23. 沈黙を返しておくよ
誰も彼もが、平静を保っているようで、浮き足立っていた。
皿を引っ繰り返したり、書類を風で飛ばしてしまったり、果てには鋏やナイフといった小さな刃物で怪我をつくる。
女官も文官も衛兵も、政に関わる貴族たちも、誰も彼もそんな有様だ。
すっかり表に出てこなくなった国王の代わりに物事の渦の真ん中に放り込まれたフィリベールは、顔色が悪い。
「今日も落ち着かないんだろうな」
日が昇って、寝台の囲いの外にいるというのに、フィリベールはしがみついてきた。
この三日、毎朝こうだ。細い腕で目一杯、アニエスの体を締め上げるのだ。
小さく息を吐いて、相手の体にも腕を回し、とんとんと背中を叩く。
掛ける言葉は思いつかない。
カラカラに乾かしたラベンダーの束が飾られた部屋の中。
たっぷり十秒、アニエスの肩口に顔を埋めてから。
「……行ってくる」
フィリベールは背筋を伸ばして、歩いて行った。
顔色と姿勢がちぐはぐだ、と思う。本音がどちらかは問うまでもないが。
王族としての誇りが、彼をそう動かすのだろう。
――私はどう動いたものかしら。
冬を前にしてハルシュタットが侵攻してくる。
雪で道を塞がれて帰れなくなるかもしれない危険を冒してでも打って出てきたのは、何故なのだろう。
ハルシュタットの中で悪い事が起こったからではないだろう。悪いことが起こったのなら、侵攻に踏み切る余裕など無いはずだ。
だから、突然の進軍はベルテールの中の事情によるところが大きいのだろう。
このまま宰相が力を握り続けて、イリュリアとの関係を深めることを危惧したのか。それとも、北の地方に勢力を持つミューニック伯爵が盛り返すことで、何かが起こると考えたのか。
もう一つ気になるのが、このまま軍が進んだとして、何処まで進んでくるかということ。この王宮までやってくるのだろうか。その時、この瀟洒な王宮は火に包まれたりもするのだろうか。
我らが真実の王――エドゥアルト王の考えることは、アニエスには分からない。
何も伝わってこない。
鉛の塊を呑み込んだかのような心地で歩く。
やってきた先は、王宮の庭園だ。
花が散り、葉が落ちた木々が並ぶようでは庭師たちも精が出ないのだろう。もっとも今は、それ以上に荒っぽい雰囲気だ。
枝は揃えられているが、長さがバラバラ。次の春に向けて球根が植えられているだろう花壇の土もデコボコ。
落ち着かない。
此処には来ていなかった。サロモンが伝書鳩を潰してしまったあの日から。
それはまずかったかもしれない、と今更のように思う。他の手段で手紙は届くことはないのに、確認を怠っていたということだから。それでは伝わってくるものも伝わってこない。
ぐるりと空を見渡しても、今、鳩は飛んでいない。
溜め息を吐き出す。
王が何を考えているのだろう。北に戻ったセドリックは何を報告したのだろう。
知りたくても手紙は無い。
人伝にでもと思っても、誰が同じ北からの間諜なのか知らない。知っているのはセドリックだけ。アニエスには誰に合い言葉を投げれば良いのか判断できない。
独りでいるのは慣れているはずなのに、ひどく不安だ。
――死なせるな、はいつまで続く命令なのかしら。
命令の終わりが来た時、自分はフィリベールを切り捨てられるのだろうか。切り捨てるのが、我らが真実の王に仕える者として正しい姿だとしても。
――困ったものね。
もう一つ鉛玉を呑み込んだようだ、と嗤う。
髪を掻き上げて、体の向きを変えて。アニエスは目を細めた。
庭園の小径を歩いてくる男が見えて、またか、と舌を打つ。
相手は朗らかに右手を挙げた。
「君はどうして此処にいるの?」
サロモンは出し抜けに言った。
相変わらず、衣装の丈は彼の長い腕と脚に合っていない。小さな皺も多い。
だが動きは至極滑らか。彼は風で冷やされた銀の髪を掻き上げて、紫色の瞳で真っ直ぐにアニエスを貫いてきた。
「フィリベール様のお部屋に飾る花を取りに、しょっちゅう庭園に来ていることは知ってるけど。生憎、季節柄でも、庭園はすっかり寂しくなっちゃったんだよねえ。花も何も無いのに、君はどうして此処にいるの?」
ぬるりと首を傾げて彼は言葉を継ぐ。
「フィリベール様のために大事なこと?」
だから、そうね、と口の端を持ち上げて。アニエスは周囲を見回した。
木々の向こうには、瀟洒な王宮が見える。高い尖塔、横に伸びる広間のある建屋、そして三階建の王族の住居。あれが火に包まれるようなことはあるのだろうか。
そこからの道を思い返しながら、口を開く。
「抜け道を探しているのよ」
サロモンは一瞬だけ目を見張り、それから腹を抱えて笑い出した。
「抜け道! それは王宮から外に出る秘密の通路ってことだよね!?」
あっはっは、と声が響く。アニエスは嘆息した。
「名案だと思ったのだけど」
「そりゃあね、あったら大発見だけどさ。君が探すまでもないよ」
目の端を擦りながら、サロモンは言った。
「そういう秘密の通路ってのはさ、王宮の主人の王様こそ知っている。王冠とともに受け継がれてきている秘密だと思わないかい?」
ヒーヒーと肩を震わせる相手に、アニエスはもう一度息を吐いた。
「だって、知りたいと思わない?」
「いや、あるなら俺も見てみたいけどさ」
「じゃあ、王宮の中からではなく、抜け出せるだろう場所から探しましょうか」
「王宮から逃げるしたら、か。何処に出ると思う?」
「ダニューヴ河」
「河に逃げるか…… たしかに、移動はしやすいかな」
頷いたサロモンに、アニエスは微笑みかけた。
「抜け道を知っていて損はないわ。万が一の時は逃げるなきゃいけないんだから」
「いや、うん、そうなんだけどさ」
すっとサロモンは声を冷ました。
「今、この時に探してるなんて。ハルシュタットが王宮まで進軍してくるって考えているってことかなぁ?」
咄嗟に唇を噛む。
否定できなかった。
さっきまで本気で、この王宮が火に包まれるだろうことを想像していたのだから。
そうなったら誰だって逃げるだろう。アニエスも、フィリベールも?
「沈黙は肯定っと」
「待ちなさいよ」
ガサ、と枯れ葉が飛んでいくのを待った後、視線を向け直す。
「まあ、危機管理は大事だよ。でも俺は疑い深いからさ」
つまりね、とサロモンは唇を薄く開いた。
「何かあったら、君はハルシュタットに従わなきゃいけない人なのかなって考えたわけだ。だって、愛は王冠より冷たいんだから」
きつく睨んでも、サロモンはニヤニヤするだけだ。
「君、間諜に向いてないね」
そこでやっと、詰めていた息を吐いた。
「そうと言ってない」
「沈黙は肯定」
「じゃあ否定するわ。それにあなたに言われたくない」
「なんでさ」
「下心無く国王陛下仕えているわけじゃないんでしょう。少なくとも、宰相閣下の思惑は知っている」
「言うなぁ」
サロモンは頭を掻いた。だが、表情は愉しそうだ。
「その発言には沈黙を返しておくよ。ここで騒いでも、俺に
言い放って、来た時と同じ小径を去って行く。
アニエスはその背中をただ睨んだ。
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