14.情勢をはっきりさせるのに協力して
薔薇が満開だ。
「本当はもうすこし遅れてくれたほうが良かったそうだけどね」
忙しなく働く庭師たちを見遣って、セドリックは言った。
「イリュリアから勅使が来る予定だろう。彼らに満開の姿を見せたかったのだそうだ」
王宮の庭園の姿はベルテール王家の権力と同じ。薔薇もクレマチスも咲き誇る、勢いと華やかさを見せつけて、交渉の優位に立ちたかった。
誰がそう考えていたとセドリックははっきりと言わない。けれど、アニエスには想像が付いた。
「ミュラン宰相が、ですか」
言うと、セドリックは声音に笑いをにじませた。
「この十日で大分情勢が変わってしまったからね。焦っているのだろう」
そのまま、視線をアニエスと向け直す。
「波乱の中心にいる身として、どうかな?」
「……特に何も」
アニエスは低い声を返す。
「私は殿下の御身を守るだけですので」
「大変結構」
死なせるな、と唇の動きだけで伝えられる。頷いて顔を伏せる。
――どうせ死んでしまうのに。
じわりと思考に染みが広がる。
対して、夏も本番の空は、ひたすらに青く広がる。雲一つ無い。
庭園も緑と花の色が広がる。
その隅の道で、仕事を抜け出してきたアニエスとセドリックは立ちっぱなしだ。
溜め息を押し殺していると、セドリックがまた軽やかに喋り出した。
「しかし、本当に勢力図がガラリと書き変わってしまったね。目下第一の権勢を誇り、王位さえも意のままにできるだろうと思われたミュラン宰相だったから、ミューニック伯爵が王太子の指示を明らかにした途端に追随する貴族がこんなに多く現れるとは予想していなかったんだろう。まあ、本人が想定していなかっただけで、案外恨まれていたのかもね」
それでも、宰相の味方が誰もいなくなったわけではない。王国の南部の出身者たちはその血筋からミュラン宰相に近く、今までずっと甘い蜜を吸っていたことが多いのだから。
既にある利を手放す者はいない。
それは第二王子にも言えるはず。
「君がただ王太子に懇ろになれたってだけなのにね」
セドリックは笑う。アニエスは首を振った。
「フィリベール殿下は周囲の変化に戸惑っておいでです」
「そうなのかい」
「……ジスラン殿下は相変わらずでいらっしゃいますか?」
「君が聞くのかい?」
「フィリベール殿下に近づいているので、どうしてもそちらが疎くなりまして」
「成る程」
セドリックは眉を寄せた。
「僕と君は親戚ということになっているからね。言っただろう? 君が王太子と近しい関係になったことで、それを契機と見た連中が僕に群がってきていたんだよ。だから僕も直接第二王子の動向を追えなくてね。一時期は大分近い位置まで踏み込めたんだが……」
一度、息を吐き出して。セドリックは笑った。
「まあ、遠目で見る限り、情勢の変化に付いていけていないだろう。相変わらず、くだらないお茶会と兎狩を楽しんでいる。つまり、何もしていない」
以前から、ジスランが政治的な部分に踏み込んでいる様子は確かに無かった。もしそういうことがあったなら、フィリベールが一人で宰相と遣り合い、孤立するという事態になることも無かったかもしれない。
「国王の不調は表向き伏せられているが、こうも王太子一人で動いてばかりでは隠しきれるわけがない。ミュラン宰相が出しゃばるのももっともだったし、今は王太子に近づくのが良いという判断が働くのももっともだ」
アニエスがそう考えたように、セドリックの思考も動いたらしい。
「ちなみに今日はどうした?」
逆に問われ。
「今日は閲兵に出られました。国王陛下とともに」
答えた。
「ミューニック伯爵のご提案だそうです」
「何故それを提案したのかは聞けたか?」
「どうやら、伯爵はハルシュタットを警戒されているようです」
「それは聞き捨てならないね」
セドリックの溜め息の色が変わる。
「北を警戒するからこそ、宰相も南のイリュリアと同盟を結ぼうとしているのだろうに。それは気に入らないのだな。軍備の拡張を考え始めたか」
そのまま、セドリックは片眼鏡を押し上げて、口の端を歪める。
