10.時を早めるために

 死にたくない、死にたくないと叫ぶ人はいくらでも見てきた。

 最後に見たのは、ハルシュタットの都で断頭台に上げられた、彼の国の伯爵だっただろうか。


 ずるずると雪が降り続いていた冬の終わり。

 に背いた咎で、彼は死ぬことになった。罪が明らかにされてから僅か二ヶ月で結審し刑を言い渡された時も、それから執行までの日々も、刃を目前にしたその時まで彼は泣いていた。


 ――泣くくらいなら、逆らわなければ良かったのに。


 密偵として彼の咎を暴いたうちの一人として、溜め息を隠せなかった。

「愚か者め」

 と、玉座の人も言った。


 処刑の日、王城の中、暖炉の火は暖かな一室にて。

 その時、其処には彼女とハルシュタットの王しかいなかった。

 王は初老に至ってもなお屈強な体の持ち主だ。豪奢な衣装をまとっていても分かるほど、太く、がっしりしている。上背も高く、豊かな髪をかき上げる手も、厚く大きい。

 声は低く、腹の底へと響いてくる。

 向けられる視線も、いつも固く冷えていた。


 黙っていると、その瞳が向けられる。

「おまえの働きで捕まった男だ。何か思うところは?」

 問われ、何度が唾を飲み込んでから。

「我らが真実の王に仕えられたことを喜びます」

 と答える。すると、無表情に頷かれた。


 続けて、唐突な問いが投げられる。

「おまえが最初にを果たしたのはいつだ?」

「……十五の時です」

「何年経った?」

「八年ばかりかと」

 意図が読めないと困惑を感じながら、それでも声を震わせぬように、答える。

 王は静かに頷いて、さらに言った。


「おまえはこの国の言葉だけでなく、南方の――ベルテールとイリュリアの言葉も扱えたな」


 はい、と応じる。


「相手も機も見ることもできる、とミカエルも褒めていたな」


 王が直接使う密偵たちの元締の名を上げられて、何事かと次の言葉を待つ。

 その間に、王はやっと笑みを浮かべた。

 ぞくり、背筋が震える。


「ベルテールの王宮に行け。あそこにはセドリックに任せているが、時を早めるために、だ」


 何の時かは問うまでもなかった。王が豊かな彼の地を望めばこそ、あの伯爵も追い詰められたのだから。

「仰せのままに」

 そう言って、腰を折るしかなかった。

 逆らえるわけがない。逆らったら、死ぬしかなくなる。




 我らが真実の王に仕えよ。

 ずっと、恐ろしさから、仕えてきた。




 そのアニエスの腕の中で今、フィリベールが穏やかな寝息を立てていた。抱きしめて髪を撫でてやったら、散々泣きじゃくり、そのまま眠ってしまった。


 夜はすっかり更け、燭台の火が尽きた。

 開け放したままになってしまった窓から吹く風がカーテンを緩やかに揺らし、その隙間から差し込む月光が什器の影を浮かび上がらせる。

 余人が立てる声も足音も聞こえない。


 その中でただ、眠るフィリベールの髪を撫でる。

 日中に淡い金と認めていた髪は細く柔らかい。指を差し入れると、ところどころもつれているのは、彼の日々を物語っているのだろう。誰も傍に仕えず、独りで過ごしているということを。


