05.付いてくるなと言われておりません
あの晩の女だとすぐ分かった。声で判った。
噴水のしぶきが響く中でもはっきり聞こえた声は忘れられるはずがない。
だが、姿は別だ。あの時は月光の下、今は昼間の明るさの中。今の方がずっと、何もかも、よく見える。
絵に描く、という行為にかこつけて、フィリベールは相手をじっくり見つめてしまった
背丈はやや高めといったところだろう。背筋を伸ばして立つから尚更すらりとして見える。細いけれど、女性らしい曲線で作られた体躯だ。
その艶めかしい体で、窮屈そうなドレスを着ている。襟の詰まった、流行遅れの形のドレスだ。褪せた色合いなのも、単純に古い服だからだろう。
だが、まだ若い。自分とそう変わらない。
化粧は薄く地味なものだけど、長い髪と形の良い唇は潤って、艶めいていた。
赤い唇をじっと見つめてしまった気恥ずかしさから、絵はキャビネットに突っ込んだ。見返したくない。
動揺を悟られないうちに、と自ら部屋を出た。
それなのに。
アニエスという名乗る彼女は、後ろをぴったり付いてくる。
――何故付いてくる!?
早歩きのせいだけでなく、心臓が波打つ。
もうずっと、放って置かれるのが常だったから、傍に誰かがいるという状況が逆に落ち着かない。
さらに、絵を描いている間にじっとしていてくれたから。
長らく居なかった味方ではないか、と期待したくなる。
期待などしてはいけないはずなのに。
愛は王冠より冷たいと嗤った、サロモンの顔が脳裏を横切っていく。
向かった先の部屋には、そのサロモン当人がいた。
「あれ、どうしたんですか殿下?」
ぱちくりと瞬く長身の従者に。
「父上の見舞いだ」
ぶっきらぼうに言い放つ。
部屋を抜け出す口実に使っただけから、本当に来る気は無かったのだけれども、というフィリベールの心中はさておいて。
「ご丁寧にどうも」
サロモンはぴょこっと頭を下げ、素直に中に入れてくれた。
国王の寝室の中は、わずかにざわめいていた。単純に人が多いのだ。
重宝がられている従者のサロモンだけでなく、女官が片手では数え切れないほど詰めている。扉の左右も近衛兵が固めていて、とても病人を休ませようとしているとは見えない。
もっとも、当人――クレマン四世はぐっすり寝ていたが。
地位に合わせた広さの部屋の中には甘い香りが漂っている。
ここの窓際にもライラックが飾られていたから、その香りか、と納得しかけて。
父が眠る寝台の周囲が一番香りが強いと気がついた。だとしたら、薬の匂いなのだろうか。
「医師は来たのか?」
問うと、サロモンが頷く。
「ちゃんと顔を出していただきましたよ。ま、手の打ち様が無い、って感じでしたけどねえ」
それでいいのか、と詰め寄りかけて、止めた。
どうせ、その医師も宰相の息がかかっているのだろう、と思ってしまったから。
このまま父王がずっと目を覚まさなかったら、どうなるのだろう。国中がミュラン宰相の思うままになってしまったら、自分の命は?
