16.今更逃げられるとでも?

 ドン、ドン、と乾いた音が響いた。花火の音だ。

「イリュリアの使節の皆様、無事にご到着なさったようですね」

 そう言って、アニエスは視線を外に向けた。


 夏を迎えた日差しは眩しい。開け放した窓から風が吹き込んでくるからまだ良いものの、背中や額には汗が浮かぶ。

 暑いな、と感じているのはアニエスだけでなく、正面の椅子に座ったフィリベールもらしい。背中を向けた彼はアニエスに髪を梳かれているところで、淡い金の髪を持ち上げて見えたうなじは湿っていた。


 その白い肌と、右手に握った櫛と左手で支えた金の髪を見遣ってから、アニエスはまた、ゆっくりとフィリベールの髪を梳く。


 何度目かの動きの後。

「そんなにやっても変わらない」

 不機嫌を隠さない声が聞こえてきて、吹き出した。

「そんなことはございませんわ。殿下の御髪は細くて絡みやすいので、しっかり梳いておきませんと」

 それに、と言葉を重ねる。

「今日ばかりは一等仕上げていただきませんとなりませんし」

「……そうだよな」

 顔を見なくても分かるくらい、フィリベールはうんざりしている。だが、力尽くでも髪を梳くのを止めさせないあたり、理解しているのだろう。

 着飾るのもこちらベルテールの勢いを見せつける手段の一つだと。


 今日ばかりは、イリュリアが相手だから、ミュラン宰相も王太子をないがしろにはしないらしい。女官長自らが着付けにと現れたのも宰相の指示があってだろう。

 だが、他でもないフィリベールが彼女を追い払ってしまった。

 それで困り果てた女官長がアニエスを呼び出したのだ。

 おまえなら殿下も素直に着てくれるでしょうね、と。

 嫌みたらしく言ってもなお、王太子を飾ることを目指している。女官長も必死だったのだ。そう思うと苦笑いが浮かぶ。


 ――あの女性ひとも争いに巻き込まれただけの人だ。


 髪を結い、爪の形を整え、新しいシャツを着付けてやると。

「こんなこともできたのか、おまえは」

 フィリベールはまんざらでもない顔をしていた。

「お任せくださいませ」

 アニエスは笑って応える。


「これでも、人の傍に控えた経験は多いのですよ」

「王宮に来る前にも?」

「ええ。ご婦人にも殿方にも仕えさせていただきました」


 ――嘘だ。


 仕えた、だなんて嘘だ。

 エドゥアルド王の思惑の下での行動だ。そこにアニエスの真心はない。

 巻き込まれただけ。


 うっすらと頬を朱くしたフィリベールを見ていると、ズキ、と胸の奥が軋んだ。

 それを無視して、手を動かし続けて。

 最後、上着まで羽織らせてやる。


 すると。

「ところで、この服」

 とフィリベールは眉を寄せた。

「……今まで無かったと思うんだが」

「お気づきになりました?」

 くすっと喉を鳴らし、告げる。

「宰相閣下からの心尽くしです」

「え?」

 フィリベールは目を丸くして、もう一度自らの衣装に視線を落とした。


 新しい一式は青を基調に揃えられていた。

 上着は季節外れの勿忘草の色。そこを中心に濃淡が広がっていて、袖口や首元を白が飾る。

 白のレースは、織りの細かい品。他の部分も光沢の強い生地が使われている。

 贅沢品だ。


「これもまた、イリュリアに威勢を示す手段とお思いくださいませ」

 呆然としたままのフィリベールから、アニエスは目を逸らした。


 これがあるから、女官長が来たのだ。いろいろな思惑が重なったこの衣装を着せる必要があったから。

 アニエスは溜め息を呑み込んだ。だが、フィリベールは盛大に吐き出した。


「似合う気がしない」

「何をおっしゃいますか。形も色合いも殿下によくお似合いですよ」

「派手すぎる」

「普段が地味なのですよ」

「それで問題ないんだ。誰も気にしてなかったから」

「もう、そんなことはないでしょう? 殿下を尊重して集まる味方はいらっしゃるではないですか」


