18.好ましくない想定

 踊る、踊る、踊る。

 甲高い弦楽器の音に合わせて、踏み出して、微笑む。

 握ったままの王太子の手は湿っている。動いたからか、はたまた緊張か、きっと後者だろうなとアニエスは思った。

 白い手袋に覆われているのに汗をかいていると伝わるのだから、相当な緊張だ。

 ちらりと視線を送ると、真っ赤な顔を背けられた。このフィリベールの仕草を周囲はどう見ているのだろう。


 壁に並ぶお歴々の表情は様々だ。蒼い顔の者もいれば、笑みを浮かべる者もいる。

 ここ最近フィリベールから話を聞くことが多いミューニック伯爵は、穏やかに笑んでいた。アニエスと視線が合うと、頷き返してくるほどに。


 壇上の玉座では、クレマン四世が船を漕いでいる。後ろに控えたサロモンが時折声をかけて、転げ落ちるのを防いでいた。

 隣に座る王妃も同じく、ちらちらと王を見ていた。だが、王を見ているよりも踊りの輪を見ている時間が多い。アニエスの方もしっかり見てくる。むしろ睨んでいると言ってもいい。


 だが、宰相は見向いても来ない。

 彼の視線の彼方では、ジスランとベアトリーチェが踊っている。


 音楽が鳴り止んだ隙間が出来た時、一際豪奢な衣装の一団が歩いてきた。

 国王、王妃に勝るとも劣らぬ絢爛さを誇るのはイリュリアの使節の面々だ。


 さすがに並んでいる訳にいかないだろうと、右手をそっと放そうとすると。

 逆に握り返された。


「如何なさいましたか?」

「おれはどうしたら好いと思う?」

「……堂々となさいませ」


 反対の手で指を解いて、一歩離れる。

 同時に目の前に立った使節の長がにこやかに話し始めた。

 ただの社交辞令だけとも思えない会話でも、フィリベールの体に流れる王の血は反応した。

 背筋を伸ばし、無表情な微笑みで話す姿は、王家のそれだ。孤独に怯えていようが結局は、彼は王冠を被るべくして生まれた人に変わりなかったらしい。


 使節団の向こうで、ミューニック伯爵は一層笑う。満足の笑みだ。

 さらに視線を巡らせると、居合わせた人の中にセドリックがいた。


『我らが真実の王に仕えよ』


 彼の唇が動く。

 見えてしまった。


 溜め息を呑み込む。

 フィリベールは使節団の公爵との会話に集中している。

 もう一歩下がって、と思ったのに。


 フィリベールがぱっと振り返った。唇が震えて、音を零しかけて、閉じる。

 ついさっきの印象と全く違う、置いていかれるのを恐れる子供のような顔。

 唇がから回ったのは呼び名に困ったからだ、と察して、アニエスは息を呑んだ。


 ――本当の名前なんか告げて、私はどうしたかったの。


 見つめ合ってから、ぎこちなく動く。片足を引いた淑女の礼をとる。


「いつまでもこのドレスという訳にはいきません。一介の女官ですので」


 ゆっくり話しましょうと言うイリュリアの公爵の声に背を向ける。広間を出て、最初はゆっくり、やがて走り出す。


 燭台の明かりから逃げて、星屑ばかりの夜空の下へ。

 庭園の噴水の端には、セドリックがいた。


「ご苦労様」


 飛沫の音に掻き消えそうな大きさの声。聞かせる相手はアニエスだけだからだ。

 大きく息を吸ってから、その前に立つ。笑みを向けられる。


「ミュラン宰相が望んだとおりになった」

「望まぬことも起こったようですが」

「そうだね」


 セドリックは喉を鳴らした。


「居合わせた諸侯に王太子がと懇ろだという印象を与えることはできた。同時に、次の駒となる王太子は国のためになる婚約に乗り気でない上に刃向かうような行動をしていると知られた。どちらかより次の王に相応しいと――自分たちに利をもたらすと判断するか、皆難しいだろうね」


 さらに言えば、とセドリックは片眼鏡を押し上げた。


「ジスラン王子とイザベル王女の婚約は、宰相が思う以上に複雑な事情が絡んでいそうだね。そうでなければ、使節の一員であるベアトリーチェ嬢が王子に近づくわけがない」


 そうか、と頷く。

 よくよく考えれば、自国の王女の夫となろう人物と良い仲になるなど、裏切り行為だ。それを堂々と為したのだ。さらに言えば、使節団の面々もあまり慌てていなかった。こちらも堂々とフィリベールと話していたではないか。


 狙って近づいたのかもしれない。

 婚約をどうにかする目的でもって。


「……狙いは何でしょうね」

「僕にも読めない」


 アニエスの呟きにセドリックは首を振り。

「僕は一度帰ろうと思う。我らが真実の王の下へ」

 言葉を継いだ。


ハルシュタット故郷に、ですか?」

「ああ」


 迷いのない声が続く。


「君はこの場に残って励んでおくれ」


 思わず溜め息を吐いた。


「国王一家の命を繋げる以外にも、何か?」

「それに尽きる。二人とも死なせるな。このまま餌として吊しておけ」


 一歩体を寄せ、セドリックは低く低く言葉を紡ぐ。


「この城には我らが真実の王に仕える者は他にもいるんだ。君が知らないだけだ――君のことも知られていない。誰が何をしているか全てを知っているのは僕と王だけ」

「だから、裏切るな、と」

「賢い解答だ」


 ゆったりと口元だけで微笑まれる。


「その賢さで役立てられる警告をあげよう。あのサロモンという男に気を付けろ」

「国王の侍従ですが」

「知っている。だが、警戒しろ。国王の真の味方ではないだろう」


 セドリックが笑みを消す。焦っている顔だ。何故、と眉を寄せる。


「おまえに衣装を届ける前に、イリュリアの国人と喋っていた。あのベアトリーチェとも話している」

「サロモンが?」


 知り合いなのだろうか。まさか、と目を剥く。


「はっきりしたことは言えない。あの男の出自を探ればまた違うのかもしれないが、表向きの『宰相の口利きで』から何処まで探れるか……」


 頭を振って、セドリックは奥歯を鳴らした。


「好ましくない想定をするならば。ミュラン宰相も踊らされているだけかもしれない」

「誰に」

「イリュリアに」


 そうか、と瞬いた。

 ベルテールの中が混乱して嬉しいのはエドゥアルド王だけでないのだ。

 自分が中に入り込む機会を狙っているのはイリュリアも一緒だ。だから。


「混乱させるために、ベアトリーチェ嬢とジスラン王子を?」

「大いにあり得る」


 視線を交わす。セドリックの瞳は一等細くなった。


「これ以上イリュリアに付け込ませないために尚更――王と王太子を死なせるな」

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