 それにしても、とアニエスは微笑む。

 話を探るためにも使われているこの体は、孤独だった王子に意味で役に立たなかった、と。


「……童貞」


 ぼそり、と呟いて、もう一度髪を梳く。

 穏やかな時間だ。悪くない。

 立ち去りがたくて、ずっとずっと、夜明けに鳥が鳴き始めるまで其処にいた。



 その結果、女官長にはまた怒鳴られた。


「呼ばれてもいないのになんて真似を!」

 顔を真っ赤にした彼女と相対して、わずかに惑ってから、言い返すことを選ぶ。

「思い出した時だけでもお相手するのではなかったのですか? でも、だけど、花を飾るだけではないと思うのです。御身を思えば、お傍に控えなければ」

 すると、真っ青になってしまった。

「……目をかけられたからと、つけ上げるのでないわよ」

「女官長様は職務をよく理解されて実行される方と感じていたのですけれど、そのようにおっしゃられると、とても残念で」

 俯いて舌を出す。震える拳が見えるから、頬はさらに色を喪っているかもしれない。


 それが効いたのか否か、その後三日。女官長を始め、様々な人がフィリベールのもとへと向かっていた。

 結構なことだ、と笑う。

 その中にどれだけ彼の真実の味方がいるかは分からないが、唐突に命を狙われることもないだろう。


 そうして、アニエスの周囲は幾分静かになったというのに、突然通路を塞いできた男がいた。

「フィリベール様と一晩明かしたんだってね」

 唐突な行動に唐突な言葉を重ねられ、おしとやかの仮面をかぶって俯く。ふう、という溜め息が頭上から聞こえた。


 これまた背の高い男だ。アニエスとて決して低い方ではないのだが、完全に見下ろされている。

 気になるのは、その体の長さにあっていない衣装だ。袖も丈も足りていない。ひょろりと手首が見えているし、長靴と下衣の間には不自然な隙間がある。


「どうも、サロモン・マンシェです」


 告げられたのは名前だと察して顔を上げると、紫色の瞳と視線が合った。銀の髪を揺らして、ふふん、と男は笑う。

「先に名乗ったよ。君は?」

 なるほど、と舌を巻いてから答えた。

「アニエス・カロンと申します」

「へぇ」

 男はニヤニヤしている。


「どこの出身?」

「東のドゥワイアンヌ近辺で」

「ふぅん? 最近だっけ、王宮に上がったの」

「ようやく一月ひとつきを超えたところです」

「ほー! それはそれはお疲れ様」


 ぺちぺちと手を叩いて、サロモンは続けた。


「その間にフィリベール様と仲良くなったんだ。速いね」


 ぴくっと眉が動く。


「速いなぁ。最速じゃない? いや、俺が知らないだけで、実は今までもいたかもしれないけど。すくなくともここ一、二年では初めてだよ、多分。あの人、とことん人を寄せ付けないし、こっちもこっちでなかなか踏み込めないし。あ、でも、君が一晩過ごせたから芽はあるんじゃないかと、思惑がある連中が近づいて行ってるみたいだね。どこまで近寄れるかは知らないけど。ちなみに俺も、今みたいに軽口を叩けるようになるまでに半年かかったかな」


 じっと顔を見つめて、この男はなんだ、と考えていると。


「ああ、俺? 俺は、クレマン様――国王陛下の従者だよ」

 また先回って言われた。

「宰相ミュラン様のお引き立てで仕えている。それもあって最初はフィリベール様に嫌がられたんだけどね。実績は大事だよ、ちゃあんと陛下に仕えていたら、陛下の周りだけは任せてもらえるようになった」


 びしっと指を立てて言う男に、


「君の実績は? 一晩を過ごせるようになるまで何をしたの? むしろ真っ白だからフィリベール様も近づきやすかったのかな」


 両手で口元を押さえて、アニエスは溜め息を吐いた。

 庭園での出会いを言えないな、めでたい席を外す王太子を付けたら暗殺されそうになっていたので、思わず助太刀に入りました、などとは言えないと判断する。

 本人の主張どおり、王太子からある程度の信頼を得ているのだとしても、黙っていた方が良さそうだ。


 アニエスが言葉を発さないでいると、サロモンは肩を竦める。


「せっかく話せてるんだから、もっと聞かせてよ。君、今まで何をしてきたの?」

「何、とは」

「王宮に来る前だって構わないさ」

「お答えできるようなことは、何も」


 何もない。このアニエスには答えられない。

 本物のアニエス・カロンがどんな娘かは知らないのだから。

 ハルシュタットでは別の名で呼ばれる自分が、勝手に使っているだけ。

 真実、王宮に使える女官となるはずだったけれど、もう冷たくなって土の下にいるだろう。

 彼女をそう至らせた、ハルシュタットがエドゥアルト王の思惑も。


 ――真実の王について言わないならば、そこについては味方じゃない。


「何もお答えできることはないのです」


 か細い声を出すと、サロモンはあからさまにがっかりした顔を見せた。

「つまらないなぁ」

 でも、と口の端を持ち上げる。

「フィリベール様に妙な真似をされると困るんだ。僕が宰相様のご紹介って時点で察してね」


 疑問の声をかろうじて呑み込む。


「まあ、俺にとってあの人は命令できる人じゃないんだけど――と、これは余計か」


 コホンと咳を一つ。サロモンはヒヒッと喉を鳴らした。


「身の安全は気をつけた方がいい。そこまでフィリベール様に踏み込むなら」

 ね、と片目をつむられる。


 だから、怯えた風を装った。

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