09.死なないと言い切れるのか?

 卒倒したジスランは、それはもう大事に大事に、担架に乗せられていった。


 それから、鳥の死骸の始末、茶器の処分、衛兵たちによる逃げた男の捜索。

 諸々が済むのを見届けてからフィリベールは、サロモンを引き摺って、ジスランの部屋を訪ねた。


 部屋には、先客がいた。

義母上ははうえ

「こんにちは、フィリベール」


 ふわり笑って、女性が振り返る。

 王妃ジェラルディーヌ。

 齢40とは思えぬ、艶のある肌と豊かな金の髪。襞の多いドレスは特級品の絹で、輝く瞳と同じ色のサファイアのブローチが首元で輝く。その高価な装いにも負けぬ優美な笑顔を向けてきたのは、フィリベールの父、現国王クレマン四世の二番目の妻だ。ジスランの実母で、フィリベールにとっては義理の母となる女性。


 部屋の中央の長椅子に腰掛けた彼女に近寄って、恭しくその手を取る。そこに親愛の口づけを落とすと、王妃はくすぐったそうな声を上げて。

「恐ろしいことがあったのね」

 と、言った。


「よく気がついてくれたわ、フィリベール」

 両手でフィリベールの右手を握りしめて、彼女は続けた。

「御蔭でジスランもあなたも死なずに済んだ」

 素直に、はい、と頷く。


「義母上の周りでは、おかしなことはないですか?」

「大丈夫よ。恐ろしい目に遭ったりなんかしていないわ」

 ゆっくりとジェラルディーヌは頷く。

「皆にしっかり守ってもらっているもの」


 王妃は視線を奥の寝台へと向けた。そこではジスランが寝こけているのだが、さらにその奥で女官と従者が一人ずつ控えている。王妃自身が座る長椅子の後ろにも、背筋を伸ばした女官が三人立っている。

 実に物々しい。


「付けいる隙も無いってね」

 後ろに立っていたサロモンが呟き、振り返って睨む。

 ジェラルディーヌは聞いていたのかどうか、微笑んだまま。フィリベールの手も離さない。


「あなたの身の周りも大丈夫? 衛兵からは逃げた者が捕まっていないと聞いたわ。その者が諦めずに襲ってくることもあるかもしれない、とも。用心なさい。きちんと護衛は付けるようにね」

「ええ…… ありがとうございます」


 腰を折る。後ろでまたサロモンが何か言おうとしそうだったから、ひっそり睨んだ。


「義母上がいらっしゃるなら、わたしは戻ります。ジスランをお願いします」

「勿論よ」


 今一度親愛の口づけを送って、フィリベールは廊下に出た。


「いやぁ、大事にされていましたね」

 開口一番、サロモンが嗤う。

「フィリベール様とは大違いだ」

 ぎゅっと睨むが、今のサロモンは黙らない。

「気付いたことといい、その後の始末に付き合っていただいたことといい、貴方は平気なんですね」

「何がだ」

「血が、ですよ」


 サロモンがくっくっと喉を鳴らす。フィリベールは、溜め息を吐き出した。


 鳥が死んだくらいで何を、と思ったのだが。本当はあれくらいでいいのだ。

 フィリベールが馴れすぎなのだ。

 血を見ることに。襲われることに、身も守る手段を選ばないことに。


 言葉は出てこない。だから、絨毯敷きの廊下をひたすら進む。

 サロモンは相変わらず追ってきている。


「で? フィリベール様、護衛はどうします?」

「別にいらない」

「衛兵じゃなくても、誰か付けましょうよ」

「誰もいらない」


 そう言ってから、ふと面影が脳裏を過った。


 ――アニエスは?


 自分で身を守れると豪語した彼女は?


 ぴたり、足が止まった。

 サロモンは追い越してきて、前に立つ。ニヤニヤと見下ろしてくる。


「……何を期待しました?」

「なんでもない」

「本当に? 噂の彼女じゃなくって?」

「サロモン!」


 叫ぶ。サロモンもぶっと吹き出した。


「ただの女官じゃあ、護衛にはならないでしょうけどねえ。一緒にいるだけなら問題ないでしょう? いいじゃないですか、呼び出せば」


 ――ただの女官なら。


 アニエスがただの女官のはずはない。だがそれを、どこまで話していいのだろう。

 そう感じた理由も、そう感じるに至る現状も、何もかも、黙っていた方がいい。

 フィリベールはだんまりを決めた。


 そして、無遠慮に眺めてきた挙げ句。

「ま、俺でも力になれますけど?」

 サロモンは急に真面目な顔になった。

 逆にフィリベールは吹き出してしまう。


「おまえはいらない」

「えー」

「おれはいいから、父上のところに行け」

「あー、まあ、そうですねえ。そろそろ戻らないと職務怠慢って言われそうだ」


 じゃ、と手を振られた。瞬間、甘い香りが漂う。

 そのままサロモンは別の廊下を進んでいく。



 ――何奴も此奴も。


 両手で頬を叩いて、夕暮れの廊下を大股で進む。独りだ。



 いつから独りだろう。

 母が産褥で亡くなってからだろうか。従兄が一族をまとめるために王都を離れた時だろうか。それとも?



