20. 皆は王冠こそ大事だから

 昨夜は逃げてきたようなものだ。星明かりの庭園でセドリックと別れた後、本当はもう一度、王太子の傍に戻るべきだったのだと後悔した。

 勿忘草色のドレス、告げてしまった名前、南の国かららしい陰謀、様々な情報が思考を埋め尽くしていて、動けなかっただけ。

 考えることを止められなかったアニエスは寝不足だ。隈が濃い。


「昨日はよほど楽しかったようね」


 勘違いの上に成り立った女官長の嫌みに向き合う元気もない。

 行き会ってしまった廊下、隅に避け、頭を下げることでやり過ごそうとしたのに。


「夜中までしっかり楽しんだのかしら」

 女官長は見逃してくれなかった。

 舞踏会とは打って変わった、褪せた色に毛羽立った生地のドレス。爪先が剥げた靴。表情を隠すように垂らした前髪の下は、化粧を施しててはいない。

 じろじろと、頭から爪先まで睨め付けて。

「そんな地味な格好をしたって、もう騙されませんからね。不埒な女」

 と、彼女は言った。


「女が何かしようとしたってうまくいきっこないって、知っているのかしら?」


 それは、ドレスを着せて舞踏会に出るよう誘ったサロモンへか、己の野望への策としたかったミュラン宰相へか、もっと違う何かへの、恨み言。

 この人はずっと苛立っているのかもしれない。自分の信念や希望を持つこと無く役目だけ与えられたことに。

 そう感じたけれど、今更構うことも無かった。


「今日も伺うつもり?」

 被せて問われ。

「お部屋に花を届けて参ります」

 言い放って、踵を返す。もう追いかけられない。


 花を受け取ることが日常となった庭。

 咲き誇る薔薇を躊躇無く手折った庭師は、その棘を落としながら笑った。


「小さな頃の殿下を存じ上げている身としてはここ数年は不憫でならなかったんだよ」

 聞かされていると察して、頷く。初老の男の機嫌は頗る良い。


「東の辺境伯の一族がこぞって領地に引き上げた後は悲惨だったぜ。どうやっても危なそうだっていうのに、誰も近寄れなかったんだ。まぁ、命惜しさに日和ったって言われちゃあ言い返せないがな。あんたは偉かったよ、危険をモノともせず近づいたんだから。みんなそれで勇気を得て、近寄っていけるようになったんだ」

「恐れていたその危険の元は何でしょうね」


 相槌代わりの問いに、彼の声は止まらない。


「そりゃぁあんた、ミュラン宰相に決まってるじゃねえか。東西の辺境伯に比べて、話の通じるイリュリアと国境を接してる南のほうは軽んじられてたってのを勝手に怒ってたんだぜ、あの一族は。宰相様がフィリベール様の実母のシルヴェーヌ様が亡くなってすぐ、娘の輿入れに動き出したのは、そりゃあ狙いが見え透いていて反吐が出たね。

 その輿入れさせられた今の王妃も素直に父親に従ったようでいて、何を考えているか分からねえな。俺ら下っ端からしか見ても宰相は人のことも道具か何かと勘違いしてるんじゃ無いかって感じの時が――」


 よく回っていた口が、遠くからのざわめきで止められる。


「噂をすれば、宰相だ」


 小さく呟いて、男は口を閉じた。

 宰相はイリュリアの使節団を庭園へ案内中のようだ。従者女官衛兵に混じって、見慣れぬ服装の人々がいるのはそういうことだろう。

 宰相と喋っているのが今いる一団の中でも中心となる人物なのだろうが、舞踏会で見かけた公爵たちではないようだった。


 それよりも目を引くのは、鮮やかな紫のドレスを着たベアトリーチェだ。項の白い肌を見せつけるように髪を結い上げて、手首の細さに驚くように袖口のフリルを揺らして歩く。日傘を支える腕が長いな、とぼんやり思った。


