19. 二人の美しい愛に民が心を寄せるなら
舞踏会は恙なく終わった。だけど、ひどく寝苦しい夜だった。
フィリベールは悶々と寝返りを打ち続けた。
その間ずっと思考を占めていたのは一人の女。
勿忘草色で揃えた衣装。弦楽器の音に合わせたステップ。緊張まみれのフィリベールの手を、レースの手袋を付けた手で握り返してくれた。そして、堂々となさいませ、と告げてきた。
その声が最後だ。傍にいたようで、結局は振り返ってもいなかった。
王太子としては、呼び出せば来るのかもしれない。見つからなければ、捜せ、と言えば良いのかもしれない。だけど、真心を信じて、待つことを選んだ。
伸ばした手は虚空を掴む。
温もりが恋しいと切実に思ったのは、いつ以来だろう。
迷いは勿論、恙なく終わった舞踏会の成果も翌日の昼まで引っ張られた。
イリュリアの使節団と昼食会となったのだ。
いつもは自室で食べてばかりだから、食堂に二日連続でやってきたのは久しぶりだ。
フィリベールは、侍従の開けた扉をくぐって、目を丸くした。
「義母上」
先に席に着いていた、王妃が笑い顔を向けてくる。
「待っていたわ、フィリベール。わたくしもご一緒してよろしくて?」
「勿論…… 歓迎します」
真っ直ぐに歩み寄ると、右手を差し出された。迷わずに取って、その手の甲へ口付けを贈る。
ジェラルディーヌはころころと笑った。
身を包むドレスは深い緋色。金の髪に飾られているのも赤いルビー。
「昨夜の続きですもの、たくさんお話ししなくては、ね」
ドレスも霞む艶やかさで彼女が笑う。
そしてイリュリアの使節の者たちもやってくる。使節長の公爵ともう二人。
併せて五名全員が席に着くと、食事が運ばれてきた。
蕪のスープ、ハーブがふんだんに使われた羊のソテー、こんがりと焼けたパンもある。
それらを品良く口に運びながら、イリュリアの公爵はふくよかな顔を綻ばせた。
「いやいや、昨夜は楽しませていただきました。その一方で驚かせてしまいましたね。ベアトリーチェがジスラン王子にあんな形で近づくとは。きつく叱っておきましたよ。イザベラ王女に対してもどう言い訳するのか、とね」
面目ない、と公爵は大袈裟に眉を寄せた。
「あの子はまあ、昔から大らかに過ぎるところがありましてね。こちらは懸命に貴族の嗜みを教えているし、本人も覚える気があるんですが、好奇心を優先させることがあって困る。今回ベルテールにお伺いしたのもね、本人の希望があったからなんですよ。私も見聞が広がるならとつい甘やかしてしまいましたね。いやぁ、手痛い勉強だ」
そう声が続く間、ジェラルディーヌはおっとり微笑んでいる。もう二人のイリュリアの人間も笑顔だ。
互いの腹の裡を探り合う笑顔。
それをしっかり見て、声が途切れた隙にフィリベールは口を開いた。
「ご令嬢は元々ベルテールに関心を?」
ゆっくり首を傾げて見せると、公爵は肩を竦めた。
「ええ。イリュリア国内の主だった街には勿論、どうやらベルテールにも文通相手がいたとかでね」
「文通?」
「ええ、これまたらしからぬでしょう?」
その一瞬だけ、公爵が口を歪めた。
「位を持たぬ、直接会うことなど叶わぬ相手、ということだったから。大目に見ていただこうかな」
貼り付けられていた罪悪感が剥げた一瞬が過ぎると、公爵はまた情けない表情になった。
「先ほども言いました、きつく叱っておきましたよ。ベルテールにやってきた理由をきちんと思い出せ、とね」
「では閣下」
と、王妃が呼ぶ。先ほどより厳しい笑みだ。
「閣下のお考えは? ジスランと王女の婚約は進めるおつもりかしら?」
「ええ。それが双方のためになる」
公爵の笑みが政治家のそれになる。そのまま視線を向けられて、フィリベールは頷いた。
「両国の友好が真実で、永久に続くよう祈っています」
視界の端で王妃も頷いていた。
――疲れた。
食堂を後にして、フィリベールはそう思った。
