25. 悪意しか感じないじゃないか
窓からは朝の光。部屋の奥深くまで差し込んだにしては淡い光。
もう秋なのだ。日が強いわけが無いけれど、手をかざせばそれなりに温まる。
「もう起きないと駄目なのか」
掛布に包まったまま、フィリベールは言った。
その丸まりをゆるり撫でてアニエスは笑う。
「子供のようですよ」
「仕方ないだろう」
眠いから、ではない。ただ厭なのだ。
それを分かっているから、仕方ないですね、と返してもう一度撫でた。
もぞりと音を立てただけで、フィリベールは丸まっている。
さすがにアニエスまで寝間着姿なのは
天蓋を支える柱の陰で手早く着替えて、白いそれは丸めて棚の中に隠す。
そこまでやっても、王太子は起き出さない。
「父上様がお目覚めになって、気が緩みましたか?」
「違う」
憮然とした声。続いて、掛布からのそりと不機嫌な顔が覗いた。
「気味が悪い」
蒼い瞳は先ほどまで眠りの中にいたとは思えないほどはっきりしている。
「急に起きたんだ。医師たちは諦めていた中なのに」
伸ばされた手の先を握る。指先はかさついて、冷たい。
「父上に何が起こっているんだと思う?」
「ただの病気では無いと疑っているのですか?」
「今更だけど」
フィリベールは唇の端を引き攣らせた。
「悪意しか感じないじゃないか」
寝台の中と外で攻防すること数十分。笑顔で宥めて、王太子を部屋から送り出す。
クレマン四世王が数ヶ月ぶりに意識を取り戻したからといって、急に政のあれこれが彼の元に戻されるわけではない。王太子が執務に駆り出されるのはしばらく続くだろう。
特に、今は火急の事態にあるのだから。
迎え撃つと言って、国王直轄の部隊が旅立っていったのが10日前。戦況は一進一退の攻防が続いているらしい。
ハルシュタットはどれだけの勢力をそこにつぎ込んできたのだろう。
アニエスに直接伝わってくる話はない。
本当に何も伝えられてこない。
鳩が飛んで来ないだけでなく、完全に忘れ去られているかのようだ。
――切り捨てられた、ともいうわね。
空になった花瓶に促されてやってきた庭園。中をぐるりと巡って、溜め息を吐き出す。
両手に抱える花もない。
何も無い。
視線を下げれば、この身を包んでいるのがフィリベールを擁立したい伯爵に送り付けられたドレスだと見える。
残るのは体一つと思ったが、その体だって、此処に来る前にずいぶんと磨り減らしてきたのではなかったか。
「惨めなものね」
――こんな生き方をして、幸せ?
ふと、脳裏に言葉が響いた。
友と呼ぶには稀薄な、かといって仲間というには近すぎた関係だった、同じく北の間諜だった娘の言葉だ。
忘れていた。
彼女がとうに亡くなっていることも、今思い出した。
舌を打って、身を翻す。
結局、今は王宮にいる以外のことが思いつかない。
「ああ、いたいた」
庭園から建物に戻る階段に足を掛けたところで声を掛けられた。
サロモンだ。
二階の窓枠から身を乗り出して、見下ろしてきている。
「今度は何の御用?」
「探していたんだよ。俺がじゃない、陛下が、だ」
目を剥く。ニィっとサロモンは口を緩めた。
「陛下だよ陛下。クレマン4世王。この国で一番偉い人さ。宰相閣下より王太子殿下よりも」
「それは分かっているわ」
眉を寄せて、見上げる。
「だから従え、というのも分かるわ」
「話が早くて助かるよ。陛下のお部屋に案内するから、早く来てくれ」
春の終わり以来だ。あの時もう既に国王は体調を崩していた。
扉を開けた瞬間、鼻が匂いを捉える。部屋の中に向けて腰を折って、密かに鼻をひくつかせた。
ラベンダーの香りは窓際の花瓶から。夏の内に乾かされていたのだろう花束は、大人が両腕で抱える程の量だ。カーテンが揺れるたびに、穏やかな香りが部屋を流れていく。
そして、それでも誤魔化しきれない甘い匂いが漂っている。
どこかで嗅いだ気がする。独特な、甘い、香り。
――眠り薬だったかしら。
思考がそこに辿り着いたところで、入れ、と呼ばれた。
広い一室だ。
扉に近い場所に、ソファとローテーブル。その奥に執務用に持ち込まれたのだろう、大仰な机。
それに向き合うように国王は座っていた。
王の後ろにフィリベールが立っている。そっと顔を背けられたが、立ち去る気配はない。呼び出されているのは分かっているのだろう。
一つ息を吸ってから、踏み出す。
「ああ、わざわざ膝をつくことも腰を折ることもない」
椅子にかけたまま、机を挟んだまま、国王はアニエスの顔を見上げてきた。
アニエスも見つめ返す。
皺の多い顔だ。血の気もやや引いている。それでも瞳は輝く。
青い瞳は、フィリベール、ジスランと同じだ。父親譲りだったのか、とアニエスは黙って覗き込まれていた。
これは値踏みされている時の目だ。
「今、フィリベールと話していたのだがね」
国王は笑った。黙って顔を伏せると、言葉が続く。
「私も前線に行こうと思う」
脈絡なく、値踏みされていただろうこととも関係ない。さらに言えば、そんなことを一介の女官に伝えていいのかというような内容が聞こえた気がする。
つい、息を詰めて。ゆるりと顔を上げた。
蒼い瞳が見える。
「戦うためではないよ」
穏やかな表情が見える。
「ハルシュタットのエドゥアルト王は北の都に留まっているという話だが、どうだろうね? 長年の
「あの、陛下」
口を挟んだのはサロモンだ。
やや蒼い。彼でさえも蒼い。
「本気ですか?」
「勿論。おまえも付いてくるんだよ」
「え、えええ…… あ、ああ、はい。お供します」
「フィリベールも来るんだ」
国王が言うと、王太子もゆっくりと首を縦に振った。
それから視線が動く。まっすぐに、アニエスへと。
無言の訴え。
それに、行きます、と唇の動きだけで伝える。
フィリベールはくしゃりと笑った。
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