22. これが壊れる時ってどんな時だ?
本人たちがどう思おうと、ジスランとイザベル王女の婚約は進められる。
夏の盛りが過ぎると、イリュリアの公爵は意気揚々と南へ引き上げていった。
ミュラン宰相とジェラルディーヌ王妃は先へ先へ話を進めたくて躍起になっているが、当のジスランは物憂げな顔で庭園にいることが多くなった。
早くも秋。
ライラックもダリアも薔薇も散り、小菊だけが風に揺らされている
「ここから見える景色も変わりましたね」
窓際に小菊の花束を飾りながら、アニエスが言う。フィリベールは、うん、と視線を向けた。
其処に確かにアニエスが立っている。よく見える。
夜の庭園で彼女と遭遇したのは春の終わりだったから、季節が一つ過ぎ去るくらいの時間が経ってしまった。
それは然程長い時間ではないはずなのに、彼女がこの部屋にいるのが当然に思えてしまっている。
だけれども。
見えてしまう全てが、誰かの熱を感じながら夜を越すことを覚えてしまった体に、毒だ。
そう思うのに、目を逸らせない。
一つに緩く結ばれた、長い髪。伸ばされた背筋。
その身を包むのは形こそ古めかしいものの、流行の紫色をしたドレス。
「そのドレス」
呟くと、アニエスが振り返る。
「新しいな」
ぎゅっと睨んだのに、彼女は笑い出した。
「よくお気づきになりましたね」
「……莫迦にしているのか」
「逆ですわ。女性は気づいてもらえるのを喜ぶものですから。殿下も女のあしらいを覚えられたのですね」
「やっぱり莫迦にしてるだろう」
コロコロと声が響く中、はぁ、と息を吐く。
「おまえ、新しいドレスなんか持っていたのか? いつも古い服ばかり着ているじゃないか。……違う。舞踏会の時に宰相からだと言っていたドレスは新しかったな」
「よく覚えておいでですね」
笑いを止めて、アニエスは体をまっすぐに向けてきた。
「ミュラン宰相にも狙いがあって寄越してきたのです」
「そうだろうな…… そのドレスも宰相の企みか」
「いいえ」
首を横に振って。
「これはミューニック伯爵のご指示です」
アニエスはわずかに眉を寄せた。
フィリベールは目を丸くする。
「伯爵が? なんで?」
「王太子の恋人が見窄らしい格好をするな、ということで」
ふっと表情を緩めて、彼女は続けた。
「ミューニック伯爵は見た目を気にされる方なのでしょうか。それとも」
「それとも、何だよ」
「やっぱり狙いがあるのでしょうね――殿下を巡る狙いが。ずいぶんと状況が変わりましたね」
また笑われて、今度はフィリベールが眉を寄せた。
変わったのは、周囲だ。フィリベールの周りに人が寄ってくるようになった。ミューニック伯爵だってその中の一人だ。ミュラン宰相は逆に顔を見なく鳴った気がする。
彼女が纏うドレスを変えたことを周りはどう思うのだろうか。
「これで益々、殿下が私にぞっこんだと言う話が真実味を帯びてしまいますね」
アニエスがずばり言い当てる。
「もう遅い……」
フィリベールは片手で顔を覆った。
毎晩毎晩呼びつけている。擦れたところ褪せた部分のないドレスを着る彼女自身は、最初からずっと変わらないように見えるのだが、人恋しさを感じてそれに素直に動く自分は、変わったとしか言い様がない。
これではジスランを笑えない。
――そういえば、ジスランも大分変わったな。
父の名代としての仕事をしているのは、相変わらずフィリベールだけだ。ジスランは、取り巻きを引き連れて過ごしているだけであること、婚約について首を横に振り続けていることに変わらない。
ただ、その理由が変わった。
彼が恋してしまったと言っていることだ。
――本当に笑えない。
結局両手で顔を覆い、椅子に深く腰掛けた。
ちらり、指の間から覗いて呼ぶ。
「アマーリエ」
きょとんとされて、呻く。
「呼びにくいな」
「ベルテールの言葉ではございませんからね」
クスクスとアニエスが笑う。
何気なく言ったはずのそれで心臓が跳ねた。
『アニエス・カロン』が本名でないのは分かっている。東の出身でないだろう、もっと言えば北の方の出身だろうことも推測している。
だけど、彼女自身の口からそう言われるのは、心臓に悪い。
調べると宣言したミューニック伯爵はあれから何も言ってこない。だが、ドレスを寄越したぐらいだ。アニエスに全く近づいていないわけではない。本当に何も分かっていないのか、知らせてこないだけなのか。
だから、ここでもう一歩踏み出して、フィリベール自身で訊ねるべきなのだろう。
だけど。
「アマーリエ」
もう一度、小声で呼びかけて、立ち上がる。
壁際の棚から画板と鉛筆を手にしたことで、察してくれたらしい。
「飽きませんね」
「うるさい」
艶やかな唇を綻ばせて、彼女は窓の傍にまっすぐ立った。
やっぱり、彼女自身は変わらない。笑うところも、フィリベールの言わんとすることを察してくれるところも。
変わったのは、フィリベールだ。
鉛筆の線が緩む。
穏やかな時間だ。周囲も落ち着いている。
この状況が続けば良い、と鉛筆を走らせる。
――これが壊れる時ってどんな時だ?
ふと過った疑問にまた心臓が跳ねた。
そのまま秋が深くなる。
国中から、麦が、果物が収穫されているという報せが届く。
その中に、北からの軍靴の音が混じった。
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