ぞわり、背筋が揺れる。
恐る恐る振り返ると、護ることができる、と豪語した娘が立っていた。
――まだ、居た。
ただ、先ほどとは打って変わって。背中こそ丸まっていないものの、俯いていて、長い髪が何房も垂れて顔を隠してしまっている。
口元もきゅっと結ばれている。
「誰ですか、その子」
サロモンが指差す。
フィリベールが答えるよりも先に、近寄ってきていた女官長が口を開く。
「新人です」
穏やかそうな笑みで、女官長はアニエスに詰めよった。
「何をしているのですか」
「……殿下のお供をしております。どなたも付いていらっしゃらなかったので」
か細い声でアニエスが答える。
こんな声も出せたのか、とフィリベールは目を丸くした。
それに構わず、女官長は続ける。
「勝手はしないように。殿下につきまとうような真似はいけません」
アニエスは俯いたままだ。微かに肩を振るわせている様は、泣いているようにも見える。
「あまり騒ぎを起こさないようにね」
「はい」
小さな返事に満足げに頷いて、女官長は離れていく。
「騒ぎ…… ねえ」
サロモンが喉を鳴らす。
「君はもう充分に騒ぎになりそうだけど?」
紫の目に楽しそうな光を宿して、アニエスに向かう。
ほんの一瞬、ちらりと視線を上げただけで、彼女はまた顔を伏せた。きゅ、と体の前でドレスを握り込んだ仕草は、怯えているように見える。
フィリベールがきょとんとしている一方で、サロモンはにやにやしていた。
「この間の、誕生日の宴でね、まあ、またジスラン様が女の子を取っ換え引っ換えしてたんですけど。この子、そのうちの一人でしょ?」
ね、とサロモンが銀の髪を揺らして、振り返ってきた。フィリベールはやはり目を丸くして、首を振る。
弟と踊っていたなんて、知らない。だけど、サロモンは確信のこもった声で言う。
「ジスラン様は常に取っ換え引っ換えですからね。やっと成年だって言うのに、もう何人女性を泣かせたんだかってくらいに。で、困ったことに、あの晩相手してくれた子に手を出そうとしているらしいんですよねー」
思わず、額を押さえた。
「ジスランはどうして、そういうことを……」
呻くフィリベールに対して。
「婚姻間近ですからね、落ち着いてほしいものですけど」
サロモンはへらへらと笑うだけだ。
その後はもう少しだけ、父の様子の話をした。
結局ただ寝ているだけらしいと結論づけて、フィリベールは父の部屋を後にした。
歩いていくと、後ろでもう一つ足音が響く。
「なんでまた付いてきたんだ」
フィリベールは勢いよく振り返った。
「おれに構うなと言われていなかったか?」
「既に女官長様は私を見ておりませんでしたので、止められませんでした」
アニエスはけろりとした顔だ。
「それに何より、貴方から、付いてくるなと言われておりません」
くらり目眩がした。
何を狙ってそんなことをしている。
フィリベールは溜め息を吐いて、また問いかけた。
「おまえ、何者なんだ」
「アニエス・カロンと申します」
「出身は?」
「東方のドゥワィアンヌ地方の……」
「嘘を吐け」
思わず睨む。
「おまえの話し方は東の方の喋りじゃないんだ」
声で覚えるほどなのだ。分からないわけはない。
彼女の発音の端々に滲む訛りは、母方の一族、従兄をはじめとした、頼みとする一族たちとは全く違う。
かと言って、西の辺境伯とも、南の出身のミュラン宰相の一族とも違う。
「北の出身だろう?」
言い切ると。
アニエスはぱちぱちと瞬いてから、素直に頭を下げた。
「恐れ入りました」
完璧な形の礼だ。
きっかり十数える間そのままだった後、ゆっくりと顔を上げる。真っ直ぐに見つめられて、息を呑む。
動けないフィリベールの視線の先で、アニエスの赤い唇が、優しげに綻ぶ。
「出身を詳しく申し上げることはできません。ですが、殿下をお守りしたいという気持ちに嘘はございません」
唾を飲み込んでやっと、フィリベールはもう一度問えた。
「嘘は無いと、何故言い切れる?」
「お守りしたいという気持ちに理由が必要ですか? この王宮に仕えるということは殿下に仕えることに繋がるのに? それとも、私のこの言葉に嘘がないことの証を立てよ、とおっしゃるのですか?」
「いや、そうじゃなくて」
何故、おまえはおれに近づこうとするんだ。
「おれに近づいたところで、何の旨味もない。むしろ巻き込まれて潰されるぞ」
この国の王家に成り代わりたい宰相たちに。それに追随する人々に。
そう言っているのに。
「独りは慣れております」
アニエスは朗らかに笑った。先ほどずっと俯いていたのが嘘のようだ。
「だからお気になさらず。殿下が傍に人を必要とした時はいつでもお呼び立てくださいませ」
誰かに笑顔を向けられたのは久しぶりだ。落ち着かなくて、フィリベールのほうこそ、俯いてしまった。
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