 辿り着いた自室の扉を開けて、ぎょっとした。

 真ん中に大きなテーブルが置かれた部屋には、明かりが点いている。奥の寝台へと続く扉は開け放たれていたが、床に散らばっていたはずの紙は一つにそろえられて棚に置かれており、乱雑になっていた棚の引き出しはきれいに閉じられている。

 その中を褪せた青のドレスが翻る。


「何をしているんだ、おまえは」

 問うと。

「部屋の中を確認しておりました」

 アニエスは振り返ってきた。


「棚にも窓にも、特に仕込まれているものはなさそうですね」

「何が仕込まれるって言うんだ」

「寝台に毒針というのを一番に思い付きましたが。念のため床も確認させていただきました」

「あのなぁ……」


 よろよろと部屋を突っ切って、寝室へ。

 小さなランプが中をオレンジに染めている。腰高の窓は細く開いていて、カーテンが揺れていた。寝台のシーツは洗濯し立てのもので、ピンと張られている。

 そこへ、フィリベールはどさりと倒れ込んだ。


「日頃からそのように寝転がられているのですか」

 後ろから聞こえるアニエスの声が厳しい。

「おれの部屋だ、何をしても構わないだろ?」

 拗ねた声で返事を返すと。

「もうすこし、用心なさったほうがよろしいのでは? 本当に毒針でも毒蜘蛛でも、仕掛けられていたらどうするのですか」

 固めの溜め息が被さってきた。


「この王宮の衛兵は当てになりません」

「はっきり言う」

「一ヶ月の間に2回も暗殺者の侵入を許しておいて、信用なるものですか」

「おまえがいうのか」


 吹き出して、体を起こす。

 見れば、彼女はすぐ傍に背筋を伸ばして立っていた。


「私は暗殺者ではないので」


 視線も声も真っ直ぐだ。

 なのに、フィリベールの心臓は揺れた。


「おまえは、おれを、殺さない」


 衝動のままに呟く。アニエスは頷いた。


「生き延びられるよう、お守りします」

「どうやって」

「傍に控えまして」


 朗らかな声が向けられて。つい。


「……天井のシャンデリアが落ちてきて、傍にいた従者が死んでしまったことがあったんだ」

 言葉が零れた。

「おれが乗った馬が暴れて、そこから助けてもらう時に死んだ兵もいる」

 どちらも、従兄が領地に向かった後のことだ。続いた不幸に従者も衛兵も怯えて、近寄らなくなった。

「その後に、ずっと世話になっていた女官が階段の下で死んでいるのが見つかった」

 事故か事件か、誰も調べてくれなかった。もう、フィリベールではどうしようもできなくなっていた。

「今日みたいに、食事に毒が入れられたのも初めてではないんだ。食べてしまって」

 あの時は本気で死ぬかと思ったけれど。

「食べたのがおれだけで良かったとも思ったんだ」

 独りでいれば、誰も巻き込まれない。自分のせいで死んだりはしない。

「でも、襲ってこられたら、おれは其奴を殺すんだ。死にたくないから」


 言い放つ。


「おまえは死なないと言い切れるのか?」


 この間ずっと傍に立っていた彼女が、ふと、両手を伸ばしてきた。


「私は私の身を守れますし、貴方のこともお守りできます」


 両手で頬を包まれた。そのまま、顔と顔が近づく。


 一度目の前が暗くなって、それから明るくなって。フィリベールは、ぽかん、とアニエスの顔を見つめた。


 長い髪がかかっていることが多い、薄化粧が施された顔。細い眉に、切れ長の瞳、すっきりした鼻梁。そして、赤く潤った唇。

 あの唇が、フィリベールのそれに重ねられた。


 かあ、っと体中が熱くなる。ぱくぱくと口を動かすことしかできないでいると、ふふふ、とアニエスは声を震わせた。


「これしか慰め方を知らないのです」


 もう一度、口づけ。それから両腕で抱きしめられた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る