06.頼られるのは嬉しいこと

 王太子殿下がお呼びです。


 伝言に来た近衛兵は些か慌てていた。

 聞いた女官たちはあからさまに驚いた。女官長に至ってはアニエスに詰め寄ってきた。


「おまえ、殿下に何をしたのです」


 わざと俯いているから、彼女の様子は目の端でしか確認できなかったけれど。随分な動揺だ。そう思いながらアニエスは首を横に振った。


「何も? 嘘でしょう!? そうでなければ、もうずっと、人を呼び立てることのなかったフィリベール様が、女官わたくしたちを呼びつけるわけないでしょう?」


 放っておくことが良しだったのだ、と分かる。

 ミュラン宰相とその一族が席巻する王宮の中で、ましてや彼女は一族に連なる者なのだ。流れに逆らう真似はするまい。


 それでも。

「仕方ないですね」

 立場上、答えは一つしか無い。コホン、と咳払いを一つ。

「お行きなさい。すぐに!」

 女官長は叫んだ。



 衣装と花束を届けに行った日から三日。案外早い呼び出しだったな、とアニエスは胸の裡で笑ったのだが。


 出向いた先の部屋には。

「本当に来たのか」

 と、目を丸くしてのたまう人。


「……貴方が呼んだのでしょう」

「本当に来るとは思わなかったんだ」

 そう言って、フィリベールは日に焼けていない頬を赤く染めた。

「王太子がお呼びとあれば誰だって来ますでしょう、普通は」

 呆れた、という気持ち声音に滲ませる。


 来ないというのが当然の状況。

 国王よりも宰相が権勢を振るう情勢の中とは言え、あんまりだ。

 この王宮に集った者はすべからく、時流におもねることしかできないのだろうか。


 それに。


 ――ハルシュタットの誰も気付いていなかった、なんてことはないでしょう?


