17.真心をお伝えするならば

 交渉の場、それに続いて設けられた晩餐会の席にいないジスランを、イリュリアの使者たちは如何に考えるのだろう。

 ぼーっと座っていただけの国王クレマン4世や、一人饒舌だったミュラン宰相のことは?

 フィリベールのことは?



 ぽっかりと一つだけ空いた席は、上席だから目立つ。

 笑顔の下に苛立ちを押し込めたミュラン宰相の元へひっきりなしに侍従がやってくるのは、その席を埋める人を探しているからだろう。


 何度目かにやってきた苛立ちを隠さない顔をした一人に、フィリベールは無表情に手招きした。

 渋々やってきた侍従に。

「ジスランは見つかったか?」

 問うと、さらに嫌そうな顔をされた。

「今、おいでいただけるように説得中です」

 思いのほか前進している回答だ。今夜は行方を眩ませたままになるかと思っていたのに。

「せめて舞踏会には来いと言ってやれ」

 耳打ちしてやると、いっそう顔は歪んだ。


 おや、と思う。

 ――それじゃ足りないのか?


 瞬いているうちに、侍従はすっと離れていく。一度宰相の元に寄って、二言三言交わして、会場の外へ。

 宰相は忌々しげな表情だ。



 その忌々しそうな顔の理由は、舞踏会で分かった。

 会場に現れたジスランが女を連れていたのだ。


 長い髪を結い上げて、襞の多いドレスを着た女だ。

 空気が揺れる。イリュリアからの客人も、ベルテールの人間もざわめいている。


 フィリベールは広間の一段高い位置からそれを見下ろしていた。


「あの女が誰かご存じですか?」


 聞き慣れぬ声に肩が揺れる。

 動揺を押し殺して振り返ると、すぐ真後ろに片眼鏡の男がいた。

 長い裾の衣装は文官のそれだ。短く刈った髪に飾り気のない笑みが、逆に冷えた印象を与える。

 じっと見つめ返すと。


「イリュリアの使節団の一員です。ベアトリーチェという名で、使節長である公爵の娘――ということになっていますが」


 彼は僅かに訛った調子で続けた。


「公爵は方面にからっきしらしい。夫人との関係も冷え切っているという噂です。さらに、公爵も夫人も肥えた――失礼、ふくやかでいらっしゃいますが、あの令嬢は違うでしょう? 細身だ。血の繋がりを疑う声は方々ほうぼうにある」

「じゃあ、二人はどういう関係なんだ」

「さて……」


 ここで、もっと話せ、と命じられたら王らしいのだろうに。

 つい言葉に詰まる。


 この文官は、味方か否か。そんな基準でしか他者を量れない。


 思考が空回りしている間に。

「ところで殿下」

 と、文官は指先を人集りの彼方に向けた。


「殿下も似たようなご状況では?」


 見えたのは、見慣れた姿――違う。不可解な衣装を纏った、知った女。

 まっすぐに走り出す。


「アニエス!」

 呼ぶと、彼女はすぐに視線を向けてくれた。その場で優雅に礼を送ってくる。


 普段は下ろしている髪は結い上げられて、長い首が丸見えだ。

 背が高く、女性らしい曲線を描く体を、その線を引き立てる形の衣装が包んでいる。

 前髪だけは変わらず垂らされて揺れて、表情を隠してくれたけれど、身に纏う衣は隠しようが無い。

 フィリベールの服と同じ色のドレス。

 勿忘草の色。


 フィリベールがやっと止まると、アニエスが体を寄せてきた。

 布越しに熱が伝わってくる。

 鼓膜を周囲のざわめきが襲うが、それ以上に体の奥で心臓の音が響く。

「宰相閣下の心尽くしです」

 そう言ったアニエスの声もしっかりと聞こえた。


 一度唾を飲み込んで、言葉を押し出した。

「何のために? どうして、おれとおまえに新しい衣装を、揃いの衣装を用意したんだ」

「私と殿下の関係を卑しめたいとお考えだったようですね」

 でも、と彼女は微笑んだ。


「これではおあいこですわね」


 何がと問う前に、周囲が静まりかえった。

 コツコツと床を叩く靴音が近づいてくる。


「兄上」

 呼ばれて、振り返った。

 フィリベールの奥歯が鳴る。勝手に震える。

 ジスランは満面の笑みでどんどん近づいてくる。

 その右手は横を歩く絶世の美女の腰に回されている。


「真っ直ぐお立ちくださいませ」

 囁いて、アニエスもまたフィリベールの左腕にその腕を絡めてきた。


「ごきげんよう、兄上様」

 三歩の距離を開けて立ち止まったジスランが言った。


「昨日までの俺なら、それを羨ましいって言ったんだろうな」

 視線は、アニエスが絡めた腕に向いて、それから横の女に向けられた。

「今日はもう大丈夫です」


 目を細めて、ジスランはまた歩き出す。

 その先にはミュラン宰相、そしてジェラルディーヌ王妃もいる。


 イリュリアの王女との婚約を決めるという時に、そのイリュリアの令嬢と恋に落ちてどうする。


 ――恋?


 思考に浮いた単語を何度も繰り返し、己の横を見た。

 アニエスは顔を伏せて、一層体を寄せてきた。

 フィリベールにだけ顔が見えるように、首を傾げる。


「私を使ってください。同じ国の中の女に手を出したと見せつけて、本当の味方を探すのにご利用ください」


 さあ、と体を押される。踏み出す。

 当然のように広間を歩き出す。


 集まった貴族たちがフィリベールとアニエスに、同じ色の衣装を着た二人へ、視線を注ぐ。

 この中には、ミュラン宰相のものも、ミューニック伯爵のものも、あるのだろう。

 ぐるりと見返すので精一杯で、誰がいるまで見えない。理解できない。

 味方は分からない。


 それなのに、戸惑いから脱したらしい楽団が席に着いていた。高いの音が響く。


 左手を耳に添えて。

「踊るのも得意なんですよ」

 言うアニエスに、フィリベールは瞬いた。


「踊るのか」

「当然でしょう? 王家主催の席で、あなたが目立たなくてどうするのですか」

「……どうして、ここまでするんだ」


 右手を差し出して、アニエスの前髪を掻き上げる。真っ直ぐに瞳をのぞき込んだのは初めてかもしれない。長い睫毛の一つひとつが見えるほどの距離で見つめて。


「おまえはおれに良くしてくれる。でも」


 死体を隠したことも、王宮内の関係で浮いてしまうことも、勿忘草の衣装を着ることも、この場で好奇の視線に晒されることも。

 逃げられたはずなのに。


「おまえが本当の味方じゃなきゃ、全部、できないじゃないか」


 どうして、を重ねる前に、アニエスの指先が唇に触れてきた。


「前にもお話ししたでしょう? 殿下をお守りしたいという気持ちに嘘はありません」


 眸の奥を揺らしてなお、真っ直ぐ見つめ返してくる。


「ただ、詳しく理由をお伝えできないだけ。今お伝えするのは、結果的にあなたを守ることにならないかもしれないから」

「でも」

「今はただ、守られてください」


 指を離し、紅を刷いた唇を綻ばせて。


「信じていただくために何か一つ、真心をお伝えするならば ……本当の名前を」


 弦楽器の悲鳴に合わせた一歩目を踏み出すとともに、彼女は言った。


「アマーリエと申します」

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