11.巷で言われているようなこと

「って具合でね。しおらしい顔をしていたけど実態はどうなんだかって感じですよ」

 肩を竦めるサロモンに。

「誰が、どうなんだ?」

 フィリベールは首を傾げた。


「誰って、今噂の人に決まってるでしょう?」

 サロモンの溜め息は深い。

「さっき廊下で会ってきました。アニエスって名前なんですねー。あなたが一晩過ごした女の子ですよ。

 ――って、女の子なんて可愛いタマじゃないね、あれは魔性の女だ。まだお若いフィリベール様やジスラン様じゃ見抜けないでしょうけど、絶対腹の中に何か飼ってる」


 ねえ、と。サロモンは視線をフィリベールから、隅に控えた文官たちに動かした。


「君たちはどう思う?」

「さあ…… 私にはなんとも」

「同じくです。喋ったことがないので」


 文官らしい長衣を着込んだ青年たちは首を傾げる。サロモンはニヤニヤと口元を崩した。


「あー、そう。時流に乗ってる人なら、とっくに会いに行っていると思ったんだけどな!」


 すると、文官の一人はうぐっと噎せて、もう一人は大きく咳払いをした。


「あ、図星? だよねー、あの子が一晩過ごせたから、フィリベール様に近づこうと考えたんだものね」


 笑みを深くするサロモンの一方で、噎せた彼は青くなり、咳払いをした方はフィリベールの机の前へと進んできた。


「殿下、こちらの書類への署名はお済みでしょうか」

「だ、大丈夫だ」


 フィリベールが慌てて手元の束を突き出すと、文官は引ったくるように受け取って、部屋を飛び出していった。

 今一人もぺこぺこと体を曲げながら去って行く。


「わーお。後ろめたいようですねえ」

「サロモン」

「この三日で急に殿下に寄ってくるようになった奴は信用なりませんよ」


 ふー、とサロモンがまた溜め息を吐く。フィリベールは苦笑した。


「なんか、急に皆が寄ってくるようになったな」


 あの晩が明けてからだ。

 食事にずっと給仕がついていたのは久しぶりで、それが三日経った今も続いている。

 朝起きた時には、部屋の入り口に見張りがいる。

 父王の代理で政務に取り組む時も、誰かしらが助言や作業の補佐についてくる。

 女官も文官も衛兵も、誰も彼もが、フィリベールの傍に来る。


「気味が悪い」

 ぼそりと呟いたのが、サロモンに聞こえたらしい。

「俺も不気味に思いますよ。人間って嫌ですねえ」

 サロモンはまた、肩を竦めた。


「あれだけ放っておいたっていうのに。王太子だって近づけると分かったものだから、皆が放っておかない」


 フィリベールは眉を寄せた。


「近づけるって」

「だーかーらー。一晩あの子と過ごしたでしょう? 城勤めの我々にしたら驚愕の事件なんですよ。散々人を遠ざけてきたフィリベール様も他人を傍におけるんだって知ってしまったんですから。そうなれば、我も我もとなるに決まってるでしょ」

「そうなのか」


 うう、と唸って、机に肘をつく。組んだ手の上に顎をのせて、また唸る。


「おれに近づいてどうしようっていうんだ」

「宰相様に対抗するのが目的でしょう。さっき来てたミューニック伯爵が一番わかりやすい。あの人をはじめとして、東のブランドブール一派が落ち目で西のウニーズ辺境伯も覇気がないことで、焦ってる人がいないわけじゃない。この国がミュラン一族に乗っ取られるんじゃないかって心配してるんですよ」


 つい、目を丸くした。

 誰も彼もがミュラン宰相に追従したがっていると思っていたのに。そうではなかったのだろうか。


 その思考を読み取られたのかどうか。

「王冠を被った人が最強ですからね」

 サロモンは続ける。

「ジスラン様が被った日には、これまでにミュラン宰相と対立したことがある人は危うくなるでしょうね。よくて国内で勢力が弱くなる。最悪、亡命だって考えないといけなくなるでしょうし。そうなる前に徹底的にやり合うなら、フィリベール様を担ぐよなぁ。俺でもそうする」


