26.この国の王の証

「王都を出るのは初めてですか?」

 問われて振り向くと、ミューニック伯爵がいた。

 素直に頷く。

「まったく違うんだな」

 建物の屋根の形も、道の並びも。街の端が城壁に囲われていることも。その向こうに収穫の終わった田園が続いていることも。

 王宮の窓から見える景色と違う。


 ミューニック伯爵の居城、北の地の中心たる街の高台に築かれた城の露台バルコニーの手すりを掴んで。

 フィリベールはもう一度広がる土地に目を向ける。

 あいにくの空だ。分厚い雲に覆われて、太陽は見えない。


「折角なら、こういう事態じゃない時に見たかったな」

「こういう事態だからこそ、来られたのでしょう」


 城壁の向こうで翻る軍旗を指さして、二人は嘆息した。



 王都から駆けること10日。

 最低限の供回りしか付けなかったクレマン4世王は真っ直ぐに北の地方へとやってきた。

 ミューニック伯爵は、おざなりな先触れしかなかったのに一行の泊まる場所を用意して待っていた。さすが、と舌を巻いた。


 ひたすら馬で駆けたというのは簡単だが、その時間も距離もフィリベールにとっては初めての経験だった。

 正直に言えば今、体中が痛い。

 走るきっかけを作った王自身もぐったりと寝込んでしまった。

 その一方で、サロモンとアニエスはけろりとしている。


 衛兵でもなんでもないくせに、と腹が立たなかったとか不思議に思わなかったかと言えば、嘘だ。だが、それに突っかかっていっている場合でも、弱音を吐いている場合でないことも分かっている。



 ミューニック伯爵も容赦ない。

「さっさと動くことを提案します」

 言われ、フィリベールは軋む背を伸ばして、顔を向けた。


「麾下の将兵とハルシュタットの軍、今はうっかり行き会ってしまった小隊が小競り合いを繰り返している状況です。いつ大隊同士の戦闘となるかは読めません。その上で、敵中心部隊へ使者は送っています」

「……使者はちゃんと帰ってきているか?」

「今のところは。顔色は良くありませんがね」

「死んでも仕方が無い任務だものな」

「戦闘で死ぬのとどちらがマシか、悩ましいですね」


 遠くに銃声を聞いた気がした。城壁の向こうの煙は黒い。

 近くないはずの煙が目に染みて。

「終わらせないと」

 呟く。

 ええ、と伯爵も頷く。

「さっさと山の向こうにお引き取りいただかないといけませんな」


 停戦だ、と胸元の服を掴んだ。

 乾いた北風が、一刻も早くそれを成せ、と急かしてくる。



 失礼します、と扉を開く。

 北向きの窓の部屋には、急拵えの天蓋が付いた寝台。クレマン4世王がいる。


「お加減は?」

「昨日より良い」


 笑い、手招かれる。

 踏み込むと、甘い匂いが鼻をくすぐった。嗅ぎ慣れた匂いに、瞬く。


「父上、何か香を焚いていますか?」

「そうだな」


 寝台の上で体を起こし、王は視線を巡らせる。

 部屋の端にはサロモン。彼は首を傾げた。


「香はないですけど?」

「おまえが用意してくれた薬はなかなか香りが強いからな。それではないか?」

「ああ、その匂いかぁ」


 サロモンは、むう、と頬を膨らませた。


「薬なんか」

 使っていたのか、とフィリベールが睨んでも、サロモンは涼しい顔だ。

 王はからりと笑って、フィリベールに向き直ってきた。


「遠い地でいつもどおり過ごせるように気を遣ってもらうのはありがたいが、やってきた目的に取りかからないとな。王が養生する意味があるのは国が落ち着いていてこそだ」


 細められた目に、背筋を伸ばす。フィリベールが何を口にするまでもなく。

「撤退まで要求したいところだ」

 言って、王は傍らの机から紙を取り上げた。見せられれば、それは手紙だ。見慣れないサインがされている。


「これが誰かは知っているか?」

 フィリベールが首を横に振ると、王はそのまま視線を部屋の隅に動かした。

 変わらず隅に控えていたサロモンも肩を竦め、近寄ってきた。ひょこりと、王とフィリベールの手元を覗き込む。


「すみません、サインは勿論、本文もちゃんと読めないんですが」

「ベルテールの綴りでは無いな。ハルシュタットの綴りで書かれている」

「あー、だから読めない」


 うげ、とサロモンは口を歪める。

現地ベルテールに合わせる気はないってことですか。横暴だ!」

「そういうものだろう」


 クレマン王はまだカラリと笑っている。そして、乾いた指先で書面のサインを示した。


北の国ハルシュタットのマイランド公だ。此度の全権を委ねられた将軍は彼」

「これから交渉すべき相手、ということですか」


 サロモンはほほぅと顎をする。王は笑い。


「ちなみに、撤退の要件は会って話す、とある」

「……父上、読めるのですか?」

「自分では無理だ。読める人間をミューニック伯爵に連れてきてもらった」


 頷いて、さらに笑みが深くなる。


「おまえもそういう味方を増やせ」

 瞬く。また『味方』だ。


 味方を増やせ、とずっと言っていたのはアニエスだ。

 他でもない彼女も、今は味方だ、と信じている。フィリベールにしか告げられていないだろう名前が証だ。


 つい黙ってしまってしまう。


「王は一人だが、その王を支える存在があってこそ、王冠を被っていられる」

 なあ、と笑われる。まだ喉の奥から言葉は出てこない。

 だからか。


「さて。出かける用意は任せた、サロモン」


 それだけ言うと、クレマン王は手を振る。離れろという合図。頭を下げて寝台から離れると、驚くほど速やかにクレマン王は眠ってしまった。


「父上は、やっぱりお加減が良くないのか?」

「俺は医者じゃないですからねえ、詳しいことは分かりません」


 首を傾げて。

「さあて、王冠が次はどこに行くんだろうなぁ」

 呑気な鼻歌を響かせながら、サロモンは部屋を出て行った。

 残されたのは、眠るクレマン王と、ぽつりと佇むフィリベール。


「次は、なんて」

 王太子は自分だ、と言いかけて黙る。

 そんな自信はどこに潜んでいたのだろう、とひそやかに驚く。


 もしかしたら、ミュラン宰相やイリュリアの手が強引にジスランを立てることだって有り得るのだ。

 そもそも、ハルシュタットのエドゥアルド王に奪われるかもしれないという瀬戸際だ。


 寝台で眠るクレマン4世を見遣って、ふと、この国の王の証はなんだろうと思った。


 痩せこけた腕。干からびた手で輝く指輪。

 赤い宝石ルビーが輝くヴァロワ家の至宝だ。初代、建国の王からずっと伝わってきたと聞いている。


 その話を思い出しながら、フィリベールは自分の上着をきつく掴んだ。

 なぜなら、懐の奥に持ちっぱなしになっていたものがあるからだ。


 ジョスが作った偽物。


 仕舞いっぱなしだったそれを取り出す。掌の上で、ひんやりと輝くそれに、唾を呑み込む。


 足音を殺して、寝台に近寄った。そして、横たわる人の手を取る。規則正しい寝息が続くのを聞く。

 フィリベールの心臓は宍を突き破って飛び出してきそうなほど暴れている。

 唇を噛み、息を詰めて、握った手から元の指輪を抜いて。偽物を嵌めた。


 僅かに重たい本物をまた懐に突っ込んで、フィリベールは立ち上がる。

 視線の先で、赤い宝石は遜色なく輝いている。

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