 勿論、彼女は一人ではない。

 右手は日傘を持っているが、左手は横を歩くジスランの右腕にかけられている。

 やがてその二人は、列から離れて歩き出した。


「おーおー。見せつけてくれるねえ」

 まだ傍にいた庭師が、小さな声で笑う。

十八歳オトナになったばかりのボウヤだと思ってたんだが、宰相譲りで計略家かね――色恋限定で」

「どうでしょうね」

 やはり小さな声で返してから、アニエスは庭師に頭を下げた。


 両手で花束を抱えたまま、庭園の構造を思い出す。

 中央の通りを外れて歩いていける先は、四阿か、点在する噴水か。庭師たちが手に入れる範囲を超えたら、木々の茂みに紛れていかなければならない。

 そこまで行くと日傘を畳まねばいけないだろうに。


 宰相の一団を避けるふうを装って、アニエスは茂みへと足を伸ばす。ハルシュタットからの伝令の鳩も飛んでくる茂みだ。

 たどり着けば、とある一本の木の根元に日傘が立てかけてあった。

 溜め息を零す。


 目を細め、夏の盛りを迎えた緑の葉の間を見回す。風の音の中に耳を澄ます。

 嬌声と思いたくなる音はする。だが、何も見えない。

 見えたのは小枝に止まっている鳩。それはゆっくり羽ばたいて伸び上がり。

 ひゅっと音を立てて飛んできた何かにぶつかった。


 クルッという鳴き声とともに鳩が墜落する。小石が広がった土の上で、鳩は血と羽を散らばした。

 目を丸くする。背後の音に振り向く。


「やあ、怪我はないかい?」

 ニヤニヤと笑う男――サロモンだ。伸ばしっきりの銀の髪をかき上げて、紫の瞳を真っ直ぐに向けてくる。


「こういう鳩は唐突に糞を放ってくるからねえ。古い物とはいえ、ドレスが使い物にならなくなると困るんじゃ無い? さらに言えば、覗き見は悪趣味だよ」

「何も見ていません」

「見ようとしてるでしょ。ジスラン様とご令嬢の甘い一幕をさ」


 黙る。わざと眉を下げて、首を振る。


「いい、いい。止めなよ。もう純情なふりはいらないからね。フィリベール様がウブだって知っているのは強かな女だからでしょ」


 ねえ、と口の端を持ち上げて、目を細める。


「宰相に言いつけてやる。目算が狂ってますよってね」

「そんなことはないわ。ドレスとダンスで、王太子は女官に狂っていると印象づけられているでしょう?」

「ジスラン殿下のあれでおあいこだよ」


 指先が鳩の死骸の向こう、茂みに向く。

 微かに聞こえる音が想像通りのもののような気がする。


「参っちゃうね」

 言って、サロモンはつかつかと進んで、動かない鳩へその足を落とした。

「好き勝手動いてくれちゃって、王族の誇りとか慣習とか、どこに飛んでいっちゃったかなぁ。皆は王冠こそ大事だから愛になんかにふけったりないと思っているんだけど」


 そう言うこの男には、血生臭いことを平気でやれる面があったらしい。

 革の靴に覆われた足が何度も何度も地面を踏みつけ、鳩の羽が無残に千切れていく。


 さらにセドリックが、ベアトリーチェと話している場を見た、と言っていたことも思い出す。

 それについてもう少し聞いておけば良かった、と溜め息を吐き出す。

 鳩の足には小さく捩った紙が結ばれていたようだが、それも千切れただろう。見ることはもう叶わない。


「鳩に対する溜め息?」

 急にいわれ、目を見開いた。

 振り向いていたサロモンは口元に薄い笑みを貼り付けている。


「平気なんだねえ。何者なの、君は」

「そういう貴方こそ」

 と、アニエスは鳩を見る。サロモンは肩を竦めた。


「俺を知っても、君の役に立たないと思うけど?」

「そうなの?」


 首を傾げてみせれば、笑われた。


「俺はフィリベール様の頭上に王冠を乗せることに協力はできないよ?」

「……では、誰ならばいいの?」

「どうだろうねえ」

「宰相様に従うのではなくて?」

「そうしたら、フィリベール様はフィリベール様のままではいられないだろうけれど、いいの?」


 左右に体を揺らして、サロモンは続ける。


「愛は王冠より冷たい。王冠に嫌われら王冠に殺されるしかないんだよ。つまり、彼は王冠を被らない限り生き延びられない、と」

「そう言いながら、フィリベール様を王位に導くつもりはないのね」


 死ね、と言っているのと同義だ。声の震えを押さえつけ問うと、サロモンは声を立てて笑った。

「まぁ、頑張って」

 と言い放って、去って行く。


 残されたのは血のにおいと無残な羽と肉の破片。

 それらを見下ろしながら思う。頑張るのは、死なせないように、だろうか。


 フィリベールを死なせない。それは『我らが真実の王』の命令だ。

 ――本当にそれだけ?



 夕焼けの刻限にやっと、その部屋の主は現れた。

 窓際に飾られた薔薇を見て、それからアニエスに見向いてくる。


「久しぶりに顔を見た気がする」

「昨夜も一緒でしたでしょう?」


 アニエスは吹き出した。頬を朱に染めて、フィリベールは嘯く。


「こ、この部屋じゃなかったから」

「お寂しかったのですか?」

 笑って告げると、朱を耳まで広げて彼は俯いた。

「……そういうことになる、な」

 アニエスは笑うのを止めた。


 するとフィリベールがぼそりと呟いた。

「今夜は此処に一緒にいて、と言ったら……」


 もう笑えない。瞬きを繰り返して、やっと言葉を絞り出す。

「命令ですか?」

「違う……!」

 勢いよく頭を上げたフィリベールは必死の形相だった。


 そのまま踏み出して、近寄ってくる。アニエスの両手を取る。

 ぎゅっと握ってくる手は湿っている。

 肩も声も震えさせて。


「頼み事だ。アマーリエ」


 一度告げた名前で呼び直された。

 大きく息を吸って、首を振った。


 どうしようもない。抗えない。

 だから、両手を握り返して、首を伸ばす。唇に唇を重ねるのは簡単だった。

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