08.刺激が強過ぎた
お茶でも如何、という伝言に目眩を覚えた。
弟に声を掛けられるなど、彼の誕生祝いの会よりずっと前から――もう三ヶ月も無かったかもしれない。
フィリベールは胸の裡にどろりとした想いを抱えて、指定された場所に向かった。
王宮の庭園、小道の向こうにある
脇では、スズランが白い花と緑の葉を揺らし、雀が群れている。噴水は今日もしぶきを上げる。
泉に目を向けないようにしながら、席に着く。
「一人で来たの?」
と、ジスランが訊くのに頷いた。
「おれについてくる奴なんていない」
「そんなわけあるものか。一応、王太子なんだ。供をせよ、って呼べば良いんだよ。どうして
無邪気そうに見える笑顔でジスランは周囲に視線を巡らせる。
四阿を囲むように、衛兵も、従者もいる。皆、ジスランが連れてきたのだろう。そして、給仕に立っているのはサロモンだと知って、フィリベールは眉を吊り上げた。
「おまえ、ここで何をしている」
「何ってお茶出しです」
「父上はどうした」
「今日はお加減がよろしいらしくて、起きてますよ」
「さっき政務で会ったから、起きているのは知っている。部屋でも寝ないで過ごされているのか」
「ええ」
「じゃあ、傍でお仕えしろ。おまえは父上の従者だろう」
「その父上様のために来たんですけど」
肩を竦め、サロモンは紫の目を細めた。
「ご兄弟が恋の鞘当ての真っ最中みたいだから、様子を見て来なきゃって」
顔が赤くなる。帰ろうか、と思った。
しかし、サロモンが素早く後ろに回ってくる。
「はい、どうぞ。座ってください」
渋々、引かれた椅子に座る。
程なく、目の前に湯気を立てた茶器が置かれた。
風が運んでくるのは花の香り。噴水の音。それを揺らすのは雀の
一口で丸呑みできる大きさの焼き菓子は、単純な三角や四角だけでなく、貝殻、薔薇と、様々な形がある。干し葡萄が混ぜられたり、砂糖がまぶされたものもある。
そのうちの一つを摘まもうとして、フィリベールは動きを止めた。
ジスランはゆっくりとお茶を飲み込んでから、口を開いた。
「最近どう?」
「どう、って……」
「忙しいのかな?」
「勿論」
ここのところずっと、ぼんやりした所作の多くなった父王に代わって、政務に携わっているのだ。忙しくないわけがない。
国中のことを知るのは大変だ。
自分を敵視しているのだろう人たちの中にずっといるのも、気が張る。
張り詰めて張り詰めて、糸はいつか切れてしまうのだろうか。
――父上もそうやって、壊れていったのだろうか。
考えていると、お茶の器も持ち上げられない。
「食べないの?」
首を傾げて、ジスランは三つ目のマドレーヌを口に入れた。
「食欲も湧かないくらい、恋煩いに忙しい?」
「……あのなぁ!」
顔が熱くなる。ジスランは涼しげな表情だ。
「ずっと考えこんでいるみたいだったから。今は考えることって言ったらそうかなって」
焼き菓子をまた頬張って、彼は首を傾げた。
「サロモンや、噂を楽しんでいる人たちには悪いけどね。俺は別に特別あの子に入れ込むつもりはないんだ」
「じゃあ、なんでおまえまでアニエスを呼びつけるんだ」
「おや? 俺があの子を部屋に呼んでのは知ってるんだ?」
ぐっと言葉に詰まる。ジスランはにたりと笑う。
「気になる?」
「ならない!」
叫んで、横を向く。ますますお茶と焼き菓子が遠くなる。
「なんだ、残念」
くすくすとジスランは声を立てる。その指先に零れていた焼き菓子の欠片は、ぱらぱらと床に落とされる。すぐに囀っていたはずの雀が寄ってきて、それをつつき始めた。
「兄上が本気の恋をするなら、見守ってあげようと思ったのに」
「なんでそうなるんだ」
「気になるから」
それと、とジスランはゆっくりお茶を啜った。
「兄上が本気になれるなら、俺もなれるかなって」
止まった笑い声に、振り返る。
予想外に、ジスランは口元にはうっすら笑いを浮かべていた。