「分裂や混乱は付け入られる隙となる。まともな政治家なら避けるだろうと思うのだけど」
まとも、とは何か、とアニエスは眉を寄せた。
罠をはり陰謀を張り巡らせ、政敵の息の根を止めるのがまともなのか。
考え始めたらキリがない。フィリベールに笑顔を向け、護ると囁き、味方を探せと発破をかけている自分自身が、最後の最後では裏切るしかない立場だというのに。
風の中に混ざる花の匂いに息が詰まる。言葉も留まって、そのまま考えるのを止めたくなる。
それなのに、耳はしっかりと近づいてくる足音を捉えた。
庭園の小径に沿う、茂みの向こうからだ。アニエスとセドリック、同時に振り向く。
「
「盗み聞きとは趣味が悪い」
薔薇の低木を掻き分けて、長身の男がひょっこり顔を出す。
「聞かれたら困ることを喋っていたのかい?」
銀の髪、長い手足。そしてその体に対して長さが足りない袖。出会ったことのある男だ。
「お出かけになっていなかったのですか、サロモン様」
アニエスが言うと、相手はへラッと相好を崩した。
「おぉ。名前、覚えててもらった?」
「国王陛下の従者と名乗られたことも」
「そっかそっか」
訝しげに見遣ってくるセドリックに、サロモン・マンシェという男の名と立場を告げる。
すぐに彼は、物わかりの良い顔を作って、腰を折った。
「これは失礼ことを申しました。ですが決して、国王陛下を害することを申していたわけではないことを知ってくださいますれば」
そう。先程此処ではそんなことは喋っていない。アニエスも、本当です、と言い添える。
サロモンは眉の端を下げた。
「いやいや、そこまで畏まらなくて良いから。クレマン様の従者ではあるけど、俺は宰相の口利きで王宮にいる身だからさ」
だからと言って、国王の利に反することを言って良いわけではないはずなのに。サロモンはけろりと続ける。
「宰相のお願いに逆らえないんだよ。ね、分かるでしょ? 賢い文官様」
質問を向けられたセドリックは、口を引き結んだ。サロモンは黙らない。
「君は、フィリベール様とジスラン様、どっちを支持するの?」
向けられた問いに、つい、アニエスが答えてしまった。
「それを見極めるのはこれからでしょう?」
「あれれ。君が言う?」
はっとなって口を両手で押さえる。肩にセドリックが触れてきて、見上げれば、ゆるりと首を振られた。
「アニエスの申すとおり、とさせてください。私たちは国の未来を憂えてはおりますが、だからとて様々なことをはっきりと申し上げられる時ではございません」
我らが真実の王のことも含めて、セドリックは全てを語っているわけではないのに、嘘は言っていない。だから言い掛かりのしようもないらしい。
「せこいなぁ」
サロモンは肩を竦めた。
「じゃあ、さ。情勢をはっきりさせるのに協力してよ」
「宰相様に従え、と」
「そうじゃないよ」
あからさまに口元を歪めたセドリックに、サロモンは両手を振ってみせる。
「でも、ね。未来を憂うなら、たしかな血筋の王妃を立てた方が安泰だって考えるのが定石でしょ? そういう王妃様を迎えられる人を王位に立てなきゃ。一介の女官なんかに入れ込む王子じゃ困るって見せつけなきゃ」
やはり、ジスランを推して、フィリベールを陥れたいらしい。
眼を細める。
セドリックは表情を戻す。
「いつ。どうやって、そのようなことをなさるので?」
「もうすぐイリュリアの使節がやってくる」
それは先程、セドリックとアニエスも話題に上げていたことだ。分かっていると頷いてみせると。
「歓迎の場に舞踏会は不可欠」
バチン、と片目を瞑って。サロモンはひょろ長い指をアニエスに向けた。正確には、アニエスの衣装に、だ。
色褪せた青のドレス。古びても着られているのは生地が分厚いからというだけのドレス。アニエスが女官としてお淑やかであるべく選んだドレスだが。
「新しいのを作らない?」
満面の笑みでサロモンが言う。
セドリックとアニエスは渋い顔を見合わせた。
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