 うんうん、と一人で頷いてから。

「あ、俺はミュラン宰相に味方しざるをえないんで」

 てへっとサロモンは笑う。


「おまえは宰相の伝手で王宮に上がってきたんだと、おれも知っている」

「でしょうでしょう!」


 フィリベールはこっそりと息を吐いた。


「それで、一つ質問なんですけど」

 そのまま変わらず、サロモンは軽い声で言った。

「彼女とは寝たんですか、寝てないんですか?」


 つい、きょとんとなった。


「……寝た?」

「だって。一晩一緒に過ごしたんでしょ?」


 サロモンはこてんと首を傾げる。もう一度眉を寄せてから。


「……おれは寝た。彼女は知らない」


 答えると、相手はがっくりと肩を落とした。


「えーっとね。そういう質問じゃないんですけど」

 はぁ、と溜め息まで吐かれた。

「質問の仕方を間違えたかなー」

 こめかみをぐりぐりと指で押し始めたサロモンを睨む。

「何が知りたいんだ」

「あー、もう。それはですね……」


 長い長い溜め息が響く。

 同時に扉が叩かれる。また書類が運び込まれてくる。


 だからそれで、サロモンとの会話は終わってしまった。



 書類がすべて文官たちに寄って運び出された後、フィリベールも部屋を出た。

 あれからミュラン宰相もやってきたというのに、ずいぶんと早く終わった。独りでないと、こんなにも楽らしい。


 仕事は人とやるほうが楽だが。廊下を歩き出すと後ろを衛兵が三人ついてくる、そのまま自室まで付いて来られたというこの状況はすこし鬱陶しかった。

 今更だとか、巻き込まれてくれるなとか、思考と感情が絡み合う。

 ぐちゃぐちゃの感情のまま鉛筆を握る。自室の中央のテーブルで、紙に何本も線を引いた。

 花でも犬でも、なんでも良かったはずなのに、線は意味のある形へと変わっていかない。

 その結果で零れた溜め息を聞かれたらしい。


「如何されましたか」

 扉の傍に控えたままだった年嵩の一人が声をかけてきた。


 何も、と言いかけて。唇の形を変える。

「アニエスを呼んできてくれ」

 言うと、すぐに、と返された。



「御用は」

 部屋に入ってくるなり、アニエスは問うてきた。

 フィリベールは部屋の中央のテーブルに突っ伏したまま。

「とりあえずあっちに立ってろ」

 と、窓際を指さした。

「そこの方が明るいから、おれからよく見える」


 長く溜め息を吐き出して、扉の方を向いた。

 アニエスは入った場所から動いていなかったけれど、ちらり、と横を見た。そこにいた衛兵は、じとりと彼女を睨んで、フィリベールを見た。

 手を振る。長くしていなかった、もういけ、という仕草。

 無事に届いた合図に、衛兵は慇懃に頭を下げて、部屋から出て行った。


 扉が閉まる音の余韻が消えてから、長い裾を揺らして、彼女は動いた。

 窓からは日差しと風。花の匂いを含んだ風が髪を揺らして、輝きを増した夏の日差しは目鼻立ちをはっきりと浮かび上がらせる。


 これなら描ける、と体を起こして。

 フィリベールは鉛筆を走らせた。

 艶めいた髪も潤んだ唇も、すべてを絵に写すことはできないけれど。それでも、見たものをはっきりと見て覚える助けにはなる。


 やがて、クスクスと声が聞こえた。アニエスが笑い出したのだ。


「御用はこれですか」

「うるさい、黙って描かれていろ」


 眉間にしわを刻んで見向く。その正面にアニエスは歩み寄ってきた。

 両手が伸ばされて、頬に触れられる。赤い唇が額すれすれに近づく。


「このように過ごしていると――もっと深い関係であるのだろうと、真相を知らぬ人は思うのですよ」


 寄せられた体をじっと見つめてから。

 かっと顔が熱くなる。同時にサロモンの質問を思い出した。


「ね、寝てない! 断じて! 断じて寝てない!」


 伸ばされた両手を払いのける。勢いで椅子から転げ落ちた。


「殿下!?」


 たまらず呻いた。打ち付けた肩が痛い。


「大丈夫ですか?」


 心配そうな顔で、それでも彼女は手を差し出してくれた。

 立ち上がるための手だ。触れると温かい。あの晩の腕だって、温かかった。

 思い出すと顔が熱い。


「違う、おれは」

「どうなさいましたか?」


 苦笑を浮かべて、彼女は見つめてくる。床にへたり込んだまま、それを見つめ返して。

「サロモンが」

 と口を開いて、閉じた。

 だが、アニエスは眉を寄せる。


「サロモン・マンシェ氏ですね。私は今朝方初めてお会いしました。国王陛下の従者だと名乗っておりましたが」

「間違いないんだが…… その、あいつが」

「何か私について申しておりましたか?」


 答えようとして。

 ――魔性の女って、なんだよ。


 喉に何かが貼り付いているようで、巧く声が出ない。顔が熱くなっていく。


 アニエスは吹き出した。

「不審に思われているのでしょうね。これで人殺しも厭わぬ女だと知られるとさらに面倒なのですが…… お話になりましたか?」

 問いに、首を横に振った。


「それなら、結構です。まだしばらくは、変わらず、お守りするために傍にいられますわ」


 まっすぐ笑いかけられて、片手で顔を覆った。


 顔がまともに見られない。

 だが、戸惑っているのはフィリベールばかりだ。

 聞こえる声は穏やかだ。


「殿下はお疲れになっているのでは? すこしお休みになられたほうがいいでしょう。寝台を整えてまいります」


 立ち上がった彼女の衣擦れと、笑い声がまた響く。


「ご心配なく。巷で言われているようなことは致しません。私は殿下の命をお守りするためにおりますので」


 片手で足りず、両手で頭を抱える。

 そのままでいたら、すぐに呼ばれた。


 抗えず横になる。すぐに瞼が重くなる。外の日差しはまだまぶしい時間なのに、だ。

「おやすみなさいませ」

 頬に口付け。それも眠りへと誘っていく。


「早く、私とは違う味方を見つけてくださいませ」


 沈んでいく意識の端でそう聞いた気がした。

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