「本気になってみたいよね」
「それは恋にですか」
ずっと黙っていたサロモンが、やれやれと言わんばかりに肩を竦めた。
それから、ジスランの器にお茶を注ぐ。
「フィリベール様も、器貸してください。冷めちゃってるでしょうから、入れ替えますよ」
「ああ、頼む……」
「俺には3杯目も貰える?」
「飲みますねえ、ジスラン様。おなか壊しますよ?」
「壊したらお見舞いに貴婦人方が見えるさ。その中に彼女はいるかな?」
「だからいちいちアニエスを話に出すな!」
「ああ、これはもう、鞘当てにならないですね。フィリベール様一人がぞっこんじゃないですか」
「どうしてそうなるんだ!」
叫ぶ。サロモンは穏やかな顔だ。
「国王様には、王太子様に運命の恋人が現れたようです、とご報告します」
「しなくていい」
「俺にはいないかな」
「ジスラン様にはイザベル王女様がおいででしょう」
「恋人じゃなくて、婚約者だろう? それも政治がらみの。ちっともときめかないね」
「世知辛いなぁ」
フィリベールそっちのけで、ジスランとサロモンは喋っている。雀もぼろぼろ零れたくずをつつき続けている。
入れ替えてもらったお茶も、結局温くなってしまいそうだ。
溜め息を吐く。視界の端に、焼き菓子とポットを載せたワゴンが押されてくるのが見えた。
押しているのは見知らぬ顔の男だ。丈はともかく、肩幅が合っていない衣装を着ている。
――新入りか?
その男は、ぴたり、四阿の脇で止まると懐から小瓶を取り出して。
きょろり周囲を見つめてから、その口をポットの口に当てた。
フィリベールは、地面に落ちる影の動きを見つめていた。
小瓶の影の動きに、背筋がぞわりと撫で上げられる。
呼吸もできない間に、男は素知らぬ顔で、ポットを携えて四阿に入ってきた。
「もっとお茶のお代わりができるね」
ジスランが言うと、サロモンが頷き、男はポットを渡そうとするので。
「待て!」
叫ぶ。
「おまえ、そのポットを一度下ろせ」
フィリベールが言うと、ジスランは小さな声を上げ、サロモンは目を瞠る。
一介の従者という
その顔をぎゅっと睨む。
「おまえ、さっき、ポットに何をした」
「何を、とは……」
声も震えている。その男へ一歩踏み出す。
「四阿に入る前に、ポットに何かぶつけただろう?」
「……べ、別、に」
「見えていた。何をしたのか答えられないなら、そのぶつけたものが何か、を答えろ」
低く唸りながら、もう一歩。フィリベールが踏み出した分、男が下がる。
開きそうな距離を、サロモンが一気に詰めた。勢いで男の襟元を掴む。
わ、と声を上げた男は、サロモンの腕を掴んだ。ピクリとも動かないまま、サロモンは笑う。
「で、どうします?」
「……どうするって」
は、とフィリベールは息を吐いて。男の顔を見た。
まだ真っ青だ。
じっと見つめて、上着の中を確認しろ、と言った。サロモンは男の上着の中へ反対の手を突っ込んだ。
「これですか?」
左手で掲げられたのは、掌にすっぽり納まりそうな小瓶。中は見えない。
「なんだ、それ」
ジスランは目を細める。
サロモンは黙って、小瓶をフィリベールに投げてきた。
その蓋を開けて、焼き菓子の欠片をつついている雀へそっと近づいた。
中身を焼き菓子へとかける。
一瞬の静寂。そのあと、一羽、ピンと体を伸ばして。くちばしからぶくり泡を浮かべて、倒れた。
「おお。随分効き目が良いですね」
サロモンが言って、ジスランが悲鳴を上げた。
そのまま、彼の体が傾いて、椅子から転げ落ちる。
「ジスラン!?」
「おや、刺激が強過ぎたかな」
フィリベールとサロモンがそちらを向いた瞬間。男が大声を上げて、体をねじる。サロモンが手を離し、よろめく。
制止する間もなく、男はかけだして、茂みの向こうへ消えていった。
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