 セドリックをはじめとして、王宮の中にはアニエスも知らないハルシュタットの間諜がまだ潜り込んでいるはずだ。

 その誰もが、王太子の冷遇に気付いていなかった、なんてことはあるだろうか。

 釈然としない。


 お互い、頭の中が忙しいからか、黙ってしまう。

 その奇妙な静寂を破ったのは、フィリベールの方だった。


「来ると思っていなかったから、別に用事はないんだ」

「左様でございますか」

「しいて言うなら、そうだな―― 聞きたいことがある。おまえ、女官長たちの前で猫を被っているのか?」

「……はい?」


 瞬くと、フィリベールは視線をそらした。


「いや…… おれの前に現れる時と、この間、父上の部屋で見た姿とで随分違うなと思って…… うん、なんでもない」


 壁を背に、王太子はそのまま明後日の方向を向いたまま。アニエスは吹き出した。


 ――貴方の前で、お淑やかに振る舞いそびれたのですよ。


 夜の庭園で。月明かりだけの中で光る刃と対峙するのに、怯える令嬢の素振りなどできるはずがない。

 そもそも、暗殺者をやすやすと片付けた王太子も、あの時の俊敏さとは打って変わった戸惑い様だ。


「お互い様でしょう」


 クスクス笑いながら、息を吐いて。

「質問はそれだけですか」

「ああ」

「……本当に何もないのですね」


 アニエスは部屋の中を見回した。


「呼ばれたからには、何かして帰りませんと私の立場がございません」

「そ、そうかもな」


 じりじりと振り返ったフィリベールに、アニエスは笑みを向けた。


「なので、お花を取り替えましょうか」


 指さした窓際で、先日飾ったライラックは萎み始めている。水を取り替えてやればまだ息を吹き返すかもしれないが、それだけでは寂しいだろう。

「庭園では、早咲きの薔薇が開き始めたようですよ。ラベンダーもいいかもしれませんね」

「……絵に描きやすい花がいいな」

「かしこまりました。庭師に相談して参りましょう」


 恭しく礼をして、アニエスは一度外に出た。



 ――さて、どうしようか。


 廊下を歩くときは、物静かで、口答えなどしない女官の顔をする。けれど思考は賑やだ。


 おとなしいふりをしていたほうが何かと動きやすい。それが、様々な場所に潜り込んできた中で身についた知恵で、技なのだが。

 もう、王太子の前ではもう取り繕えない。刃にも血にも怯えない女として過ごすしかない。だが、問題なさそうだ。

 先日は勢いで「護ることができるから呼べ」と言ってみたが、今後はもっと彼が自分を呼びたくなるように動いてみようか。


 ――あの慌てようは面白かったわ。


 つい、ふふ、と声を零して。両手で押さえる。

 ぎゅっと眉の間に力を入れて、考えを巡らせる。


 ――傍にいる機会が増えれば、死なせるな、という命を果たしやすくなるかしら。


 思案に一区切りついたところで、ちょうど庭に着いた。

 予想どおり、春から夏に変わる花園は芳しい。

 香りの中を突っ切って庭師たちの詰め所に向かえば、快く花束を用意してくれた。

 薄紅のガーベラと青いデルフィニウムをまとめた大きな束を抱えると、自然と笑みが浮かんでくる。


 そうやって軽い足取りで戻ってきた庭園は、ざわめきに満ちていた。


 人が集まっているのだ。

 植栽の向こう、舗装された小道が集まる真ん中に、女神像が飾られた噴水。

 その前のベンチに腰掛けていたのは、第二王子のジスランだ。


 陽光を集めたかのような金の髪に、強い光を宿したサファイアの瞳。

 座っていても、体が鍛えられていて大きいのがよくわかる。瞳の色に合わせたのだろう青い地に金糸の刺繍が施された上着も、革の靴も、眩しい。


 彼を囲うのは、文官ばかりざっと二十人ほどだろうか。皆そろって、上等の衣装を纏い、声高く笑っている。

 そんな集まった人々の顔を順に見遣り、アニエスは目を見張った。


 集まった中にセドリックがいる。


 茂み越しの視線に気がついたらしい。

 彼は振り返ると、穏やかな微笑みを浮かべて、手を振ってきた。


 その場で、ドレスをつまみ、礼をする。

 ゆっくり顔を上げると、セドリックとジスランが喋っているのが見えた。

 それから、セドリックがこちらに歩いてくる。


「やあ、アニエス」

「ごきげんよう、セドリック様」


 おとなしい娘の顔で、もう一度頭を下げる。

「最近、ジスラン殿下のお供をさせていただく機会が増えてね。今日も政治談義に参加させていただいているんだよ」

 彼の表に張り付いているのも、真面目な文官の顔だ。

「そんな中だが、来てくれないかな。殿下が是非紹介してくれとおっしゃるのでね。ほら、おまえは僕の親族という伝手で王宮に上がっているし、何より一度、宴の席で一緒に踊っているだろう?」


 有無を言わせぬ口調で、一瞬だけ顔を近づけてきた。

「我らが真実の王に仕えよ」

 これはハルシュタットの王の益に繋がることだ、と暗に告げられる。

 頷き、目を伏せて、後に従う。


 見知らぬ文官たちが笑うのを止めた中を進む。腰掛けたままの王子の前で、二人並んで頭を垂れる。

「もっと早く紹介してほしかったな」

 ジスランはそう言って、鷹揚に笑った。


 その前で頭を下げて、セドリックは温度の違う声を出した。

「何分おとなしい娘ですので、なかなか機会を作れず」

「おとなしいけど、しっかりしているだろ? ダンスも上手だった」


 ね、と首を傾げられて、肩を揺すった。


「おまえの親戚の子だって知っていれば、あの晩もっとたくさん踊ったのに。それに、宴でなくても、セドリックの親戚なら、俺ともっと親しくなっていいと思うけど?」

「いいえ、いいえ」


 静かに、控えめに、ともすれば怯えていると受け取られかねないくらいに声を揺らすと、ジスランが笑う。

 花束をぎゅっと抱え直すと、右手にジスランが触れてきた。


「王宮の仕事はどうだい?」

「精一杯やっております」


 微笑まれても、ぎこちない動きを心掛ける。


「この花束も仕事?」

「はい。王太子殿下のお部屋に飾るお花です」


 告げると。セドリックは目を丸くして、ジスランは口元を歪めた。


「あいつの部屋の?」

 目を細めて、第二王子は言った。

「それは羨ましい話だな。後で、俺の部屋にもお願いできるかな」

 ふと顔を上げて、アニエスは瞬いた。


「ジスラン様のお部屋にも?」

「そう。だって羨ましいからね」


 ジスランがにっこり笑う。どこか引き攣ったような笑いだ。

 腹違いの兄に、相当含むところがあるのだろうか。


 ちらりセドリックを見遣ると、彼は薄い唇を綻ばせた。


「頼られるのは嬉しいことだ。必ずお持ちしなさい」

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