21. 俺の幸せがあれば他は構わないんだ
夜ぐっすりと眠れるのが心地よい。そうしたら、日の高い内もどこか落ち着いて過ごせるようになった気がする。
たった十日の話、太陽が届ける熱が一年で一番多い時期を迎えるまでの間で変われた。
「良いことがありましたか?」
サロモンがニヤニヤと顔を覗き込んでくる。
フィリベールは相手の頭を左手で押しのけた。
「あれ、邪魔ですか?」
「書類が読めない」
「そこまで顔を突っ込んでないですってば。書類を読む邪魔はこうやってやるんですよ」
顔と髪の間でひらひらと手を揺らされて、その手もはたき落とした。
「いい加減にしろ」
言うと、サロモンはまっすぐに体を起こして、首を竦めた。
「あ~怖い怖い、はっきり言うようになりましたね。あ、じゃあついでに、はっきり答えてくださいよ。例の女官ちゃんとはどこまでいったんですか? 最近夜もお部屋にお呼びだって噂ですけど」
ちらり視線は向けてしまったが、無視だ。何も言ってやらない。
「あ~あ、無視された。恋って怖いな~」
サロモンは言い置いて、出て行った。
本来なら、父王がいるはずの執務室。まだ世継ぎの身のままなのに、そこの椅子に馴染んでしまった気がする。
一つの書類を最後まで読み、署名すると、後ろに控えている文官がすかさず次の一つを寄越してくる。
今日は北方における作物の生育状況の話が多い。
秋の収穫が楽しみだ。それはフィリベールだけでなく、ミューニック伯爵を始めとした領主たちも、土地を耕す農民たちもだろう。
「イリュリアの件が落ち着いたら、農作物の流通を考えないとな。前にミューニック伯爵が、ダニューヴ河を利用した流通を話していたと思うんだ」
後で伝えてくれれば、と言い添えようとしたのに、文官が部屋から飛び出していく。
あれは呼びに行ったな、と息を吐く。
案の定、ミューニック伯爵が大股でやってきた。
舟の行き来、そもそもの造船――ひととおりの話の後、相手は大きく頷いた。
「殿下からご提案が出てくるとは思いませんでした」
細められた瞳に、かっと頬が熱くなる。
「国王は父上なのに、出しゃばり過ぎ……」
「そうではありません」
伯爵はやはり大袈裟に首を振った。
「陛下のご容態は残念と思っておりますが、だからといって国が歩みを止めて良いわけではないのです。次代を担う方として、殿下が様々お考えなのが喜ばしい」
そうか、と淡く笑って。
「このあたりは、宰相も一緒に話さないといけないな」
「ええ。宰相の協力が必要です。だからこそ、彼の憂いは除いてやりませんと」
意地の悪い笑みを伯爵は浮かべた。フィリベールは溜め息を吐いた。
「ジスランの婚約を進めないといけない」
「そのとおりです」
ミューニック伯爵がジスランの婚約に乗り気なのは、ジスランを国外に出せるからだ。なんとなく、読めてきた。
だけど、ジェラルディーヌ王妃も乗り気だった。イリュリア側からも厭がられていない。
それならば、とフィリベールは思う。
「誰か、ジスランも呼んできてくれ」
言うと、小姓がまた走り出す。
ミューニック伯爵は、まだ探らなければならない、と言って去って行った。
――アニエスのこと、だよな。
場所は変わらず王の執務室。父は不在だ。
だからやってきた弟に婚約は進めると告げたのはフィリベールで。
言ったら、鼻で笑われた。
「正気?」
今までと変わらない、豪奢な衣装。黄金の髪は部屋の中でも輝いている。
サファイヤの瞳を燦然と輝かせて、ジスランは言う。
「俺は本当の恋を見つけたっていうのに、それを忘れて見知らぬ女を娶れって?」
「おれたちは王族なんだ。国を思えば私情を殺すことだって」
しなければいけない。そう言い切る前に、ジスランが手を上げた。
「ところでさ。……フィリベールは何か国のためにしている?」
その瞬間だけ目を見開いて。フィリベールは首を傾げた。
「使節団と交渉。婚約だけでなく、領土の境界線の確認と交易のための税関の手配と…… 陳情の受付と采配、閲兵……」
「ああ、もういいよ。そんな一つ一つ上げなくていい」
ジスランは肩を竦めた。
「よくやってられるねって思ってるよ、いつも。実は、フィリベールって案外仕事好きだよね。おじい様にあれだけ嫌みを言われても続けていられるんだから」
「そういう…… ものか?」
フィリベールがまた首を捻るのに、弟は目を細め、部屋を見回した。
「ずっと座って、聞きたくないことも聞いて、王でもないのに…… ちなみに、父上は? いないの?」
「今日はよろしくない。起き上がってもいただけない」
「ふぅん」
鼻を鳴らして、ジスランは続ける。
「もしさ、今父上が亡くなったら、王冠はどうなる? フィリベールのもの?」
「そう…… なるな」
頷くと、斜めに見つめられた。
「それでいいの?」
「……え?」
ぽかん、となった。だが、ジスランは真面目なのだろう。言った瞬間から表情は変わらない。
「王になる以外にないと思ってるの? 国のために何かし続けるだけていいの?」
被せられた言葉に、フィリベールは眉を寄せた。
「……考えたことがないな」
「だろうね」
ジスランも目を閉じ、肩を竦めた。
「フィリベールって、仕事好きなくせに目先しか考えてないよね。
「そっくりその言葉返すからな」
「ベアトリーチェのこと? 夢のような一夜だったよ」
呼び出した本題に戻って。ジスランはそこから変わりそうにない。
「あれが続くなら、お祖父様を怒らせた甲斐があるかな。ああ、お祖父様だけじゃないね、母上もギャーギャーうるさい。でも、国なんか滅びればいいのにって思うよ」
「滅びたら……!」
ふと思う。
国がなくなるとどうなるのだろう。
フィリベールは勿論、ミュラン宰相もミューニック伯爵もベルテール王国が滅びることは考えていない。この国が存続する前提で動いている。
その大前提が狂ったら、作物の流通も、何もかも関係なくなる。
――そもそも、何故、国があるんだ?
思考が絡まったフィリベールが黙ってしまうと、それみろ、とジスランはせせら笑い。
「アニエスを忘れられないだろう? 毎晩毎晩傍に呼んで、今さら忘れられるものか。俺だってそうだ。ベアトリーチェを放すことはできない。とすれば――俺は俺の幸せがあれば他は構わないんだと思えてきたよ」
言い放って、出て行った。
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