 つい、笑みを零す。そして。


 ――おまえはどうなんだ。


 味方なのかどうなのか、と問われた際に贈った口付けを思い出して。

 また胸の奥が軋んで、誤魔化すための行動に出た。

 一歩踏み出して、フィリベールの正面に立つ。アニエスは背が高い方だから、すこしつま先立てば届いてしまう。唇で弧を描き、それを頬に寄せる。


 これが真心であれば良いのに。


 すこし湿った後が響いた後に、悲鳴が上がった。


「お、おまえは、また!」

 これ以上ないくらいに朱くなって、フィリベールは叫ぶ。

「おれの何なんだ。こんなことをして……!」

 じつに無垢な反応だ。アニエスは笑い声を立てた。

「さあ、いってらっしゃいませ。御身は衛兵が護ってくださいましょう」


 渋々と言ったていで去って行く背中を見送って、今度こそ溜め息を吐いた。

 この後はアニエスも思惑に巻き込まれるしかない。それも突き詰めれば、エドゥアルド王の胸の裡に届くような陰謀に。



 日が沈む。だが、灯りという灯りがともされた王宮は明るいままだ。


「婚約は滞りなく整いそうだよ」

 着替えて部屋を出ると、廊下で待っていたサロモンが笑った。


「状況はジスラン様に有利。王冠に向けて手を伸ばし始めるところだ。……で、君の役目は分かるよね?」

「フィリベール殿下を相対的に貶めればよいのでしょう?」

「うん。ジスラン様がもっと有利になるように、ね」


 ニコニコし続けるサロモンから視線を外し、アニエスは自らのドレスを見た。


 新しいドレス。本当は誰か他の人のための物だったろうに、急遽アニエスに合わせてサイズを直されたそれ。

 身頃と広がる裾は勿忘草の色。白いレースが胸元や袖口で揺れる。燭台の灯りを受けると特に艶めく生地だ。


「おそろいの衣装を着て現れる君をみんなはどう思うかな、楽しみだな」


 似合っているよ、とサロモンが手を叩く。


「君は王太子の恋人と、暗黙の裡に認められている。それをもっともっと見せつけてきて。フィリベール殿下は一介の女官に入れ込んでいる、他国の王女を妃に迎えられるジスラン殿下のほうが国王として安泰だ、と思わせてきてよ。ベルテールの貴族たちにも、イリュリアの偉い人にも」


 その結果どうなるか。ジスランが王になれば、ミュラン宰相は喜ぶだろう。

 だが、その前に、エドゥアルド王が喜ぶかもしれない。ベルテールの内紛は、ハルシュタットにとってつけ込む鋤となるから。だからセドリックはあの場で即話を受けたのだ。


「見せつけられた結果、君とフィリベール様の関係が認められれば益がある、とあのお兄さんは思ったんだよね?」

 改めてサロモンに言われ、アニエスは首を振った。


「セドリックが考えることは聞いておりません。それに…… 私と殿下は、貴方がたが思うほど色っぽい関係ではないのです」


 告げると、サロモンはキョトンとなった。


「違うの?」

「殿下は童貞ですもの」


 顔を上げて、口元の薄い笑みを見せつける。サロモンはゲラゲラ笑い出した。

「なるほど! 一晩の過ちは無かったわけね」

 だけど、と紫色の視線が細められる。


「今更逃げられるとでも?」


 第二王子を王位に就けようという、その結果で裏から国を動かしたいという、宰相の思惑。

 そこに被さるエドゥアルト王――アニエスの『真実の王』たる人の思惑。

 誰が王になるか。この輝ける大地に広がる王国を治めるか。

 アニエスもフィリベールも、とっくに巻き込まれている。逃げられない。


 真っ直ぐに視線を受け止めて、『おとなしい女官』の仮面を振り落とす。

「宰相閣下に、ご期待ください、とお伝えして」

 ドレスの裾を持ち上げて、アニエスは一直線に大広間へと向かった。

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