって言ってたじゃない? 珍しいなと思って。だってミヅキ、頑張るの嫌いでしょ?」

「まあ、それはそうかもしれないけど——っ」


 問いに答えようとした矢先、ふいにルナの細い指先が俺の視界に入って、思わず身を引いた。ほんの一瞬、俺の髪にルナの指が触れた。驚いて目を見開く俺に、ルナは穏やかな表情を向けた。


「ミヅキの髪は細くて柔らかい」

「……オマエさ、自分から質問しといて何なの? 俺の答えはどうでもいいわけ?」

「肌も白くて、青い瞳も綺麗」

「今更言われなくても知ってるけど」


 よく綺麗とか可愛いとかを褒め言葉だと勘違いしている奴がいる。

 だけど、そんなの俺たちにとっては空が青いとか地球は丸いとか人はいずれ死ぬとかそういった物と同じ、今更言うまでもない当たり前のことで。物心ついた頃から何百回何千回と言われてきて、自分が他人よりも優れた容姿をしていることはもう分かっている。「ありがとう」と受け取るのすら面倒だ。それを傲慢だと言う奴はいるけれど。生まれた時から立っている場所も見ている景色も違うのだから、まあ、理解しろと言う方が酷だろう。


「まるでお人形さんみたい」


 当然それはルナも同じで。この会話に全く意味はない。ただの言葉遊びだと分かっているから「ありがとね」とだけ返しておく。ルナは面倒な性格をしているけれど、不思議と空気感は合う。だから今でも付き合いが続いているのだろうなと思う。今回も、ルナの方から連絡を寄越してきて久々に会おうと誘われた。俺がルナを嫌いでないように、ルナも俺のことが嫌いではないのだろう。


「でも、私の好みじゃないかな」

「何それ、うっざ。言っとくけど俺だってオマエなんか好みじゃないから」

「ふふ、だよね。お互いに興味ないもんね」

「当たり前じゃん。俺が興味あるのは優しい女の子だけなの」

「へぇ……今はどのお人形さんを大事にしてるの?」

「オマエには言わない」

「あはは、心配しなくても全然興味ないよ。ミヅキのお人形さんには」


 興味を持たれても困るが、全否定されるとそれはそれで腹が立つ。棘のある言い方に思わず眉を寄せると、ルナは可笑しそうに目を細めて笑った。


 幼い頃、長い撮影の待ち時間にはよく二人でお人形遊びをした。大人に囲まれていることが常だった俺とルナは端から見れば大人びた子供だったと思う。けれど実際は、甘いお菓子が大好きで、外で泥だらけになって日が暮れるまで走り回りたい、年相応の好奇心を持った子供だった。整った外見が邪魔をして、大人達はそれに気づくことが出来なかった。それが余計にルナの心を歪めた。あれからもう何年も経って見た目は立派な大人になったけれど、心はずっと変わらない、お人形を抱えて立ち止まったままだ。


「やっぱり、ミヅキなんか変わったね」


 ショートケーキの上、真っ赤に熟れた大きな苺を口へ運びながらルナが言う。


「別にそんなことないと思うけど?」

「ううん、絶対変わったよ。モデルなんて暇つぶしだって言ってたのに、なんか最近は楽しそうにしてるじゃない」

「……楽しそうに見えるんならそれは俺の作り笑いが更に上達したってことなんじゃないの」

「ふぅん」


 ルナは興味なさげに相槌をうってフォークを手に取ると、生クリームたっぷりのスポンジを大きく切り取った。


「……そういうオマエは全然変わらないよね」


 ルナは手元のカップに目を落とす。俺も同じように視線を下げると、ブラックコーヒーの表面は星の無い夜の真っ暗闇のようで、不安定に揺れていた。そこに映っているであろう今の自分の表情を、ルナはどう思っているのだろう。


「オマエは昔と何にも変わらない。綺麗で従順なお人形さんのままだよ」


 少し俯いたままのルナの顔に、長い睫毛が影を落とす。コーヒーを一口飲んで、相変わらず一分の乱れもない優雅なモーションでカップを置くと真っ赤な口紅をすっと親指で拭き取って。そうして燃えるような瞳で俺を睨めつけた。


「ミヅキ、それ以上くだらないこと言ったら……」


 染み一つ見当たらない白陶器のような頬がゆっくりと動き、口元に笑みを作る。薔薇の花びらのように真っ赤で小さな唇が音を出さずに言葉を紡いだ。「こ ろ す よ」と。


 ——ああ、こいつは本当に。あの頃から何にも変わっていない。作り物のような容姿の中身にはぐちゃぐちゃに腐った感情が詰め込まれていて、ふとした瞬間に歪な笑みとなって外側に零れてくる。とっくの昔に壊れているのに、垂らされた絡繰の糸を断ち切れず、今も狂ったように踊り続けていて——いいや、絡まった糸から逃れようと藻掻くうちに、自分が何をしているのかさえ忘れてしまったのかもしれない。


「……分かってるよ、オマエのことは」


 その糸に一緒に囚われてくれる相手を、無意識のうちにずっと探していたんだろう。お人形を愛でる気持ちは俺にも分かる。でも越えてはならない一線はあるだろう。ルナがペットだというがただのお人形じゃなくなった時、取返しのつかないことになるのはルナのほうだ。

 いつかのあの日、お気に入りのお人形の顔に小さな小さな汚れを見つけたルナは、発狂したみたいに泣き喚いて、赤々と燃える暖炉の火の中にそれを放り込んだ。ぱちぱちと音を立てる暖炉を見つめるルナの横顔。俺はあの時初めて、美しいものを怖いと思った。


「ここのケーキ美味しいね」


 体重管理のために、毎年誕生日ケーキを食べたあとは吐くところまでがセットだよ、と。だからどんなに華やかに飾り立てられたケーキでも全て吐瀉物に見える、と。そう言っていたのはルナだったじゃないか。


 オマエはこれからどうしたい? この先どこへ行きたい? 壊れてしまったずたぼろの足で、あとどのくらい踊り続けるつもりなの? とっくに糸は切れているのに、操る人はいないのに、もう自由に好きなところへ行けるのに、どうしてまだそんなところにいるの。落ちた地面に這いつくばって、どうしてまだ藻掻いてるの。

 纏わりついた細い細い絡繰りの糸。その糸はいずれルナの首を絞める。鋭く食い込んで、白くか細い首がぽろりと取れる時、ルナは自分自身もあの真っ赤に燃える炎の中に投げ捨てるのだろうか。


「オマエのことは別に好きでも嫌いでもないけど……」


 この先を言うべきか否か。考えるより先に口が勝手に動いた。そうか、自分はルナを止めたいのか。その時初めて気が付いた。真っすぐにルナを見詰める。ルナもまた、目を逸らさずに俺の視線を受け入れた。


「でも、それなりに大切だとは思ってる、だからもし——」


 あ、と思ったときにはもう、細くて白いルナの手がすぐ目の前にあって。今度は避けることができなかった。ルナの人差し指が、そっと羽根のような軽さで俺の唇に触れた。


水月みづき


 今まで生きてきた中で、これ程までに綺麗に名前を呼ばれたことがあっただろうか。自分の名前はこんなにも美しく特別なものだっただろうか。

 天使の奏でる音楽のように、柔らかく紡がれた俺の名前。それがルナの精一杯の優しさであり、忠告であることは、ルナの目を見れば分かった。分かるから、俺にはもう、それ以上何も言うことができなかった。


 本当は誰よりも純粋で穢れない——だけど、今はもう壊れてしまったルナの行く先が、どうか少しでもマシなものであるように、と。心の底からそう祈った。

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