思っただけだ、声にして零すことは許されない。ここは自室で、傍にいるのがアニエスだったら、と考えて、肩を落とす。
彼女のことがまったく頭から離れない。
それなのに、周囲はがっちりと文官たちに固められている。その列を割って現れたのはミューニック伯爵だ。
「順調ですか?」
「ああ、問題ない」
問いに、無表情に頷く。
本来ならば父王がいるはずの執務室。もはやフィリベールの部屋のようになっている。
山のように積まれた書類が、説明とともに目の前に置かれていく。
そこにクレマン4世の名を書き、その下に代理として署名することにすっかり慣れてしまった。
「すっかり馴染まれたな」
「何が」
「執務を取られるそのお姿が」
ふふ、と喉を鳴らして伯爵が言う。
「王太子としてご立派な姿です」
「ああ…… ありがとう?」
「その上でお伺いしたのですが、昨夜のジスラン王子をどう思われましたか?」
視線を外さずに、笑顔も崩さすに問われたのに、フィリベールは目を丸くしてしまった。
そのまま黙る。
何度か息を吸った後。
「我々の中では、戸惑う声が大きい、というところですね」
伯爵が口を開いた。
「イリュリアの王女と婚約を整えようという人が、イリュリアの令嬢と懇ろになってどうするのだか。私が使節の立場だったら怒ります。非常識、と」
ね、と同意を求められて、やっと首を振った。
たしかに公爵は怒っていたようだった。それが政治に携わる貴族として正しい反応なのだろう。
見返すと、ミューニック伯爵の表情が冷えた。
「もっとも、非常識と言えば、殿下も負けてはいませんでしたね」
ドクッ、と心臓が跳ねる。だが、視線は逸らせなかった。
「アニエスのことだろう?」
「ええ」
伯爵は頷く。
「貴方に婚約の話が浮かんできていなかったのが幸いしました。宰相の狙いとは違うでしょうか、おつらい立場の殿下を支えていた誠実な娘、ということに出来なくもない」
聞こえてきた言葉に、あれ、とフィリベールは瞬いた。
「反対されるのかと思った」
「それも一つの選択ですが。二人の美しい愛に民が心を寄せるなら、利用するべきです」
伯爵は薄く笑っている。
「時に殿下、あのアエニス・カノンという娘の背景は調べられましたか?」
「……いや?」
本当は知らなければいけないことだ。
出身地を偽られたことをもっと責めなければいけない。
だが、そうするための手立てが無かったのが今までのフィリベールだ。それを知ってか知らずか。
「よろしければ、私めが調べてご報告しましょう」
ニコリ、と伯爵は胸を叩く。思わず、きょとんとなった。
「何故?」
「私が殿下に尽くす覚悟があると示したいだけです。受け入れていただけるだろうか」
ふふ、と笑われる。年上の、経験で負けているだろう相手に、フィリベールは眉を寄せた。
「伯爵は、おれが彼女をどうしたいと思ってると、考えている?」
「手元に留めておきたいとお思いなら、そのように。ただ、裏の繋がりは全て絶った上で、ですが」
「それを調べると」
「そうです」
「では――」
調べてくれ。出身地も何もかも。アニエス・カロンという名も本名じゃないんだ、と言いかけて唇を噛んだ。
これは、彼女の『真心』だ。応えるならば、黙っていなければいけない。
だが、伯爵が調べたら、それはどこまで崩されてしまうのだろう。もっとも、崩されなくとも崩されても、どうにかしないといけない。そういう時なのだろう。
「――任せる」
ひどく冷たい声が出た。なのに伯爵は満足そうだ。
「御意」
と腰を折る男に言葉を向ける。
「頼りにさせてくれ」
引きつらずに笑えただろうか。
だが、伯爵は目を丸くして、それから微笑んだ。
「力を尽くしましょう。私はあなたの頭上に王冠が輝く日を楽しみにしております故」
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